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後編


「エレノア様は、ずっとここに一人なの?」


 差し出されたマグカップを受け取って、幼い少年は目の前の魔女に尋ねた。甘い湯気が揺れるカップにふぅふぅと息を吹きかける。


「ジブがいるじゃないか」

「そうだけど……わあっ、ごめんねジブ」


 イスに腰かけ、床に届かない足をプラプラと揺らす少年の脛を、黒猫の尻尾がぺしりと叩く。慌てて両ひざを持ち上げた様子を見て、銀髪の魔女はカッカッカッと豪快に肩を揺らした。


「そうじゃなくて……魔女は結婚しないのかなって。不思議だなって思ったんだ」

「不思議?」

「うん」


 頷いてから、少年はマグカップに口を付けた。ずずっと啜れば、身体に染み入るホットミルクの温かさにほぅと息を吐く。鼻腔を抜けていくハチミツの甘さにうっとりして顔を上げれば、穏やかな顔でエメラルドグリーンの瞳を細める魔女と視線が絡まった。


「本当に、おぬしは幸せそうに飲み食いをするのう」


 指摘されて頬が熱くなり、慌てて俯く。そうしたらより一層大きく肩を揺らした魔女が、テーブルを挟んだ向かいのイスに腰かけた。


「照れるでないよ。せっかく褒めてやっているんだ」


 魔女もマグカップひと口啜ってから、ふむと顎をさする。


「もちろん結婚をする魔女もいるさ。特に決まりがあるわけではないからのう。だが……こんな年を重ねたばあさんに求婚する男もおるまいて。一体何を不思議に思うておる」


 純粋に疑問に思った様子で、魔女は少年に尋ねる。

 しかし、その魔女の言葉こそ少年にとってはきょとんとするような内容だった。


「だって、エレノア様はとっても素敵だから」


 母よりも、村のどの娘よりも、今まで見てきた誰よりも美しい。

 父よりも、村のどの男よりも、知っている誰よりも賢い。


 この魔女は少年にとって、世界の誰よりも尊敬できる唯一の女性だった。

 こんなに素敵な女性なのに求婚をする男はいないのかと、少年の素直な疑問だったのだ。

 つい力が入って熱く語れば、魔女は心底驚いた様子で目を丸くする。


「おやおや、こんなに熱烈なアプローチはずいぶん久しいね」

「カレシはいないの?」


 言えば、魔女が珍しく「彼氏っ?」と上擦った声を上げた。


「女の子はみんなカレシがいるよ」

「おぬしくらいの子らがかい?」

「うん。だってもう十歳だよ?」


 胸を張るように頷いたら「最近の子は早熟だねぇ」と呆れたように呟かれた。


「エレノア様は?」

「残念ながら彼氏もおらんねぇ」

「本当に?」


 ほんの少しだけ眉を下げて「いらぬわ」と言った瞳に、少年はわずかに寂寥(せきりょう)の念が浮かんだような気がした。

 独りを好んでいると思えた魔女の感情の揺らめきに、胸が締め付けられるような痛みを覚え──そして、少年はこの上なく高揚したのだ。


