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十五人の葬式  作者: 妙原奇天


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第二話 最初の土

 夜の体育館は、吐く息が白く見えるほど冷えていた。

 配給が終わり、火の落ちたストーブの周りに人影がぽつりぽつりと集まる。

 透は膝の上に帳面を広げ、折り目の切れ端を手で押さえた。薄茶に変色した紙片。

 そこには、あの老婆の小箱から出てきた文字が残っている。

 ――祠の水は、遠くへやるな。


 志摩央が椅子を引き寄せて腰を下ろす。元は役場勤めの男だ。分厚い眼鏡の奥の目が、紙の端を食い入るように見た。

「これ、戦後の水利台帳の書式だな」

「台帳?」

「ああ。用水、井戸、湧水。どの源から引いたか、誰が管理していたか。それを書いてたやつだ」

 志摩は指で紙をなぞる。指先に薄く黒ずみがついた。

「祠の水ってのは、つまり……共同井戸と同じ源かもしれない」

 その言葉に、透は息を呑んだ。

 あの甘い匂い。井戸の水。

 思い出すだけで舌の奥にあの桜餅の香りがよみがえる。

 律が腕を組んで立ち上がった。

「違う。祠の湧きは、昔、旱魃のときだけ開けたものだ。普段は鍵をかける。……誰も触らない」

「でも、今は?」

「今もだ。俺が鍵を持ってる」

 律の声にはわずかな苛立ちが混ざっていた。

 千景が低く息を吐いた。「井戸の水と同じなら、もう感染は広がってるかもしれない」

 その言葉を、誰も続けられなかった。


 風が抜ける。

 体育館の壁が軋む。

 外の雪がわずかに音を立てるたび、透の胸の奥で嫌な予感が形をとっていく。

 “十五”という数字が、また小さくなるのではないか、と。



 二人目の死者は、突然だった。

 林業の沼田が作業小屋のベンチで冷たくなっていた。

 昼に薪を割っていたのを見た者もいた。笑っていた。

 だが夕方、様子を見に行った弓が見つけたときには、もう息がなかった。

 千景が駆けつける。

 咳血の痕、唇の端の黒ずみ。

 指先は紫に変わり、固く握りしめた手の中には何かの欠片があった。

 弓は水桶のところで手を洗いながら、ぽつりと言った。

「沼田さん、最後に笑ってた。“水の甘さが戻った”って」

 千景が顔を上げる。「戻った?」

「うん。昔みたいな味だって。……それから、眠るみたいに」

 千景は静かに目を閉じた。

 透は見ていられず、外に出た。

 風が雪を巻き上げ、頬に刺さる。

 その冷たさでしか、自分の生を確かめられなかった。



 埋葬の日。

 雪が弱く降る。

 十五人の列が、十四の影に変わる。

 喪主は弓。

 彼女の細い背中に、透はシャベルを担いでついていった。

 遺品は、小さな銀の笛。

 チェーンに通され、黒くくすんでいた。

「これで鳥が戻るんだって。そう言ってたの」

 弓は笛を握ったまま、かすかに笑った。

 だが笛の穴の中には黒い泥が詰まっていた。

 千景が手袋をした手でそれを掬う。

「泥じゃない……藻、かも」

 指先に細い繊維のようなものが絡みつく。

 冷たい水の匂いがした。

 透は喉の奥が焼けるように乾いた。

 灯は少し離れた場所で立っていた。

 カメラを持っていたが、レンズを上げない。

 ただ、目で強く見ていた。

 雪の中に埋まっていく銀の笛を、記憶に焼きつけるように。


 桂が鐘を鳴らす。

 低い音が谷を這うように響く。

 透は土をすくい、沼田の胸の上にかけた。

 その瞬間、手のひらに温もりを感じた気がした。

 人の温もりではなく、地の熱。

 “最初の土”という言葉が、どこからか浮かんだ。

 それが何を意味するのか、わからないまま。



 夜。

 透は眠れなかった。

 体育館の灯りが消えた後も、天井の隙間から月がのぞいている。

 外の雪がやんでいた。

 気づけば立ち上がっていた。

