創世
長期間使用されていない研究所の資材搬入口は壁から錆びついたパイプやらが飛び出し、地面には大きな機材がごろごろしているため非常に歩きにくかった。そして、ようやくたどり着いた薄暗い通路を抜けた先は、開放感あふれる外かと思いきや、小雨の降る雨模様。
待っていた光景が想像とは違うこと、いや、それ以前に雨が降っている以上に困難な状況が目の前に待ち受けていたことに俺は心底、絶望した。
雨の日には決まって悪いことが起きる。――これはある意味、確定した。目の前に佇む、三つの影。
追手がやってくるのは時間の問題だと思っていたが、あまりにも早すぎた。退路を特定させないために偽装工作を行った、カメラには映らないよう極力配慮した。しかし、それなのに特定された。
退路を見抜かれた原因はおそらく、二つの影、その後ろに堂々と控えた長身の女性。古代エジプトの巫女が着るような装束に身を包み、鋭い眼光でこちらを見据えている。末っ子なので彼女の前にいる幼女のような見た目をした二人に気を遣っているのか、率先して動こうとはしてない。いや、二人を連れてきたのだから動く必要性すら感じていないのか。
末っ子は、頭脳明晰というより考えが読めない、得体のしれない狡猾さがある。
俺を止めるために、わざわざ家族内で実力者二人を連れてきたあたり、まったく抜け目がなく、侮れない。
いくらクイーンが俺側に付き、手引きしてくれても、この二人相手では分が悪いだろう。
末っ子の前に立った二人の幼女がゆっくりと進み出る。両者、武を極めた達人。どちらが強いかなどは愚問、片方は武器を持ち、片方は無手、流派も流儀も違う二人が醸し出す雰囲気だけで空気が震える。
互いが孤高の存在であり、二人が会話している光景など長い人生においても数度、見た程度だ。
俺が戦う前から、絶対に対決を避けるべき相手。気弱にならざるを得ない敵だ。
藁で編んだ笠を頭にのせた少女が刀を抜く。ずっと俺の傍で護衛の役目に邁進した懐刀の少女で信頼も厚い、名前は丸。ただの丸。時代劇でよく使われる<~丸>という名前にあこがれて、自身の名前も丸とした。いずれ名のある剣豪になると。
そしてもう一人、少し大きめの拳法着を着、袖を少し捲って拳を出している。その幼女が左手を前に、右手を横に倒して輪を描くように両手を広げた。構えは自己流。拳法という彼女、独自のルーツを探求した結果、彼女は類まれなる身体能力を生かした格闘技能を習得した。
今まで反目し合っているわけでもないのに一堂に会することのなかった二人が目の前にいるという稀有な光景。これを絶望と言わずしてなんと言おう。
ごくりと生唾を飲み込み、逃走という選択肢を一瞬でも考えた。
しかし、生ぬるいことを言ってはいられない。この二人から逃れられるなんて考えられないし、そもそも研究所にいた頃からずっと一緒だった二人だ。誠意のない逃走は、選んではいけない選択肢、この場において、礼儀をもって引導を渡すのが筋だ。
彼らにメッセージ一つ残さず立ち去って、誠実さもなにもなく立ち去れない。二人はもしかしたら、その不誠実さに怒っているのかもしれない。
相も変わらず仏頂面で、怒っているのか悲しんでいるのかもわからないが、少なくとも彼女らはここに来た。とりあえず俺には、彼女らを一堂に集めるだけの理由があったということだ。
しかし、言わずもがな考えを改める気はさらさらない。彼女が必要なまでに俺を追う理由。家族である以前に、その当たり前の理由に、俺は決着をつけなければいけないのだ。
感情の乏しい、起伏のない二つの顔を見つめながら俺は覚悟を決めた。
感染者は不死身であり、首を飛ばされたりしなければ永遠に近い時を生きられる。
そして子供の姿をしていながら長い時を過ごしている感染者ほど厄介な存在だ。
手足が短い、それは感染者界隈でなくとも、生きるのに不利な見た目。彼女らはそんな、むしろ人間社会より過酷な世界を、その不利な姿で駆け抜けてきた。
その努力が、研鑽がどれほどのものだったのか、俺には想像すらできない。しかも俺を守りながらである。戦闘能力は格別、他の追随を許さない。
しかも自身の能力に胡坐をかかず、飽くなき武の探求にいそしんできた。天才がさらなる才能を求めるとどうなるか、それが目の前に二人もいる。そんな二人に勝とうとしているのだ。俺のやっていることは、いうなれば無理ゲーである。それでもやらなければならないのだから絶望的だ。
二人の後ろで末っ子が『くくく……』と含み笑いを漏らした。
この状況を、どう打破すればいいのだろう。
いや、考えている場合ではない、動かなければ――。動かなければやられる。
俺は行かなければならないんだ。あいつとの約束を反故にしてまで。
俺は咆哮をあげ、降りしきる雨の中を駆けた。いつしか雨粒は大きくなり俺の視界を塞ぎ、その歩みを鈍くさせる。しかし負けじと大地を踏みしめ、寡黙な達人たちに躍りかかった。
鼓膜を劈く金切り音、暗闇に包まれる視界。そうか俺は……この時……。
微睡みから覚醒して目を開けると、そこは見覚えのない場所だった。街灯の光がぽつんと俺にだけ光を注いでいる。あたりは真っ暗。どうして俺はこんなところにいるのだ?