「じゃ、じゃあ……っ」


 気付けば、ガタンと勢い余ってテーブルの上に身を乗り出していた。


「僕がエレノア様と結婚する!」


 驚いたように見開かれたエメラルドグリーンの宝石が、手が届きそうなほどすぐ目の前にある。これが欲しい、と、生まれて初めての抑えきれない渇欲が心に芽生えた。


「エレノア様とずっと一緒にいるよ」

「……ほう」


 驚きから笑みに変わった目元の奥で、光の加減か緑色の瞳の表面に青や赤がゆらりと揺れた気がした。


「それは魔女との約束かい?」


 問う言葉に、少年は大きく頷く。自分にとって唯一無二であるこの魔女を手に入れたいと、何度も頷いた。


「うん約束! エレノア様、約束だよ!」

「ああ、わかったよ。わかったから、そんなに跳ねるでない」


 喜びのあまりガタガタとイスを揺らす少年をなだめて、魔女が「さて」と腰を上げる。


「約束のお祝いはポテトパイにしようかのう」


 その提案は一層少年を喜ばせた。赤く頬を染めていた顔はより一層綻ぶ。


「やった! 僕、エレノア様のポテトパイが一番好き!」


 イスから飛び降りて駆け寄れば──まるで少女のように嬉しそうな笑みを浮かべた魔女は、ポテトパイと紫色の液体が注がれたグラスを差し出した。



 *****



「……約束」


 ふっと唐突に意識が戻った。

 震える瞼を持ち上げれば、目の前には空になったグラス。


 ゆるりと顔を上げると、相変わらず大鍋は二つとも煮えたぎっているし、部屋は暑い。だが、自分以外の人の気配は皆無だった。

 どうやら、青年は一人机上に突っ伏していたらしい。


「エレノア様……エレノア様っ?」


 ぼんやりとした頭でここにいたはずの魔女の名を呼べば、一気に夢から現実へと覚醒した。青年は跳ねるように起き上がると、慌てて玄関の扉を開ける。


 門の横にぶら下がっていた、口の悪いジャックの姿もない。それどころか森がやけに静まり返っている。しん、と冷ややかな静けさが森中を満たしている。

 あんなにも騒がしく飛んでいた蝙蝠の群れも、屋根の上で鳴いていたカラスも、ジブも魔女も誰もいない。

 どこへ。


「──村、か……?」


 胸騒ぎとともに、なぜか確信した。

 考えている暇はなかった。とにかく青年は暗い山道に向かって駆けだした。


 暗闇に何度も足を取られるが、それでも無理矢理動かしてひたすら走る。息を切らせて空を見上げれば、木々の隙間からあざ笑うかのように輝く三日月が見えた。その色は真っ赤だ。ハロウィンが始まったのだ。


 日はすっかり沈んでいる。自分は一体どれくらいの間意識を失っていたのだろうかと焦る気持ちだけが募った。

 夜。赤い三日月。

 ハロウィンの魔女のための夜。

 それらすべてが青年の焦燥感を駆り立てる。


 たとえ幼子だろうとも、それは契約なのだよ。

 ──僕がエレノア様と結婚する!


