第8話 嵐の日の約束
夏の名残を含んだ湿った風が、窓ガラスをガタガタと揺らしていた。
夜になってから降り始めた雨は、深夜になるにつれて勢いを増し、今やバケツをひっくり返したような豪雨となっていた。
時折、遠くで低い雷鳴が轟き、稲光が空を引き裂く。
私は寝室のベッドで、大きくなったお腹をさすりながら、不安げに窓の外を見つめていた。
カイド様はまだ帰宅していない。
夕方から領内の一部で大雨による川の増水が懸念され、その対策指揮のために出かけているのだ。
「大丈夫かしら……」
彼なら無事だと分かっていても、やはり嵐の夜に一人は心細い。
お腹の赤ちゃんも不安なのか、今夜はいつもより激しく動いている。
その時。
ドォォォォン!!
すぐ近くで雷が落ちたような轟音が響いた。
屋敷全体がビリビリと震え、一瞬、部屋の中が真っ白な光に包まれる。
「きゃああっ!」
子供部屋の方から、悲鳴が聞こえた。
リナの声だ。
「リナ様!」
私は重い体を起こし、ガウンを羽織って廊下へ出た。
走ることはできないけれど、できる限り早足で子供部屋へ向かう。
扉を開けると、そこにはベッドの上で布団を被って震えるリナと、その隣で背中をさすってあげているルカの姿があった。
「ママ!」
私の姿を見て、リナが布団から飛び出し、抱きついてきた。
その体は小刻みに震えている。
「こわい……かみなりさま、おこってるの?」
「大丈夫よ。ただの自然現象だもの。……こっちへいらっしゃい」
私はリナを抱きしめ、ベッドの縁に腰を下ろした。
ルカも心配そうに私の顔を見上げる。
「リナ、すごく怖がってて……僕、どうしたらいいか分からなくて」
「いいのよ、ルカ様。そばにいてあげるだけで十分よ」
私がルカの手を握ると、彼の手は冷たくなっていた。
彼だって怖いはずだ。まだ六歳なのだから。
それでも、妹を守ろうとして必死に耐えていたのだ。
「……パパは?」
リナが涙目で聞く。
「パパはお仕事よ。みんなが安全に過ごせるように、川を見に行っているの」
「パパも、かみなりのところにいるの?」
「ええ。でも、パパは強いから大丈夫よ」
そう言って聞かせても、リナの震えは止まらない。
また一つ、大きな雷鳴が轟く。
リナが「ひっ」と息を飲み、私の胸に顔を埋める。
その時だった。
ルカが、意を決したようにリナの背中に手を回した。
「リナ。……僕がいるよ」
震える声で、けれど力強く言った。
「パパがいなくても、僕が守ってあげる。……僕はお兄ちゃんだから」
その言葉に、私はハッとした。
あの日、カイド様から留守を託された時のルカの顔。
あの時の決意が、今も彼の中に生きているのだ。
「……おにいちゃん」
リナが顔を上げ、ルカを見る。
「こわくないの?」
「こ、怖くなんてないさ! 雷なんて、パパのいびきより小さいよ!」
ルカが強がって見せると、リナが少しだけ笑った。
パパのいびき。
確かに、疲れて帰ってきた時のカイド様のいびきは、なかなか豪快だ。
「それにね、リナ。……もうすぐ赤ちゃんが生まれるだろ?」
ルカが私のお腹を指差す。
「赤ちゃんは、もっと怖がりかもしれない。……だから、僕たちが強くなって、守ってあげなきゃいけないんだ」
「……守る?」
「うん。お兄ちゃんとお姉ちゃんが怖がってたら、赤ちゃんも怖くなっちゃうよ」
ルカの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
彼は知っているのだ。
守るべき存在がいることが、人を強くするということを。
カイド様から教わった「強さ」の本質を、彼は理解し始めている。
「……わかった」
リナが涙を拭い、コクンと頷いた。
「リナ、なかない。……おねえちゃんだもん」
彼女はそっと私のお腹に手を当てた。
「アカチャン、だいじょうぶだよ。……おねえちゃんがいるからね」
その小さな手に込められた勇気に、私は胸が熱くなった。
この子たちは、いつの間にこんなに成長したのだろう。
ただ守られるだけの存在から、誰かを守ろうとする存在へ。
その変化こそが、家族が増えることの本当の意味なのかもしれない。
「ありがとう、二人とも。……赤ちゃんも、きっと喜んでいるわ」
私が二人を抱きしめると、温かい体温が伝わってきた。
外の嵐はまだ続いているけれど、この部屋の中には確かな安らぎがあった。
しばらくして、階下から扉が開く音と、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ただいま!」
カイド様の声だ。
私たちは顔を見合わせ、急いで階段を降りた。
エントランスには、ずぶ濡れになったカイド様が立っていた。
マントから水が滴り落ち、床を濡らしている。
セバスチャンがタオルを持って駆け寄っているところだった。
「カイド様!」
「パパ!」
私たちが駆け寄ると、カイド様は驚いたように目を丸くした。
「起きていたのか。……怖がらせてすまない」
彼は濡れた体で私たちを抱きしめるのを躊躇い、一歩下がった。
けれど、ルカとリナはお構いなしに彼の足にしがみついた。
「パパ、おかえりなさい!」
「ぶじでよかった!」
「……ああ。ただいま」
カイド様は苦笑しながら、濡れていない方の手で二人の頭を撫でた。
「川の方はどうでしたか?」
私が尋ねると、彼は安堵の息を吐いた。
「堤防を補強したから、もう大丈夫だ。……これで安心して眠れる」
「お疲れ様でした」
私はセバスチャンからタオルを受け取り、彼の顔を拭いてあげた。
冷え切った頬に触れると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。
「……雷、怖くなかったか?」
カイド様が子供たちに聞く。
すると、ルカが胸を張って答えた。
「ううん! 僕がリナを守ってあげたんだ!」
「リナも、アカチャンを守ってあげたよ!」
得意げな二人の報告に、カイド様は目を細め、心底嬉しそうに笑った。
「そうか。……頼もしいな」
彼は濡れたままの体で、ルカを抱き上げ、高く持ち上げた。
「お前は、立派な兄貴だ。……俺の自慢の息子だ」
「えへへ……」
ルカが照れくさそうに笑う。
その笑顔は、嵐の夜の暗闇を吹き飛ばすほど眩しかった。
その夜、私たちは久しぶりに四人で(正確には五人で)一緒に寝ることにした。
広いベッドに川の字になって横たわる。
外の雨音はまだ激しいけれど、それはもう恐怖の対象ではなく、私たちを包み込む子守唄のように聞こえた。
ルカとリナは、カイド様の腕の中で安心しきって眠っている。
私はその寝顔を見つめながら、カイド様と手を繋いだ。
「……いい子たちですね」
「ああ。……俺たちよりも、ずっと強いかもしれない」
カイド様が囁く。
その言葉に、私は深く頷いた。
嵐の夜の約束。
「守る」と誓った小さな勇者たちの決意は、これから生まれてくる新しい家族にとって、何よりの贈り物になるだろう。
この家は大丈夫だ。
どんな嵐が来ても、この絆がある限り、揺らぐことはない。
私はお腹の赤ちゃんに「おやすみ」と告げ、幸せな眠りへと落ちていった。