 足音を忍ばせて扉を抜けると、空気が鋭く冷たい。

 祠の方角にだけ、薄い靄が漂っている。

 透はそちらへ歩いた。

 祠の前には律が立っていた。

 灯の灯りに照らされた鍵が、胸元で光る。

「開けさせてくれ」

 透の声が掠れる。

 律は首を振った。

「駄目だ。開けたら……戻れなくなる」

「何があるんだ」

「知らない。俺も、開けたことがない」

 律は言いながらも、扉の隙間に手を当てた。

 湿っていた。

 中から冷たい水の匂いが漏れてくる。

 その中に、あの甘い匂いが微かに混じっていた。

 志摩が後ろからやって来て、低く呟いた。

「感染源が水なら、俺たちはもう飲みこまれてる。谷ごと」

 風が枝を鳴らす。

 透は唇を噛んだ。

 飲むなと言われても、他に水はない。

 祠の奥から、滴る音がした。ぽたり、ぽたりと。

 そのたびに、透の鼓動が速くなっていった。



 翌朝。

 片瀬麗が微熱を申告した。

 体育館の隅、毛布を肩にかけたまま笑う。

「舌が、甘い」

 そう言って、ぺろりと舌を出してみせた。

 千景が体温を測り、記録を取る。

「三十七度八分。安静に」

 麗はそれでも笑っていた。

 だが次の瞬間、笑みが止まった。

 その瞳の焦点が少しだけぶれた。

 透は、声をかけられなかった。

 昨日までの十五という数字が、再び指の下でにじむ。

 帳面に書かれた文字の列が、歪んで見えた。

 “最初の土”は、もう始まっていたのかもしれない。



 夜。

 透は灯のカメラを手に取った。

 レンズの中に、雪明かりが映る。

 灯が残した最後の写真は、ぼんやりとした影ばかりだった。

 十五人が映っているはずの場所に、十四の影。

 そして、その隙間に黒い染みのようなものがある。

 透はその染みを指でなぞった。冷たくも、湿り気を帯びている。

 インクか、泥か、それとも――。

 外から鐘の音が一度だけ鳴った。

 桂が夜更けに鐘を鳴らすことはない。

 透は立ち上がり、外に出た。

 空には月が浮かび、雪はやんでいた。

 祠の前で、律が膝をついていた。

 鍵が開いている。

 扉の隙間から、淡い光がこぼれていた。

 透は近づく。

「律、開けたのか?」

 律は答えない。

 手のひらを見つめていた。そこには、黒い泥がこびりついていた。

「誰か……呼んだんだ。中から、声がした」

 透の背筋に冷たいものが走った。

 祠の奥から、かすかな唄のような音が響いていた。

 水の流れる音と混ざり、誰かの声がする。

 ――遠くへやるな。

 その言葉が、透の耳の奥で繰り返された。


 彼は祠の扉を閉めようとした。だが手が止まる。

 奥の光がゆらぎ、まるで誰かがそこに立っているように見えた。

 細い肩。長い髪。

 妹の柚の姿が、ほんの一瞬、光の中に浮かんだ気がした。

「……柚?」

 透が一歩踏み出した瞬間、光が消えた。

 ただ冷たい水の匂いだけが残る。

 透は膝をつき、手のひらで雪を握った。

 その雪の味が、ほんのりと甘かった。



 翌朝。

 体育館の壁に、律の姿はなかった。

 机の上には鍵だけが残されていた。

 透は帳面に新しい行を書き足す。

 ――第三日。

 ――十四人。

 ――水、甘し。

 文字の端がにじむ。手の汗か、雪の雫か。

 わからない。

 ただ、誰も祠に近づこうとはしなかった。

 そしてその日の午後、千景が言った。

「もう、井戸の水を使うのはやめましょう」

「じゃあ、どうするんだ」志摩が問う。

 千景は小さく首を振った。

「……雪を溶かすしかない」

 誰も何も言わなかった。

 火のそばで、麗がうわ言のように呟いた。

「舌が……甘い。まだ、甘い」

 その声に透は振り向いた。

 麗の唇の端に、黒い筋が走っていた。


 体育館の窓の外で、また鐘が鳴った。

 今度は、二度。

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