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十五人の葬式  作者: 妙原奇天


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第二十話 喪主はいない

 夜は、音を失って終わった。

 雪も風もないのに、窓の外には白い闇だけが残っていた。体育館の中で、火は細く、湯はもう湯と呼べないほどぬるい。灯は弓の寝袋のそばに座り、袖で静かに口元を押さえた。千景は時計の止まった壁を見上げ、透はあの秤を包む布を無意識に二度、三度となでていた。


 弓は夜のうちに逝った。

 息が小さく遠のいて、戻らなかった。彼女は最後まで「喪主はいらない」と言って、目を閉じた。


 規約の紙は壁に貼られたまま、四番の行を灰色に濁らせている。何度も触れられた痕跡。そこだけが薄い穴みたいになって、ほんのわずかな風さえ通すようだった。喪主は一名――その行の文字は、もう読めない。読めないのに、そこに書いてあったことだけが、体のどこかに刺さったままだ。


 「葬列は……」


 千景が言いかけて、言葉を置いた。置いたまま踏まない。灯はうなずき、透は頷けないでいる自分の首を、手で軽く押した。


 棺は軽く見えた。薄い板と布と、弓の体と。軽いはずなのに、掴んだ瞬間、腕の根元が熱くなった。重い。

 重いのは、近さだ。持ち上げた手の中に、ついさっきまで一緒に火の前で座っていた重さが、まるごと残っていた。


 列は、数えるほどしかいない。

 透と灯と千景と――残り。

 数えることをやめると決めてから、数字は逆に目立つようになった。数えないように目をそらすたび、目の隅に残る。列は短い。短いのに、長く感じる。歩くたび、足の裏から冷えが這い上がる。


 誰も喪主を名乗らない。

 言葉を読む人がいない葬式は、沈黙だけが進行役を務めた。喪主の席は空のまま、席の形だけを守っている。空席は、座る人がいないのに、座るという行為の重さを教える。


 「行こう」


 千景が静かに言う。灯が棺の縁を持ち、透はその反対側を握った。布越しに伝わる硬さは、木の硬さか、寒さか、それとも思い出の固まった手触りか。どれも正しくて、どれも違う。


 体育館の扉を開ける。外の空気は透明で、舌の奥の膜に甘さが薄く貼り付いた。昨日までより薄い。薄いのは、嗅ぐ者が減ったからだ――その考えが透の頭の内側で静かに形を作る。希望ではない。ただの算数。けれどその算数は、胸のどこかで鈍く響いた。



 村の外れ、いつもの場所。

 土は凍み、表面だけがもろい。スコップの先で割れる音が、谷に小さく跳ね返る。透が最初の一掬いを落とす。灯も続ける。千景は棺のそばに立ち、手を合わせた。祈りは、ここでは作業の一部だ。作業は、ここでは祈りに似てくる。


 言葉はない。

 喪主はいないのだから、読む言葉もない。

 代わりに、ものが並んだ。


 秤の針。

 銀の笛。

 アメ玉の包み紙。

 供出帳面の切れ端。

 写真。


 どれも、誰かの手から土へ戻る。秤の針は透が布を解いて出した。銀の笛は、泥を掃われたまま音を出さない。包み紙は、折り目のついた一枚が光をはね返す。供出帳面の切れ端には朱色のかすれが残り、写真には崩落前の林道の薄い影が焼き付いている。どの物にも、名前は書いてない。名前は、紙の上に、もう書けない。だから、物が代わりになる。町の記憶は、遺品の形で土に戻る。戻るとき、音は出ない。


 土をかける。

 最初の土は、いつもよりも軽かった。次の土は重く、三度目には、重さが指の関節に溜まる。透はスコップの柄に額を寄せ、息を整えた。灯は肩で呼吸をして、千景は目を閉じたまま、吐くたびに肩を落とした。言葉はない。ないから、かえってはっきりすることもある。


 沈黙が進行役なら、終わりの合図も沈黙だ。

 最後の土が落ち、布の角が土に飲み込まれる。そこで誰も何も言わないまま、列は少しだけばらけた。ばらけたのに、同じ方向を向いている。向いている先は、雪と、凍った空気と、山の影。鐘は鳴らない。鳴らないことは、今日という日の音だ。