 どうして忘れていたのか。

 不自然なほど、今の今までこの記憶が綺麗に抜けていた。

 あのときも、紫色の液体を飲んだ。その事実に気付けば、脳裏に浮かぶのは銀髪の魔女。


 その美しい姿を思い描いたと同時に、心の奥底に潜んでいた抑えきれない欲望が再び熱を持つ。


「どうして──っ」


 忘れていなかったら、絶対に約束を違えなかったのに。

 忘れていなかったら、今も自分の心を占めていたのは──


 不意に、笑顔で見送ってくれた妻の姿が思い出された。

 激しくかぶりを振って、今しがた至ってしまった考えを頭から追い払う。自分自身に愕然とする。獣のように叫んで暗い森を駆け抜けた。


「最低だ、最悪だ……っ」


 脳裏をよぎった思いに、自分を殴りたくなった。視界がぶれる。両目から止めどなく涙が溢れる。

 エレノアという人は、確かに青年にとって世界の誰よりも尊敬でき、叡智に優れ、見惚れるほどの美貌を持つ唯一無二の存在だ。


 けれど、彼女は魔女だ。

 彼女が魔女であるという事実に、今更ながら正しく恐怖を覚えた。


 そしてようやく気付くのだ。

 騎士団でこの任務への希望者が少ないのは、ただ面倒臭く面白みがないからではない。


 魔女というものは恐ろしいからだ。


 渋る団員たちを、青年は笑い飛ばしていた。お前の村は異常だと畏れる彼らに向かって、何を言うんだ、あの魔女は素晴らしい人なのにと。

 幼い頃から知っているからといって、それで魔女を全て知った気になっていた自分の愚かさこそ嘲笑ものなのに。

 自分は魔女という存在の本質を何ひとつわかっていなかった。



 息も絶え絶えに、ようやく村へ戻ってみれば、景色はすっかりハロウィンに染まっていた。

 おびただしいカボチャのランタンが村のあちらこちらに灯っているのはもちろん、村中の家が飾り立てられている。

 紫とオレンジ色が交互に並んだフラッグは風にはためき、紙で作られたコウモリに蜘蛛の飾り、蜘蛛の巣を模したオブジェが窓の縁にぶら下がり魔女のための夜を彩っている。

 村の通りを歩くのは怪物たち。ミイラに狼男、ゾンビや悪魔に扮した村人が賑やかに行き交っていた。


 そんな中、道の真ん中に、ランタンを手に佇むカボチャ頭の子供がいた。くり抜かれた顔を青年に向けて、じっとこちらを凝視するように立っている。

 ランタンの炎は緑色に揺れていた。

 あの森に住む魔女の瞳を彷彿とさせるような、身震いするほど美しい緑色の炎。


「──っ、お前は」


 少年が被るカボチャは、三角の右目に丸い左目、口元は右上の歯が欠けたなんとも個性的な顔だった。


「お前はさっきの……っ!」


 子供はくるりと踵を返して歩きだす。慌てて追いかけたが、この人混みの中、隙間を縫うようにスイスイと先を行く子供はすぐに小道へ消えた。しかし、行先など迷うまでもない。ここは毎日歩いているもはや見飽きた道だから。


 確信した青年が角を曲がったところで、先のから湧くような大きな歓声が上がった。息の上がる身体を無視してなおも駆ければ、玄関横に大きなカボチャが飾られた家が見えてきた。

 家の中へなだれ込むように、歓声を上げた化け物が蠢いている。青年は迷うことなくその群れに飛び込み、掻き分け、奥へ進んだ。

 何をする。危ないだろう。と、いくつもの怒声がしたが、構ってなどいられない。嫌な予感が全身を覆いつくさんばかりに這い上がってくる。


「通してくれ! ここは──俺の家だ!」


 ──おぎゃあああ!

 叫んだ瞬間、雷鳴のように轟く赤ん坊の泣き声が響き渡った。


「……──っ!」


 ──わああああっ!

 その瞬間、青年を取り囲む化け物が揃って歓喜の声を上げた。


 後ろから押されて、転がるようにして人混みから飛び出れば、黒いローブに身を包んだ老婆が両手を掲げていた。その手に乗るのは赤ん坊。

 奥には虚ろな目をした妻がぐったりとどこか虚空を見つめている。あんなに大きく膨れていた腹は見る影もなくへこんでいた。


 震える手足を必死に動かして、這うように見上げれば──振り向いた老婆の顔半分はローブの陰になって見えなかった。けれど、皺だらけの口元と乾いた唇がうっすらと笑みを形作る。


 なぜかぞっとする感覚が、青年の皮膚の下を這いまわった。

 慄く身体と引き攣る喉。視線の先には、どこか見覚えのある気がする老婆。

 そのとき、


「エレノア様!」


 と。

 みなが口々に美しい魔女の名を叫ぶ。

 年老いた黒いローブの老婆に向かって。


「エレ、ノア様……?」


 歯がガチガチと震えて噛み合わなかった。


「良かったねぇ! エレノア様に取り上げてもらえるなんて!」

「エレノア様が村に下りてくることなんて、めったにない幸運だよ!」

「この子は運が良い!」


 彼らが一体何を言っているのか、理解したくなかった。なのに青年の意思とは関係なく、容赦なく答えが突きつけられる。


「……っ、───」


 口から浅い呼吸がもれていく。息が苦しい。気持ちが悪い。


「エレノア様だって……?」


 なんとか言葉を絞り出したら、横で血濡れの女が笑った。


「何言ってんだい。毎日顔を見に行っていたじゃあないか」

「い、いや……、だってエレノア様は──っ」

「嬉しさのあまり顔を忘れちまったのかい?」

「いやだよう、もう父親だろう。奥さんもしっかりしないと!」


 強い吐き気に口元を抑える青年を無視して、顔が腐ったゾンビと口が裂けた獣の女性までもが口々に言い募る。彼女らが虚ろな目をした妻を囲んだとき、あの甘ったるい香りがふわりと漂った。


