第二話 最初の土
夜の体育館は、吐く息が白く見えるほど冷えていた。
配給が終わり、火の落ちたストーブの周りに人影がぽつりぽつりと集まる。
透は膝の上に帳面を広げ、折り目の切れ端を手で押さえた。薄茶に変色した紙片。
そこには、あの老婆の小箱から出てきた文字が残っている。
――祠の水は、遠くへやるな。
志摩央が椅子を引き寄せて腰を下ろす。元は役場勤めの男だ。分厚い眼鏡の奥の目が、紙の端を食い入るように見た。
「これ、戦後の水利台帳の書式だな」
「台帳?」
「ああ。用水、井戸、湧水。どの源から引いたか、誰が管理していたか。それを書いてたやつだ」
志摩は指で紙をなぞる。指先に薄く黒ずみがついた。
「祠の水ってのは、つまり……共同井戸と同じ源かもしれない」
その言葉に、透は息を呑んだ。
あの甘い匂い。井戸の水。
思い出すだけで舌の奥にあの桜餅の香りがよみがえる。
律が腕を組んで立ち上がった。
「違う。祠の湧きは、昔、旱魃のときだけ開けたものだ。普段は鍵をかける。……誰も触らない」
「でも、今は?」
「今もだ。俺が鍵を持ってる」
律の声にはわずかな苛立ちが混ざっていた。
千景が低く息を吐いた。「井戸の水と同じなら、もう感染は広がってるかもしれない」
その言葉を、誰も続けられなかった。
風が抜ける。
体育館の壁が軋む。
外の雪がわずかに音を立てるたび、透の胸の奥で嫌な予感が形をとっていく。
“十五”という数字が、また小さくなるのではないか、と。
*
二人目の死者は、突然だった。
林業の沼田が作業小屋のベンチで冷たくなっていた。
昼に薪を割っていたのを見た者もいた。笑っていた。
だが夕方、様子を見に行った弓が見つけたときには、もう息がなかった。
千景が駆けつける。
咳血の痕、唇の端の黒ずみ。
指先は紫に変わり、固く握りしめた手の中には何かの欠片があった。
弓は水桶のところで手を洗いながら、ぽつりと言った。
「沼田さん、最後に笑ってた。“水の甘さが戻った”って」
千景が顔を上げる。「戻った?」
「うん。昔みたいな味だって。……それから、眠るみたいに」
千景は静かに目を閉じた。
透は見ていられず、外に出た。
風が雪を巻き上げ、頬に刺さる。
その冷たさでしか、自分の生を確かめられなかった。
*
埋葬の日。
雪が弱く降る。
十五人の列が、十四の影に変わる。
喪主は弓。
彼女の細い背中に、透はシャベルを担いでついていった。
遺品は、小さな銀の笛。
チェーンに通され、黒くくすんでいた。
「これで鳥が戻るんだって。そう言ってたの」
弓は笛を握ったまま、かすかに笑った。
だが笛の穴の中には黒い泥が詰まっていた。
千景が手袋をした手でそれを掬う。
「泥じゃない……藻、かも」
指先に細い繊維のようなものが絡みつく。
冷たい水の匂いがした。
透は喉の奥が焼けるように乾いた。
灯は少し離れた場所で立っていた。
カメラを持っていたが、レンズを上げない。
ただ、目で強く見ていた。
雪の中に埋まっていく銀の笛を、記憶に焼きつけるように。
桂が鐘を鳴らす。
低い音が谷を這うように響く。
透は土をすくい、沼田の胸の上にかけた。
その瞬間、手のひらに温もりを感じた気がした。
人の温もりではなく、地の熱。
“最初の土”という言葉が、どこからか浮かんだ。
それが何を意味するのか、わからないまま。
*
夜。
透は眠れなかった。
体育館の灯りが消えた後も、天井の隙間から月がのぞいている。
外の雪がやんでいた。
気づけば立ち上がっていた。
足音を忍ばせて扉を抜けると、空気が鋭く冷たい。