 透は気づいていた。甘い匂いが、ほとんどしない。

 薄くて、気づこうとしなければ気づかないほど。

 ――匂いが薄いのは、嗅ぐ者が減ったからだ。

 匂いそのものが弱ったのではない。世界が減っている。世界を嗅ぐ人が減って、匂いが薄くなる。それだけのこと。なのに胸の内側では、その「だけ」がずっと重かった。



 葬列は終わったのかどうか、誰にも分からない。

 喪主がいないから、終わりの言葉もない。終わったと決める人もいない。列は自然にほぐれ、踏み跡が少しずつ別の方向へ伸びる。夕暮れの色が山の端を薄く染め、光は斜めに地面を撫でた。甘い匂いは消えた。消えたというより、もう誰もその層まで匂いを吸い上げる力が残っていない。


 体育館に戻る前に、井戸へ向かった。

 蓋は外しにくいほど固く、縁の鉄が冬の光を鈍く返した。弓の手の跡が残っている気がして、透は手袋の上から縁を撫でた。冷たさが布を通して骨に落ちる。


 「覆う」


 千景が短く言う。

 土嚢を積み、石を載せ、板で押さえる。砂利を撒き、水の通い道を塞ぐ。手順は簡単で、時間だけが必要だ。時間はここでいちばん高いものになった。高いものを使うしかない。


 灯が石を運ぶ。細い腕で、落とさないように。透は板を押さえ、千景は土嚢の口を縛る。結び目が固い。固い結び目を見ると、ほっとする。ほどけない形は、ここでは貴重だ。


 「もう水はいらない」


 誰かが小さく言った。誰の声か分からない。灯かもしれないし、透かもしれないし、千景かもしれない。三人とも、その言葉を心のどこかに持っていた。祠は鎖で縛られる。鎖の音は短く、山に跳ねない。鍵はもう意味を持たない。鍵は意味を持たないまま、ポケットの底で冷えた。


 作業が終わっても、誰も手を叩かない。叩くための音が残っていない。代わりに、灯が透の手を握り返した。強くはない。強くはないのに、骨の形が分かるほど確かだった。千景は遠くを見ていた。遠くの、もう人影のない道を。道という言葉だけが残って、道そのものは雪に溶けた。



 夜が来る前、透は体育館の隅に座り、記録帳を膝に置いた。

 表紙は手の汗で柔らかくなっている。角は丸く、紙は薄い。薄い紙ほど、重くなる。開けば、行が待っている。待っている行に言葉を置けば、今日が固まる。固まったものは、動かない。動かないものだけが、明日へ渡せる。


 でも、今日は――。


 透は表紙に手を置き、開かなかった。

 初めて、書かない選択をした。

 書かないこともまた、記録の一部だと、今はっきり分かった。書けば刃になる行がある。書かないことで守れる温度がある。紙の白さは、残しておかないと消える。消えれば、そこにいた人の形も、少しだけすり減る。書かないことが、今日は手の温度に近かった。


 灯がやってきて、透の隣に座った。肩が触れた。触れただけで、体のどこかに火が点く。千景は少し離れたところで、薬の袋を数え直している。数えたところで増えはしない。増えないと分かっていても、数える手順が体を落ち着かせる。


 「呼ぼう」


 透が言った。自分の声が自分の耳に驚く。

 「なにを?」と灯が尋ねる。

 「名前を。残ってる名も、いない名も、全部」


 千景が顔を上げた。否定する声は出さなかった。

 灯は膝を抱え、目を閉じた。「順番、決める?」

 「ううん。思いついた順でいい」

 「じゃあ、私から」


 灯が息を吸い、呼んだ。

 「弓」

 返事はない。

 灯は少し笑って、もう一度呼んだ。「弓」

 返事はない。

 返事がないことが、返事だった。

 千景が続ける。「桂」

 透が呼ぶ。「志摩」

 灯が呼ぶ。「麗」

 千景が呼ぶ。「砂」

 透が呼ぶ。「古賀」

 灯が呼ぶ。「朋」

 千景が呼ぶ。「沼田」

 透が呼ぶ。呼びながら、喉の奥が熱くなる。「律」


 名前の粒が、空気の中で一瞬だけ濃くなる。濃くなって、すぐに薄くなる。薄くなった先で、土の中に落ちる。落ちた粒が、土の中で反響する。耳の内側で、微かな音がした。鐘ではない。なのに鐘に似た、遠い金属の響き。名を呼ぶ音。失われた名が、土の中で互いを呼び合っている。