 全ての甘味を一度に煮詰めたような、それでいて人を惹きつける嗅ぎ慣れた不思議な香り。


 そしてこの香りを具体化したように揺蕩う、紫色が視界をよぎる。

 毎日通っていた、見慣れた(もや)だ。


「おぬしにそっくりな子だねぇ」


 低く響いたしわがれた声に、顔を跳ね上げる。同時に、パチンと指が鳴る音。

 すると今まで騒がしかった化け物たちが、一斉にバタリと倒れた。さながら糸を切られた人形のようにその場に崩れ落ちる。


「え……?」


 ハロウィンに湧いていた村が、一瞬にして静まり返った。耳が痛くなるほどの沈黙が満ちた。


「な、なにを……」

「安心おし。眠っているだけさ」


 何が起きている。引きつるように口元を痙攣させる青年の代わりに、魔女は答え、顔の半分を覆っていたローブを脱いだ。

 その下は予想に違わず皺くちゃな老婆の顔。

 艶やかな銀髪ではなく、パサついた白髪がバサリとなびく。青年の知っている魔女とは似ても似つかないはずなのに、垂れ下がった瞼の奥に見えるガラス玉のように透き通ったエメラルドグリーンの瞳は、間違い様もないものだった。


 産まれたばかりの赤子は、ゆりかご代わりか魔女が持つ鍋に放り込まれた。ローブの下から現れた左手は森の住処で会ったジャック・オ・ランタンを掲げている。

 そのくり抜かれた口から紫の靄が吐き出されていた。


「よお騎士様! ハロウィン楽しんでるか?」


 呆然とする青年をよそに、ジャックはゲハゲハと笑う。


「ワシには最高の夜だがの」

「それは間違いねーや」


 言うなり彼はやはり笑い続けた。ただ喧しいと思っていたはずの声が、頭の中を掻き回すように木霊する。今の青年には退路を断つ魔物の咆哮にも聞こえて、つうっとこめかみを冷や汗が伝い落ちた。

 そんな中、


「Trick or Treat!」


 唐突に響いた声に、青年の身体は跳ねた。


 振り返って玄関の外を見やれば、村人がすべて眠ってしまった村に一人だけ立っている子供がいた。三角の右目に丸い左目、口元は右上の歯が欠けている個性的なカボチャをかぶった少年。


