第六話 鐘
朝、鐘は鳴らなかった。
雪の降り方が夜よりも細かく、風もなく、空の奥まで白い。体育館の屋根から垂れる氷柱が陽に光っているのを、俺はぼんやりと見ていた。
桂の姿が見えなくなったのは、夜明け前だった。寺の鐘を点検しに行くと、いつも言っていた。だが戻らなかった。
志摩と律と千景が寺へ向かった。俺と灯は、後を追う形になった。
坂道を登る途中で、足跡がふたつ、雪に埋もれかけているのが見えた。
寺の鐘楼の前に立つと、縄がぶら下がっていた。先のほうが、何かで擦れたようにほつれている。その下に、桂がいた。鐘の綱に体を預けたまま、静かに倒れていた。
目を閉じている顔は穏やかで、眠っているようだった。綱の先がまだ彼の肩に触れていた。まるで鐘が鳴らない代わりに、桂の体そのものが音を止めてしまったみたいに見えた。
千景が膝をつき、手を当てる。小さく息を吐いた。
「……もう、冷たい」
志摩が黙って立ち尽くしていた。律は拳を握って、何度も鐘を見上げたが、誰もその綱を引こうとはしなかった。
雪の中で、鐘の青い金属が冷たく光っていた。
*
喪主は志摩になった。
遺品は、寺の鍵束と、古い帳面だった。
帳面の表紙には「供出帳」と書かれている。紙は黄ばみ、角が破れている。開くと、墨が滲んだ文字が並んでいた。
そこに書かれていたのは、戦時中の記録だった。
――旱魃の年、祠の水を井戸に戻し、町へ配った。
――その後、原因不明の熱病、死者多し。
――以後、祠の水は封ず。供物としてのみ扱うこと。
最後のページには、印が押されていた。
「志摩家」。
灯が口元を押さえた。
誰も声を出さなかった。
紙の上の朱印だけが、やけに新しく見えた。
志摩は膝をついて、帳面を両手で抱えた。
「……俺の家系が、はじめに禁を破ったんだ」
その声は雪の中に吸い込まれていった。
律が口を開く。「そんなの、昔の話だ。お前のせいじゃない」
「でも、こうして戻ってきた。記録に残ってる。俺たちは、祠の水で生きて、祠の水で死んでる」
「偶然だ」
「もう偶然じゃない。桂さんが、鍵を持ってて、俺の印が残ってる。物語は……俺たちの理屈よりも早く動く」
千景がそっと帳面を閉じた。
「記録は記録よ。でも、誰かが語り始めた瞬間に、それは物語になる。誰が悪いとかじゃなくて、人はそうやって自分を守るの。罪を他人に渡すために、物語を使う」
志摩は俯いた。
その顔を見て、灯が小さく呟いた。
「……でも、桂さん、鳴らしたかったのかな」
俺は顔を上げた。
「何を」
「鐘。最後に、鳴らしたかったんじゃないかな。止まる前に、誰かに知らせたかったんじゃないかな」
鐘は沈黙したまま、雪をかぶっていた。綱が風に揺れ、かすかにきしむ音がした。それが泣き声のように聞こえた。
*
埋葬の日、雪が深く積もっていた。
喪主の志摩は、言葉を絞るように短く述べた。
「桂さんは、ずっと鐘を鳴らしてきた。俺たちが誰かを送るたび、鐘が鳴った。でも、今回は鳴らない。……もう鳴らせる人がいないからだ」
その言葉に誰も反論できなかった。
弓がスコップを持つ手を止め、顔を上げた。
「鐘を鳴らすのって、そんなに大事?」
千景が答えた。「音は、誰かがまだ生きているって証拠になる。音があれば、世界は続いてる。でも音が消えたら、それは……」
「終わり?」
「小さくなる、のよ。世界が」
俺はその言葉の意味を、胸のどこかで理解していた。
鐘が鳴らない夜。音がないとき、人は自分の息の音を聞く。息が続いている間だけ、世界は形を保つ。けれど息が止まれば、音も消える。世界も縮む。
透き通るような静けさの中で、俺は祠の方向を見た。あの中では、水がまだ動いているはずだ。音もなく、泡立ちもせず、ただ地の奥で流れている。音を失った世界の中で、それだけが生きている。
*
夜、誰もが眠れなかった。
灯は火のそばで膝を抱えていた。顔色は悪く、咳のあとが残っている。
沙耶が寝袋の中から声をかけた。「灯、休んで」
「大丈夫」
そう言って、灯は笑った。けれど、その笑いは一瞬で消えた。
「ねえ、透。鐘の音って、聞こえたことある?」
「あるよ。桂さんが鳴らすのを、ずっと」
「私、あの音が怖かった」
「どうして」
「鳴るたびに、誰かが減るから。でも、鳴らないと、それも怖い。音がなくなったら、私たちまでいなくなりそうで」
灯の声はかすれていた。
千景が鍋の湯をかき混ぜながら言う。「生きてる人の音が、鐘の代わりになる。だから、話して。眠らないで」
誰かが小さく笑った。沙耶か、弓か、わからない。
その笑い声が、短い鐘の音のように響いた。
*
深夜、志摩が立ち上がった。帳面を持っている。
俺は目を覚まして声をかけた。
「どこへ行く」
「寺に。桂さんの帳面を、もう一度見たい」
「夜はやめろ」
「やめられない。あれに、もうひとつ印があった。俺の印の下に、別の印があった。薄くて見えなかったけど、多分、祠のものだ」
灯が上体を起こし、弱々しく言った。
「志摩さん、祠はやめて」
「見るだけだ」
「誰かが行くたび、誰かがいなくなる」
志摩は返事をせず、ドアを開けた。冷たい風が吹き込んだ。
外には雪が積もり、足跡がすぐに消えた。
しばらくして、風の中で何かが鳴った気がした。
鐘ではなかった。木が軋む音かもしれない。でも俺には、桂がもう一度だけ綱を引いたように思えた。
*
朝になっても、志摩は戻らなかった。
千景が祠へ行くと言ったが、沙耶が止めた。
「もう誰も行かないで。今は待つしかない」
灯は毛布の中で目を閉じている。唇が白く、息が浅い。
俺は帳面を開いた。昨日、桂の供出帳を写した紙が挟んである。墨の文字が薄れて、雪のしずくの跡が広がっていた。
――供物の水を里へ戻すな。
――祠の水、井戸に戻す。
――死者、多し。
――志摩家。
その文字が、黒い染みのように重なって見えた。
灯が小さな声で言った。
「透。もし、私が死んだら、鐘を鳴らして」
「やめろ」
「お願い。鳴らして。音がないと、道がわからない」
俺は頷くしかなかった。
灯は安心したように目を閉じた。
外では風が止み、世界が静まり返っていた。
鐘は鳴らない。音の空白の中で、皆の呼吸だけが増幅されていく。千景の書くペンの音、弓が木箱を閉じる音、沙耶が紙をめくる音。それらがいっせいに耳に刺さる。
俺は思った。
音が消えるのは、世界が小さくなっている印だ。
かつて十五人の声で満ちていた空間が、いまはわずかに六つ、七つの呼吸音で成り立っている。
鐘のない世界で、俺たちは息だけを鳴らして生きている。
だが、息はやがて尽きる。
そのとき、最後に残る音は何になるのだろう。
雪が窓の外で落ちていく。
その音すら、もう聞こえなくなっていた。