 灯は、その音に頷いた。

 千景は目を閉じ、指先で自分の脈を確かめた。

 透は紙に手を置いたが、開かなかった。書かないで、呼ぶ。呼ぶことが紙の代わりになる夜が、世界にはある。



 夜の底で、火は細くなった。

 外の風は弱く、祠の方向からの甘い匂いはほとんど感じない。感じなくても、そこにあると分かる。分かるのに、匂いは来ない。来ないのは、吸い上げる力がもう少ないからだ。


 「透」


 灯が小さく呼ぶ。

 「いる」

 「今日、書かなかったんだね」

「うん」

 「いいと思う」

 「うん」

 「じゃあ、明日、書こう」

 「明日?」


 灯は頷いた。「一行でいい。短くていい。書くために、起きよう」


 その言葉が、胸の奥に火を置いた。

 千景が布をかけ直し、薪の最後の一本に火を移す。火は、弱いのに、形がきれいだった。弱い火は、よく燃える。小さくても、消えにくい。


 「寝よう」


 千景が言い、灯は透の手を握った。

 握られた手は冷たく、根元に温かさが残る。温度は移る。移るあいだ、ここにいる。



 翌朝、明るさは薄かった。

 窓の外で雪は舞わず、ただ白い光だけが漂っている。千景がいちばんに起き、扉の隙間に布を押し込んだ。灯が目を開け、透も体を起こした。背中が板のように固い。火はまだ生きている。湯気は細いが、見える。見えるというだけで、十分だ。


 透は膝の上に記録帳を置いた。

 表紙に指を当て、そっと開く。最後のページは、昨日の白のままだ。白はきれいだ。きれいすぎて、触るのが怖くなる。怖いまま、鉛筆を持つ。木の匂いがする。甘くない匂い。甘くない匂いは、今の味方だ。


 灯が横に座り、千景が少し離れて頷く。

 透は息を整え、一行だけを書いた。


 ――ここに、いた。


 止まっていた時間が、わずかに動いた気がした。鉛筆の芯が紙をこする音が、体育館の広さに比べて大きく響く。その響きが、世界の端をそっと持ち上げる。持ち上がった端から、薄い朝が入り込む。


 透は帳面を閉じた。

 閉じる音は、昨日より重かった。重いのに、嫌ではない。蓋をすることが、残すことの一部になる。閉じた帳面は、膝の上でちょうどいい重さになった。灯がほっと息を吐き、千景が小さく笑う。


 「終わった?」


 灯が聞く。

 透は首を振る。「終わらない。……でも、区切れた」

 「区切れたなら、火を強くしよう」

 千景が立ち上がる。「湯を、薄く長く」


 外の空気は冷たい。冷たいけれど、指は動く。

 井戸は覆われ、祠は鎖で縛られている。鐘は鳴らない。鳴らない音が、今日の合図だ。


 灯は、透の手をもう一度握り直した。

 千景は、遠くを見た。

 谷に風が下りる。風は、土の中の名前を揺らし、耳の内側で小さな響きを残す。名を呼ぶ音。返事はない。応えがないことが、返事だった。

 喪主のいない葬式は、終わったのかどうか判然としない。けれど、ここにはまだ火があり、紙があり、手がある。手の温度が残るかぎり、区切りは朝ごとに結び直される。


 閉ざされた町は、自分で自分を弔い終える――いや、きっと終えられないまま、静かに土に混ざっていく。混ざりながら、紙の一行が、誰かの胸の底で長く燃え続ける。

 ここに、いた。

 その言葉が、今日の火種になった。


 透は顔を上げ、灯と千景を見た。二人も透を見た。目に水はない。泣くための水は、もう足りない。足りないなら、別のもので補う。火で。息で。名前で。


 「行こう」


 灯が言い、三人は小さな火の前に寄った。

 湯の表面に、小さな波が生まれる。薄い湯気が立ち上がり、光の中でほどけた。ほどけた湯気の向こうに、白い朝が続いている。

 名簿は閉じられ、祠は鎖で縛られ、井戸は土と石に覆われた。

 それでも、ここには人の温度がある。

 喪主はいない。けれど、見ている目がある。見ている目がある限り、終わりは完全には閉じない。


 火は、細いまま揺れた。

 その細さを、三人はポケットの中にしまうように胸へしまい、薄い朝へ歩きだした。


《了》

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