「Trick or Treat!」


 いまだ緑の炎が揺れるランタンを手に提げて、少年はそれだけを口にする。感情の感じられない声と佇まいはそれこそ作られた人形のようだった。


「おやおや、すまないね。お手伝いありがとうよ」


 パチンと再び指が鳴る。それを合図に、少年も他の村人と同じように崩れ落ちた。床にぶつかったランタンはゴロゴロと転がり、炎は立ち消える。

 倒れた拍子に少年の頭のカボチャが外れ、青年の前まで転がった。物言わぬ逆さの顔がじっと見上げてくる。


 ──へへっ、見てよ。いいだろこれ! 魔女ばーさんに貰ったんだ。


 魔女ばーさん。その呼び名を、子供らしいからかいの冗談だと思っていた。

 だって、青年から見た魔女は『ばーさん』と呼ぶには畏れ多いほど完璧で美しい女性だったのだから。


 だが、本当にそうだったのだろうか。

 あの姿は真実だったのだろうか。


 でも、それでも。例え真実が霞んだとしても、あの日の思いは間違いなく確かなものとして再び熱を持つ。


「なぜですか、エレノア様……」


 問うた声は震えていた。両目からはまだなお涙が溢れた。

 もはや独り言に近いその問いに、魔女は怪しくヒッヒッと喉を引き攣らせて笑う。


「今更なにを言う。これが魔女さ。契約したじゃあないか」

「約束したのは、俺でしょう。俺の子じゃない」


 生まれた我が子は、魔女の鍋の中。今や村人と同じく眠りに落ちている。

 けれど。

 待望の我が子を前にしても。

 青年の心は子への愛情とは真逆の感情で覆い尽くされる。


「その契約を破ったのもおぬしだねぇ。なれば魔女は容赦しない。手段を選ぶ必要もない。おぬしが叶わんのならばワシはその子をいただくだけさ」

「違う……っ!」


 胸元を掻きむしって、青年は叫ぶ。蘇った胸の苦しさに、昂りに、暴れ出すような心臓の痛みに、自分の身に起きたことを理解する。


「破らせたのはあなたでしょう!? なぜですか……っ、どうして俺の記憶を、感情を……っ」


 あの約束はこの魔女に消されてしまったのだ。

 蘇った激しい渇欲と痛いほどの胸の高鳴りは、幼いあの日からなにひとつ色褪せることなく、青年の身体を蝕むように広がっていく。

 