直前の記憶を思い返そうとしても、それができない。なにも思い出せないのだ。これはつまり記憶喪失というやつか、ただ自分の名前だけは憶えているので全てを忘れているわけではない。
日向レオ、それが俺の名前。
ああ、だめだ、どうやってここに来たのか、なんのために来たのか、肝心な部分が思い出せない。
黒いシャツにジーンズ姿、自分の姿を見てもラフな格好としか思えなかった。たぶん普段着、散歩にでも出かけるつもりだったのか。ただ時期を間違えたようで肌寒い、夜風は冷たくシャツの袖が肘までしかないこのコーディネートでは薄着すぎる。家を出るときに上着を一枚、追加するとかできなかったのか。上から一枚、羽織るだけで随分と変わるはずだが。いまさら言っても仕方がないが……。
ほのかに香る海の匂い。波の音はしない。海から少し離れているようだ。そのとき眉間をツンと針で刺されたような痛みが走った。なんだ? 片頭痛?
『笑ってやるよ、だからやめとけって言っただろ、わざとにしても記憶を全部なくしてこれからどうする?』
「ん?」
変な声が頭の中に直接聞こえる。これはなんだ?
『だるいから聞こえないふりはよせよ』
「はあ」
生返事をすると、その声はけらけらと笑った。俺を馬鹿にしているようでとても不快な声だった。これはテレパシーか? と思うと『そのようなものだな』と返事が返る。こっちの考えること、俺の肉体に起こっていることは、この声には筒抜けのようだ。だったら嘘をついたり誤魔化すことにも意味はない。
「俺はここで何をしていた? もしくは何をするつもりだった?」
一番、気になることを聞いてみた。こいつなら色々知ってそうだし、答えられるかもしれないと思ったのだが、声は『そんなもんを人に尋ねるな』とバッサリ質問を切り捨てる。だったら何のために話しかけてきたのだ。人を小馬鹿にするためか、おそらくそうなのだろう。
「役に立たない」
つぶやくと、頭の中で舌打ちを返された。少し機嫌を損ねたようだ。ふん、俺だってやられてばかりじゃない。まあ、今はそんなことよりも。
『おい、気づいているか?』
「なにを?」
『鈍いやつだな、囲まれてるぞ……お前の肉体は俺のでもあるんだ、傷つけてもらっちゃ困るんだよ』
確かに、暗がりから音がする。耳を澄ませてみると、それは人の唸り声、それが徐々に大きくなって、近づいてきていた。しかも次第に海の匂いに混じって腐臭が漂ってくる。俺は鉄さびの匂い、不意にふわっと鼻先に香った血の匂いに足を後退させた。
『なんだ……』
『面倒だな、いいから足を動かせよ、こうやって――』
「あっ」
足が勝手に動いて足同士が縺れた。踏ん張ろうと勢い余ってたたらを踏んだ足が段差に引っかかって盛大にひっくり返ってしまう。
すぐに体を起こして這って逃げようとしたが右足が動かない、見ると暗がりから伸びた青白い手が俺の右足を掴んでいた。くそっ、こいつっ――。そうだ、こいつらは――。
「感染者!」
『記憶を失くしただけじゃなくて反射神経もどっかにやっちまったのか』というお叱りを受けながら俺は青白い手を蹴り飛ばし、逃れる。俺はこいつらが何かを知っている。感染者だ。
光に導かれた蛾のように、感染者たちが街灯の元、その醜悪な姿をあらわにした。
顔を爛れさせ、白い眼を剥いて手を伸ばす、ただ食人衝動の赴くまま死んでもなお人間に襲いかかるゾンビのような見た目をした怪物たち。感染者の群れだった。
「くっ、はなせっ――」
