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十五人の葬式  作者: 妙原奇天


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第十九話 最後の朝

 夜が、やっと終わろうとしていた。

 窓の外の雪は薄く積もり、月も星もなく、ただ白い闇があった。体育館の隅で灯りを落としたまま、千景は弓の寝袋のそばに座っていた。

 寝袋の中の体は、あまりに軽く、息の音が細い。

 千景は脈を確かめ、透の方へ目を向ける。


 「……そろそろ、教えておくね」

 「何を?」

 「看取りの手順。最後の水は、与えない」


 透は息をのんだ。

 「与えないって……」

 「口が渇くのは、身体が終わりに近づいてる証拠なの。水をあげると、苦しみが長引く。だから――与えない」


 冷たく聞こえる言葉だったが、声は優しかった。

 灯が隣で手を合わせる。

 「それ、聞きたくなかった」

 「私も言いたくなかった」

 千景はうつむき、目の奥の光を押し殺した。


 体育館の壁の時計は、止まっていた。

 時間はとっくに壊れている。それでも透は、秒針のないその文字盤を見つめ続けた。動かない針が、今という瞬間を押しつけてくるようだった。



 弓は、もう三日間眠り続けている。

 食料の匂いもしない。燃料は尽き、吐く息だけが暖かさの代わりになっていた。

 灯は透の手を握っていた。冷たい手のくせに、体温を分けようとするように強く。


 「透」

 「ん」

 「もし私が次に倒れたら、あの井戸、壊して」

 「壊しても、もう誰も使わない」

 「そうじゃなくて。見えないまま残したくないの。……あそこから始まったなら、終わりもあそこにして」


 灯の声は弱かったが、確かだった。

 透は答えず、ただその手を包み込んだ。



 夜明け前、弓が小さく動いた。

 千景が反射的に身を乗り出す。

 瞼の隙間から、曖昧な光が覗く。乾いた唇が、ゆっくりと形を作った。


 「……喪主、いらない」


 声にならない声。

 千景が息をのむ。灯が泣き出す。

 弓のまつ毛がわずかに震え、続けるように唇が開いた。


 「皆で、いって」


 その言葉が途切れる前に、透の喉の奥から音が漏れた。

 涙だった。

 灯も、泣いていた。

 千景は泣かなかった。ただその肩が震えていた。


 「弓……」

 透は呼んだ。だが返事はなかった。


 小さな寝息が、止まった。



 外の世界が、光を取り戻し始めた。

 窓の隙間から白い線が差し込み、床の上で静かに伸びていく。

 夜と朝の境が、かすかに混ざる。


 千景は布を弓の顔にかけた。

 灯は両手を握りしめ、嗚咽をこらえるように下を向いた。

 透は動けなかった。心臓の音だけが、頭の中で響く。


 「……埋葬は」

 誰かが言いかけたが、誰も続けなかった。

 喪主はいない。弓がそれを拒んだから。


 千景が小さく息を吐く。

 「みんなで行こう。彼女の願い通りに」



 山道を登る。雪は固く、足跡が残らない。

 土を掘る力も、もう残っていなかった。

 それでも透はスコップを持った。

 重くて、軽い。

 人を埋めるというより、自分の手を確かめるように、ただ掘り続けた。


 千景が手を止めて言う。

 「透、少し休んで」

 「大丈夫」

 「顔、真っ白」

 「もともと白い」

 灯が、かすかに笑った。

 その笑いは、もう人間の体温ではなかった。

 壊れそうな、風の音に似ていた。



 穴を掘り終えるころ、太陽が山の端から覗いた。

 光が差す。

 弓の顔を包んでいた布が、淡く透ける。

 雪が光を弾き返し、世界の輪郭が一瞬だけ鮮やかに見えた。

 透はそのまま、土をかけた。

 ゆっくりと。

 名前を呼びながら。


 「弓」


 呼ぶたびに、喉が痛んだ。

 名前という音が、空気を震わせて消える。

 呼ぶたびに、まだ生きていることを確認するようだった。


 千景が後ろで目を閉じた。

 灯は透の肩に額を預けていた。

 冷たい。だが、まだ温もりは残っていた。



 昼前、体育館に戻った。

 千景は医療箱を整理し、灯は水を煮沸しようと試みた。

 だが火は弱く、湯はぬるかった。

 透は名簿を開いた。

 ページの端が湿っている。

 “十五人”と書かれた表の下に、空白が増えていた。


 名前を書き足すことはもうやめた。

 これ以上、誰かを文字に変えることはできなかった。


 鉛筆を置き、目を閉じる。

 外では風が吹いていた。

 鐘は鳴らない。

 鳴らす者がいない。


 甘い匂いが、薄れていた。

 それは希望ではなく、単純な事実。

 匂いを嗅ぐ者が減ったから、匂いが薄い。

 透は静かに悟った。


 「匂いじゃないんだな」


 灯が顔を上げる。

 「なに?」

 「世界が、減ってるだけだ」


 灯は答えず、目を閉じた。

 千景も動かない。

 ただ風が、外の枝を鳴らした。


 透はゆっくりと名簿を閉じた。

 紙が擦れる音が、やけに重く響く。

 その音が、世界の終わりの合図みたいだった。



 夕方。

 体育館の天井から光が差し込み、埃が漂う。

 灯が、透の隣に座った。

 「……弓の顔、きれいだったね」

 「うん」

 「私も、あんなふうに終わりたい」

 「やめろ」

 「本当だよ。怖くないの。もう、怖くなくなった」


 透は言葉を失った。

 灯が少し笑って言う。

 「でも、あなたがいる間は、死なない」


 その言葉は、たぶん祈りだった。

 透は灯の手を握り返した。

 指の間に残る熱が、確かに生きている証拠だった。


 千景が静かに近づく。

 「透、これを」


 差し出されたのは、弓の父の手紙の写しだった。

 『祠の水を飲んだ。甘かった。お前には飲ませたくなかった』


 透は目を閉じて言った。

 「……飲ませたくなかったのに、もう、俺たちは全部飲んでる」

 千景はうなずく。「そう。だから、もう何も隠さなくていい」


 外の風が止んだ。

 遠くで、鐘が一度だけ鳴った気がした。

 幻かもしれない。

 けれど、透には確かに聞こえた。


 その音に合わせて、灯が目を開ける。

 「朝が来るね」

 「もう、来てるよ」


 透は名簿を抱えた。

 もう書くことはない。

 けれど、それを手放すこともできなかった。

 書くことが、生きることと同じだったから。


 ページを開き、最後の行に一文だけ書く。


 ――弓。最期まで、喪主はいらないと言った。

 ――でも、私たちが見ていた。

 ――だから、まだここにいる。


 鉛筆が、そこで折れた。

 紙の上に黒い線が残る。

 それはまるで、心臓の音のようにまっすぐだった。


 灯が透の肩に頭を預ける。

 千景が静かに目を閉じる。

 その瞬間、雪が窓の外で舞い上がった。

 白い光が部屋に差し込み、埃が金色に揺れた。


 ――最後の朝。

 それは静かで、あまりにもやさしい終わりだった。

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