祠の方角にだけ、薄い靄が漂っている。
透はそちらへ歩いた。
祠の前には律が立っていた。
灯の灯りに照らされた鍵が、胸元で光る。
「開けさせてくれ」
透の声が掠れる。
律は首を振った。
「駄目だ。開けたら……戻れなくなる」
「何があるんだ」
「知らない。俺も、開けたことがない」
律は言いながらも、扉の隙間に手を当てた。
湿っていた。
中から冷たい水の匂いが漏れてくる。
その中に、あの甘い匂いが微かに混じっていた。
志摩が後ろからやって来て、低く呟いた。
「感染源が水なら、俺たちはもう飲みこまれてる。谷ごと」
風が枝を鳴らす。
透は唇を噛んだ。
飲むなと言われても、他に水はない。
祠の奥から、滴る音がした。ぽたり、ぽたりと。
そのたびに、透の鼓動が速くなっていった。
*
翌朝。
片瀬麗が微熱を申告した。
体育館の隅、毛布を肩にかけたまま笑う。
「舌が、甘い」
そう言って、ぺろりと舌を出してみせた。
千景が体温を測り、記録を取る。
「三十七度八分。安静に」
麗はそれでも笑っていた。
だが次の瞬間、笑みが止まった。
その瞳の焦点が少しだけぶれた。
透は、声をかけられなかった。
昨日までの十五という数字が、再び指の下でにじむ。
帳面に書かれた文字の列が、歪んで見えた。
“最初の土”は、もう始まっていたのかもしれない。
*
夜。
透は灯のカメラを手に取った。
レンズの中に、雪明かりが映る。
灯が残した最後の写真は、ぼんやりとした影ばかりだった。
十五人が映っているはずの場所に、十四の影。
そして、その隙間に黒い染みのようなものがある。
透はその染みを指でなぞった。冷たくも、湿り気を帯びている。
インクか、泥か、それとも――。
外から鐘の音が一度だけ鳴った。
桂が夜更けに鐘を鳴らすことはない。
透は立ち上がり、外に出た。
空には月が浮かび、雪はやんでいた。
祠の前で、律が膝をついていた。
鍵が開いている。
扉の隙間から、淡い光がこぼれていた。
透は近づく。
「律、開けたのか?」
律は答えない。
手のひらを見つめていた。そこには、黒い泥がこびりついていた。
「誰か……呼んだんだ。中から、声がした」
透の背筋に冷たいものが走った。
祠の奥から、かすかな唄のような音が響いていた。
水の流れる音と混ざり、誰かの声がする。
――遠くへやるな。
その言葉が、透の耳の奥で繰り返された。
彼は祠の扉を閉めようとした。だが手が止まる。
奥の光がゆらぎ、まるで誰かがそこに立っているように見えた。
細い肩。長い髪。
妹の柚の姿が、ほんの一瞬、光の中に浮かんだ気がした。
「……柚?」
透が一歩踏み出した瞬間、光が消えた。
ただ冷たい水の匂いだけが残る。
透は膝をつき、手のひらで雪を握った。
その雪の味が、ほんのりと甘かった。
*
翌朝。
体育館の壁に、律の姿はなかった。
机の上には鍵だけが残されていた。
透は帳面に新しい行を書き足す。
――第三日。
――十四人。
――水、甘し。
文字の端がにじむ。手の汗か、雪の雫か。
わからない。
ただ、誰も祠に近づこうとはしなかった。
そしてその日の午後、千景が言った。
「もう、井戸の水を使うのはやめましょう」
「じゃあ、どうするんだ」志摩が問う。
千景は小さく首を振った。
「……雪を溶かすしかない」
誰も何も言わなかった。
火のそばで、麗がうわ言のように呟いた。
「舌が……甘い。まだ、甘い」
その声に透は振り向いた。
麗の唇の端に、黒い筋が走っていた。
体育館の窓の外で、また鐘が鳴った。
今度は、二度。




