第十九話 最後の朝
夜が、やっと終わろうとしていた。
窓の外の雪は薄く積もり、月も星もなく、ただ白い闇があった。体育館の隅で灯りを落としたまま、千景は弓の寝袋のそばに座っていた。
寝袋の中の体は、あまりに軽く、息の音が細い。
千景は脈を確かめ、透の方へ目を向ける。
「……そろそろ、教えておくね」
「何を?」
「看取りの手順。最後の水は、与えない」
透は息をのんだ。
「与えないって……」
「口が渇くのは、身体が終わりに近づいてる証拠なの。水をあげると、苦しみが長引く。だから――与えない」
冷たく聞こえる言葉だったが、声は優しかった。
灯が隣で手を合わせる。
「それ、聞きたくなかった」
「私も言いたくなかった」
千景はうつむき、目の奥の光を押し殺した。
体育館の壁の時計は、止まっていた。
時間はとっくに壊れている。それでも透は、秒針のないその文字盤を見つめ続けた。動かない針が、今という瞬間を押しつけてくるようだった。
*
弓は、もう三日間眠り続けている。
食料の匂いもしない。燃料は尽き、吐く息だけが暖かさの代わりになっていた。
灯は透の手を握っていた。冷たい手のくせに、体温を分けようとするように強く。
「透」
「ん」
「もし私が次に倒れたら、あの井戸、壊して」
「壊しても、もう誰も使わない」
「そうじゃなくて。見えないまま残したくないの。……あそこから始まったなら、終わりもあそこにして」
灯の声は弱かったが、確かだった。
透は答えず、ただその手を包み込んだ。
*
夜明け前、弓が小さく動いた。
千景が反射的に身を乗り出す。
瞼の隙間から、曖昧な光が覗く。乾いた唇が、ゆっくりと形を作った。
「……喪主、いらない」
声にならない声。
千景が息をのむ。灯が泣き出す。
弓のまつ毛がわずかに震え、続けるように唇が開いた。
「皆で、いって」
その言葉が途切れる前に、透の喉の奥から音が漏れた。
涙だった。
灯も、泣いていた。
千景は泣かなかった。ただその肩が震えていた。
「弓……」
透は呼んだ。だが返事はなかった。
小さな寝息が、止まった。
*
外の世界が、光を取り戻し始めた。
窓の隙間から白い線が差し込み、床の上で静かに伸びていく。
夜と朝の境が、かすかに混ざる。
千景は布を弓の顔にかけた。
灯は両手を握りしめ、嗚咽をこらえるように下を向いた。
透は動けなかった。心臓の音だけが、頭の中で響く。
「……埋葬は」
誰かが言いかけたが、誰も続けなかった。
喪主はいない。弓がそれを拒んだから。
千景が小さく息を吐く。
「みんなで行こう。彼女の願い通りに」
*
山道を登る。雪は固く、足跡が残らない。
土を掘る力も、もう残っていなかった。
それでも透はスコップを持った。
重くて、軽い。
人を埋めるというより、自分の手を確かめるように、ただ掘り続けた。
千景が手を止めて言う。
「透、少し休んで」
「大丈夫」
「顔、真っ白」
「もともと白い」
灯が、かすかに笑った。
その笑いは、もう人間の体温ではなかった。
壊れそうな、風の音に似ていた。
*
穴を掘り終えるころ、太陽が山の端から覗いた。
光が差す。
弓の顔を包んでいた布が、淡く透ける。
雪が光を弾き返し、世界の輪郭が一瞬だけ鮮やかに見えた。
透はそのまま、土をかけた。
ゆっくりと。
名前を呼びながら。
「弓」
呼ぶたびに、喉が痛んだ。
名前という音が、空気を震わせて消える。
呼ぶたびに、まだ生きていることを確認するようだった。
千景が後ろで目を閉じた。
灯は透の肩に額を預けていた。
冷たい。だが、まだ温もりは残っていた。
*
昼前、体育館に戻った。
千景は医療箱を整理し、灯は水を煮沸しようと試みた。
だが火は弱く、湯はぬるかった。
透は名簿を開いた。
ページの端が湿っている。
“十五人”と書かれた表の下に、空白が増えていた。
名前を書き足すことはもうやめた。
これ以上、誰かを文字に変えることはできなかった。
鉛筆を置き、目を閉じる。
外では風が吹いていた。
鐘は鳴らない。
鳴らす者がいない。
甘い匂いが、薄れていた。
それは希望ではなく、単純な事実。
匂いを嗅ぐ者が減ったから、匂いが薄い。
透は静かに悟った。
「匂いじゃないんだな」
灯が顔を上げる。
「なに?」
「世界が、減ってるだけだ」
灯は答えず、目を閉じた。
千景も動かない。
ただ風が、外の枝を鳴らした。
透はゆっくりと名簿を閉じた。
紙が擦れる音が、やけに重く響く。
その音が、世界の終わりの合図みたいだった。
*
夕方。
体育館の天井から光が差し込み、埃が漂う。
灯が、透の隣に座った。
「……弓の顔、きれいだったね」
「うん」
「私も、あんなふうに終わりたい」
「やめろ」
「本当だよ。怖くないの。もう、怖くなくなった」
透は言葉を失った。
灯が少し笑って言う。
「でも、あなたがいる間は、死なない」
その言葉は、たぶん祈りだった。
透は灯の手を握り返した。
指の間に残る熱が、確かに生きている証拠だった。
千景が静かに近づく。
「透、これを」
差し出されたのは、弓の父の手紙の写しだった。
『祠の水を飲んだ。甘かった。お前には飲ませたくなかった』
透は目を閉じて言った。
「……飲ませたくなかったのに、もう、俺たちは全部飲んでる」
千景はうなずく。「そう。だから、もう何も隠さなくていい」
外の風が止んだ。
遠くで、鐘が一度だけ鳴った気がした。
幻かもしれない。
けれど、透には確かに聞こえた。
その音に合わせて、灯が目を開ける。
「朝が来るね」
「もう、来てるよ」
透は名簿を抱えた。
もう書くことはない。
けれど、それを手放すこともできなかった。
書くことが、生きることと同じだったから。
ページを開き、最後の行に一文だけ書く。
――弓。最期まで、喪主はいらないと言った。
――でも、私たちが見ていた。
――だから、まだここにいる。
鉛筆が、そこで折れた。
紙の上に黒い線が残る。
それはまるで、心臓の音のようにまっすぐだった。
灯が透の肩に頭を預ける。
千景が静かに目を閉じる。
その瞬間、雪が窓の外で舞い上がった。
白い光が部屋に差し込み、埃が金色に揺れた。
――最後の朝。
それは静かで、あまりにもやさしい終わりだった。