「忘れなかったなら俺は……、俺はあなたを諦めなかった──!」

「おぬしはあの妻を愛しているのだろう? そんな男はいらんさ」

「俺の思いを消したのはあなただ!」


 穏やかで幸福と信じていた日々を、燃えるような激情が次々と灰に還していく。

 待ち望んでいた愛しい我が子への思いが、どうしようもない嫉妬に飲まれていく。

 渦巻く羨望と怒りと罪悪感とでついに青年は嘔吐した。色褪せないどころか、育ち続けていた感情は抑えきれないほどに膨らんでいた。


「俺はあなたが、あなたを……」

「言っただろう。嬉しかったと」


 ──結婚すると言ったときは驚いたものよ。

 ──だがね、ワシは嬉しかったよ。


「本当に嬉しかったねぇ……」


 浸るように過去を見ていた両目が、


「おぬしが契約を破ってくれたのだから!」


 唐突にぐわっと剥かれた。

 頬の皺を押し上げて裂ける口元。狂気すら感じる満面の笑み。かと思えば、すべての感情を削ぎ落したように表情はスッと消え失せる。


 青年は涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、その様をただ見つめていた。


「男の言葉など信用しない」


 ひやりと背筋が震えるような声だった。


「だから、代わりにまだまっさらなこの赤子をいただいていくのさ」


 そう言った老婆の姿が、うっとりと頬を染める麗しい銀髪の美女と重なった。エメラルドグリーンの瞳が、鍋に放られた赤子を愛おしそうに眺めている。

 その姿に、心を引き裂かれるようなどうしようもない醜い嫉妬が暴れ回った。


「ワシにはなによりも最高の菓子だ」

「エレ──……」


 伸ばした腕は届かなかった。

 青年の横をすり抜けて外に出た魔女は、数多に群がるカラスと蝙蝠の大群に包まれた。数百、もしくは数千の羽ばたきが大きなうねりとなり強風を巻き起こす。

 さながら嵐のようなは激しい風は青年の家の中まで蹂躙した。目も開けられないほど荒れ狂う風に倒れ、ようやく収まったときには……魔女も、赤子も、消えていた。


「嘘だ、嘘だ……っ!」


 呆然とした顔でふらりと立ち上がった青年は、つんのめるように外へ飛び出すが──そこには重なるように倒れて眠る、化け物に扮した村人たちがいるだけ。


「エレノア様!」


 どんなに目を凝らして見ても、魔女の姿はどこにもない。たった今黒い渦のように飛び立ったカラスも蝙蝠も、一匹残らずいなくなっていた。


「どうして俺を信じてくれなかったんですか……っ」


 でなければ、全身を焼き尽くしそうなこの激情は一体なんだというのか。


 途方に暮れた青年が膝を着いた。闇に沈んだ天を仰げば、赤い三日月が絶望を煽るように爛々と輝いていた。

 そんな中、村の家々の屋根に小さな影が降り立つ。艶やかな声が青年の頭上に降り注いだ。


「信じるには長く生き過ぎたのよ」

「ジブ!」

「生まれるのが百年ほど遅かったわね。残念だわ」


 凛とした佇まいで屋根に腰を下ろすのは、魔女の黒猫だった。


「エレノア様は? 森へ戻ったのかい!?」

「魔女の愛は深くて、恐ろしいのよ」


 叫ぶ青年の声を無視して、彼女はただ淡々と語る。


「さようなら騎士様。私もあなたのこと、嫌いじゃなかったわ」


 音もなく飛びあがった黒猫が、赤い月を背景にくるりと宙で一回転した。猫の背から巨大な悪魔のごとき翼が生える。ばさりと大きく黒い翼を羽ばたかせ、金色の瞳は瞳孔を縦に細めた。

 赤い月夜を逆光にして、夜闇に二つの金眼だけが浮かび上がる。


「Happy Halloween」

「ジ──……」


 その瞳を正面から受け止めた声は、彼女の名を呼び終える前に途切れてしまう。

 代わりに、ただ一人立っていた青年の倒れる音だけが、寂しく響いた。


 それを見届けて大きな羽ばたきは次第に村から遠ざかる。

 ハロウィンで恐ろしくも賑やかに飾り立てたてられた村には、静かな寝息だけが漂った。



 *****



 道すがら妻手作りのサンドイッチを齧り、通い慣れた山道を進むと、煙突が角のように二本突き出した三角屋根の山小屋が見えてくる。

 屋根は一枚一枚カラフルに塗られ、蔓が伸びる壁はオレンジ色。

 何度見てもこの鬱々とした森の中では浮いてしまう色使いの家だ。


 青年は家を囲む黒い柵に取り付けられた門を通り抜け、黒い玄関扉をノックした。中から「いるよ」と声がする。

 入ろうとノブに手を掛けたら、扉の横で優雅にくつろぐ黒猫が目に入った。


「やあ、こんにちは。失礼するよ」


 全く動じる様子を見せない堂々たる姿に笑ったら、にゃおん。となんとも艶のある鳴き声をひとつ返された。かと思えば、音もなく立ち上がり流し目を残して庭の畑へ姿を消す。どこか妖艶な女性を思わせる猫だ。