再び足を掴もうとしてくる感染者を蹴飛ばして立ち上がろうとしたが、もう間に合わない。大量の感染者が群れをなし、大波のように俺を飲み込もうとしていた。くそ。
そのとき激しい光の点滅が起こり、俺は咄嗟に腕を上げて顔を覆った。立て続けに聞こえるマシンガンの銃声とマルズフラッシュの光。こちらに背を向けて人が立っていた。
波のような感染者の群れ、その勢いが徐々に緩くなり、その人物は、手に持った筒状の爆弾とみられるもののピンを抜き、それを感染者の群れに向かって転がすように放る。
数秒後に爆発し、顔を強張らせながら見ると、闇夜に流れる煙と焦げ付いた匂い。止んでいた感染者のうめき声が再び、復活しつつあった。
身体に密着するピチッとした黒い近未来風のスーツを纏い、黒いメットを被った女性が振り返り、俺を見下ろす。胸の膨らみから女性だとわかる。
女は片手にサブマシンガンを持ちながら俺に手を差し出した。手を取ると、華奢に見えるわりに意外な力強さで引き上げられた。
女は俺の後方を指さしながら『あの建物に向かって逃げろ』とメットの中からくぐもった声を出す。女が指さした方向に目をやるが建物は見えなかった。ただ目が暗闇に慣れてきたのか道は見える。
俺はうなづき、とりあえず走った。
再び近づきつつある感染者のうめき声と、すぐに背後で聞こえたマシンガンの銃声。俺はそれらを置き去りにして駆ける。
すると、薄っすら建物らしきものが見えてきた。
目が徐々に暗闇に慣れてくると、道の両脇から感染者が二体、飛び出して襲い掛かってくる。するとパンパンと乾いた銃声が鳴り、二体の感染者は弾かれるように体を震わせ地面を転がった。
音からして小型の銃で狙撃してくれたのか、おそらくさっきの女性だろう。暗がりでも見える暗視ゴーグルの機能があのヘルメットにはついていたようだ。
なんとか建物に辿り着き、建物を見上げた。倉庫のようだ。頑丈そうなシャッターが上にあげられている。これを下ろして中に逃げ込めば、とりあえずあの感染者の群れは防げそうだ。
「あとは……」
シャッターをどう閉めるかだが……。どこかに手動でシャッターを動かす装置があるはず。
倉庫の中に入ってみるが、しかし暗くてよく見えない。まずは明かりをつけたいところだが、照明は機能するだろうか? シャッターを動かす装置か、照明、どちらかが見つかれば解決は早まる。
きょろきょろしていると視界の端で火花が散った。なんだ? と思って、そっちに向かう。
途中で切れたコードがパチパチと火花を発していた。その下には六つぐらいのボタンが付いたシンプルな操作盤。ボタンには当然、灯りが灯っていない。電力は供給されていないようだ。コードが切れているからか……。試しに押してみたが、やはり反応はしなかった。
「ダメか……」
これからどうしようかと悩んでいると『待て、システムが無事なら動かせるかもしれない』と頭の中で声がする。いや、流石に無理だと思うが、そんなの魔法でも使わない限りと思うや否や。
『別の手を考えている暇はない』
そう声がして数秒もたたぬうちに、ガコンと音がしてシャッターが下に降り始めた。操作盤は未だに灯が灯っていないし、俺はボタンすら押していない。千切れたコードも変わらず火花を散らしている。つまり電力が供給されていないシャッターが一人でに動いたことになる。
「はあ? テレパシーの次はテレキネシスか? どうやったんだこれ……」
『俺じゃない、知り合いに頼んだ、そんなことより』
「あ、そうだ、このことを彼女にも知らせないと」
シャッターは徐々に動いている。止める手段がない以上、外で時間を稼いでくれている彼女にこのことを知らせて、一刻も早く倉庫内に逃げ込まなければならない。