 ぴんと尻尾を立てた後姿を見送ってから扉を開けると、中央のテーブルにその女性はいた。


 なにやら分厚い本を広げ、卓上に並べられた薬草を見比べている。入ってきた青年に気付くと、チラリと視線が向けられた。透き通るような緑色の瞳が青年を捉える。


「久しぶりじゃあないか」

「それが……流行り病なのか、ハロウィンからここ数日村人がことごとく体調を崩してまして。今日はついでに何か薬でもいただければと」

「おや、それは大変だねぇ。どれ、ちょうど薬草を広げていたところだ。話を聞こうか」

「ありがとうございます」


 礼儀正しい騎士の礼をして、椅子に腰掛けた。

 それを見届けてか、目の前の女性は可笑しそうに目を細める。


 青年の向かいに座るのは、黒いローブをかぶり白髪を後ろでまとめた老婆だった。

 彼女は、この森に住む魔女エレノア。


 騎士団に所属する青年は、この魔女の監視任務を請け負っている。彼女らの存在は国にとって無視できない事案だからだ。

 とはいえ、膨大な知識を持つこの魔女は、村にとっては良く効く薬も授けてくれる頼れる人物。

 そして、ハロウィンの魔女と呼ばれる彼女は豊作を司る魔女でもあり、この村にいてくれるだけでその恩恵にあずかることができるのだ。

 騎士団には魔女を恐れる同僚もいたが、昔からエレノアの世話になっていた青年にとっては名誉な任務だった。


「騎士様、どうぞ」


 幼子の声と共に、テーブルへ湯気の立ち上るマグカップがコトリと置かれた。

 驚いて視線を向ければ、そこにはトレイを抱えた見覚えのない十歳ほどの少年が立っている。


「はい。エレノア様も」

「ありがとうよ」


 続けて差し出されたカップを、魔女は慈しむような表情で受け取った。その顔は青年が初めて見る愛情溢れた笑みだった。


「どちらの子供なのですか?」

「最近出来た弟子でのう。知り合いの子だ」


 言って、青年にはニヤリとした瞳を向けてくる。

 改めて横に立つ少年の姿を眺めれば、ぱっちりとした大きな瞳に、髪は青年と同じくこの辺りでは珍しい明るい栗色。なかなかに利発そうな子供だった。

 村にも自分以外に明るい髪色の者はいないから、どこか遠くの地から来たのだろうか。などとぼんやり思う。


 そうやって眺めていた少年越しに、びっしりと羅列された文字が目に入った。改めて周囲を見回して、青年はぎょっと目を剥く。

 四方の壁という壁に、計算式のような呪文のような文字が書き連ねてある。


「これは……一体何なのですか」

「なんだい。いまさら気付いたのかい?」


 ヒッヒッと喉を鳴らして、魔女が可笑しそうに声をもらす。


「これはのう、人生そのものなのだよ」

「人生……?」


 まるで絵のデザインを確認するように、彼女は片目を瞑ると額縁のように親指と人差し指を垂直に伸ばして、両腕を掲げた。指の額縁に、少年と壁の文字列を収めて言う。


「十年分は上手くいったかのう……まあ、ワシが書き上げたんだから当然さね。しかしここからが苦労したんだよ」

「はぁ」

「だが完璧に仕上がっているはずさ」


 高尚な魔女の言葉は青年には理解が難しいが、語るその顔は心が踊るように満ち満ちたものだった。


「エレノア様、嬉しそうですね」

「ああ。嬉しいさ」

「なら良かったです」


 魔女が喜ぶ顔に青年も笑むが、なぜか心の奥がチクリと痛んだ気がした。


「君も、ここは楽しいかい?」


 その痛みに首を傾げつつ少年に尋ねれば、幼い顔に汚れのない満面の笑みが浮かんだ。


「はい! それに、エレノア様のポテトパイはとても美味しいんですよ」

「ははっ、そうか。その気持ちよくわかるよ」


 青年も昔はいつもご馳走になっていたものだ。


「僕、エレノア様のポテトパイが一番好き!」

「嬉しいことを言ってくれるねぇ……さて、そろそろ薬の話でもしようかね」


 ほのぼのとしたところで、当初の話題に話が戻る。青年はすっかり和んでしまった表情を引き締めて、姿勢を正した。


「すみません。助かります。実は先日のハロウィンから──」




 村の状況を説明すると、魔女は机上に広げられた薬草をいくつか手に取り煎じてくれた。それを携えて青年は急ぎ村に戻ることにする。

 特に妻の調子が悪いのだ。身体を動かすのも辛いと臥せることが多い。これで少しは良くなればいいのだが。


 丁寧に礼をしてから魔女の住処を後にしようとすると、先ほどの少年と、続いて魔女がわざわざ見送ってくれた。


「騎士様お気をつけて」

「大丈夫さ、慣れた道だ。ではエレノア様、また明日伺います」

「わかってるよ。ご苦労なことだね」


 最後にもう一度騎士の礼をしてから、背を向けかけ──ふと、そういえば。と青年は手をふる少年を振り返った。


「君の名を聞いていなかったね」


 少年こそ「あ」と思い出したように口を開けて、すみませんと頭を下げる。


「失礼しました。僕はレイモンドと申します!」

「え……」


 名乗られた名に驚き魔女を見やれば、やはり可笑しそうに目を細めていた。今日の彼女はやけに上機嫌だ。


「レイモンド、ですか」

「ああそうさ」

「……? どうかしましたか?」


 魔女と青年、二人を交互に見て不安そうな表情を浮かべた少年に、青年は慌てて違うと笑んだ。


「すまない、少し驚いてしまっただけだ。私の名前と同じだったから」

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