外に出るとご丁寧に、周囲にシャッターの開閉を知らせる回転灯が回っていた。
「気づくかな……」
『念のために俺が知らせよう』
「またかよ、もういいよ、好きにしてくれ」
俺はまったくと言っていいほど役に立っていない。最初は戸惑ったが、こいつがいなければ俺には何もできないかもしれない。無力感を感じている場合ではないのはわかるが。
はあ、でもこれでなんとか……と気を抜いた瞬間、背後に何者かの気配を感じた。咄嗟に振り返ると、そこにいたのは見上げるほどの巨体を震わせた太鼓腹の太った感染者だった。
「っ!?」
いや、まずい。目に映ったのは、ぱっつんぱっつに伸び切ったシャツ。
気配に敏感なはずのあいつは別のことをしていて気が付かなかった。俺が気づかなければならなかったのに気を抜いたから。
感染者が大口を開けて目の前にいる。恐怖に足がすくむ。見た目からして、この重量感、掴まれでもしたら、さっきみたいに蹴り飛ばして逃げるなんて不可能だ。
そのとき、闇夜にパアンとやけに響く乾いた音が響いた。
目の前の感染者が大口を開けたまま、なぜか棒立ちに、それが徐々に前のめりになって倒れこんでくる。額に小さな穴が開いていた。
どしんと地面を少し揺らして感染者が倒れ、後ろを振り向くと、彼女がこっちに走ってきていた。おそらく背後には感染者の群れ。闇夜に紛れる黒いシルエット、彼女だ。
だが俺は、嫌な予感がして、もう一度、倒れた巨漢の感染者を見下ろした。その瞬間、すべてを察して顔が引きつる。感染者の倒れた位置がまずかった。それはちょうどシャッターが下りてくる溝の走っている位置。このままでは感染者が障害物となってシャッターが最後まで下りないかもしれない。ただでさえ巨漢の感染者だ。その可能性は高い。シャッターが閉まりきらなかったら、その隙間を突き破って感染者がなだれ込んでくるかもしれない。
俺は急いでしゃがみ込んで、感染者の服を乱暴につかみ引っ張った。しかし服は伸びるばかりでびくともしない。思いっきり引っ張ったところでシャツが破れるだけ、だったらどうする、フォークリフトを探している時間なんてないだろうし。
『右腕を使え』
「右腕?」
いきなり右肩口の袖が裂け、筋肉が盛り上がった。なんだこれと戸惑ったが今は一刻の猶予もない。右腕で感染者の片足を掴む。右腕を使えと言われた通り、左腕に変化はない、というより右腕に全身の筋力を少しづつ移したようで、縮んだというか弱々しかった。
感染者を力任せに放り投げる。
感染者は軽く飛び、ゴロゴロと転がって暗がりに消えた。思わず『まじか……』と感嘆の声が漏れる。
「これ、なんだ?」
右腕は元の形に戻り、右腕に集まっていた筋肉が体の各所に散っていく。俺は自分のことがわからない恐ろしさを感じつつも、戸惑いよりも充実感を感じている不可思議な感覚に驚いた。
俺には自身が人間じゃないかもしれないなんて不安気に思う気持ちが一切ない。初めからそんなこと念頭になかったみたいに。俺はいったい何者なんだ……。
俺は何食わぬ顔で、走り込んできた女性に手を振った。二人で頷き合い、倉庫内に逃げ込む。
その数秒後にガシャンと音を立ててシャッターが閉まる。閉まったシャッターの内側で安堵の息を吐いていると、女性はさっそくマシンガンは撃ち尽くしたのか武器はベレッタ銃に持ち替えており、新しいマガジンを装填すると、倉庫内の安全確保のために動きだす。俺も見習わないとなと思いながら女性の後に続く。