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十五人の葬式  作者: 妙原奇天


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第十七話 配給

 朝が来た。来てしまった、という言い方のほうが近い。

 窓の外は薄い灰色で、雪は降っていない。けれど白い。体育館の床は冷え切り、敷いた段ボールの角が立って足の裏を刺す。ストーブの火は弱い。薪はあとわずか。湯の表面に薄い膜が張って、湯気が上がるまでの時間が長くなった。

 弓が配給箱の蓋を開ける。中身は、干した芋と少量の米。米袋の底が見えるところまで減って、縫い目の白い糸が頼りなく光っている。干芋は固く、指で折ると小さな音がした。甘い匂いではない。干した匂い。太陽の記憶が薄く残っている気配。

 千景が膝に紙を置き、声を整えた。

「今日から配分を変える。発熱がある人、咳が強い人を優先する。節度は守る。けれど、優先順位は動かす」

 体育館の空気が一段きしんだ。反発まではいかない。けれど、きしみの音は長く続く。誰もが自分の喉の奥を触り、舌の奥の膜を意識する。甘い匂いが窓の隙間から忍び込んで、紙の上の文字に薄い影を作った。

「優先って、どれくらい」

 弓が問う。声は低く、拳は膝の上で固まっている。開き方を忘れた手。

 千景は淡々と答えた。

「今日の米は、全体で茶碗三杯ぶんしかない。干芋は合わせて一握り。発熱がある者に米の半量。残りを作業班と看取り班で割る。……数字は冷たいけど、数字にしておかないと言い合いになる」

 言い合い。誰も口にしたくない言葉だ。過去形で語られるくらいならまだしも、現在形になると、ここでは刃になる。俺は秤を机の真ん中に置き、針の揺れを一度だけ見てから目をそらした。今日も震えている。昨日より、少し大きい。

「透、お願い」

 弓が秤を指し、俺は頷いた。金属の冷たさが掌にしみる。重りを皿に置き、米をすくう。少し多く、少し少なく。均等は昨日からずっと難しい。今日も難しい。針は真ん中を嫌がって、左右に行き来を続ける。

「まず、発熱」

 千景が紙に目を落とし、名前を呼ぶ。「弓」

 弓は首を振った。「私はまだ動ける。麗の時と違う。……ほかに」

 千景は躊躇して、灯を見た。灯は毛布から半身を起こし、咳を一度だけこらえた。「私はいい。透に」

「だめ」

 俺が先に言った。灯が目を細め、笑いかけるのをやめた。笑いかけただけで、ここでは使いすぎになる。俺は秤の針を見ないようにしながら、米を半匙落とした。針がほんのわずかに揺れを狭める。

「先に呼ぶ」

 俺は紙を手繰り寄せ、声を出す。声は自分の喉から出ているのに、自分のものに思えないほど薄く響いた。

「灯」

 灯は顔を上げる。その二文字が、彼女のほうへ細い橋を渡す。渡った先に熱があるか、咳があるか、そんなことはどうでもよくなる瞬間が、一瞬だけ来る。名は橋だ。落ちないうちに袋を手渡す。灯は受け取り、ぎゅっと結ぶ。「ありがとう」

「千景」

 千景は首を横に振った。「私より、先に」

「千景」

 俺は繰り返した。名を呼ぶこと自体が配分の一部になる。千景は観念したように小さな袋を受け取り、目を閉じた。看取りの手が震えているのが、ここからでも見える。

「弓」

 弓は迷った。「最後でいい」

「弓」

 今度は灯が呼んだ。弓はわずかに肩を落として頷き、袋を受け取った。手はまだ開かない。袋の口を、拳の背で押さえるみたいに握る。

「律」

 呼びそうになって、飲み込んだ。空席の名前は、呼べば空洞になる。呼ばなければ、かろうじて形を保った空白のままでいられる。俺は息を整え、別の名を探した。名簿の文字が揺れる。紙の角が指に刺さる。

「佐久間」

 応える声はない。もういない名だ。いない名を呼ぶのは、ここでは禁じられていない。禁じられていないのに、誰もやらない。死者の名を呼ぶと、空気がいっそう薄くなる。

 俺は列を見渡し、残った袋を分け、最後に自分の分を袋の隅に落とした。針はそこでやっと真ん中の近くを震えるのをやめた。やめたように見えるだけかもしれない。布を被せれば、震えは見えない。

「干芋、少し。灯」

 俺はもう一度、名を呼んだ。灯が顔を上げる。二度目に渡すものは、重くなくても意味が出る。ただの干芋でも。灯はうなずき、袋の口を押さえて胸に抱えた。

 名を呼ぶたび、胸の奥に小さな灯りがつく。灯りは頼りない。風が吹けばすぐに消える。けれど、つけずにいると、呼吸の仕方を忘れてしまう。呼ぶ。呼べるうちは、まだここにいる。

 配給が終わると、全員の肩が一度だけ落ちた。安堵に似ていて、実際には安堵ではない。割り切りに近い感覚。今日を分けた、という事実だけが、午後の始まりの合図になる。

 千景は看取りの記録を棚に戻し、灯は毛布を肩にかけたまま鍋のそばへ来て、米粒の欠片を拾った。弓は配給箱の角に手を置き、目を閉じる。拳はまだ開かない。開けないのではなく、怖くて開けない。開いた手に何も残っていなかったとき、どうすればいいか分からないから。

「昼は薄い粥。芋、ひとかけらずつ」

 千景が言う。誰も文句を言わない。言えば、配分が変わる。変われば、秩序が壊れる。壊れた秩序の死骸は、踏むと痛い。みんな、もう知っている。

 粥は薄く、湯気は弱い。口に入れると、ぬるい。ぬるいのに、舌の奥の甘い膜が反応する。甘い匂いは味を変える。味が変わると、記憶も変わる。最初にここで粥をすすった日のことが、今とは違う匂いで思い出される。音も違う。息の数も違う。

「透」

 灯が小さな声で呼ぶ。

 「いる」

「おいしいふり、できる?」

「できる」

 俺は匙を持ち直して、少しだけ笑った。笑いは細い。細いのに、灯はうなずいた。「ありがとう」

 午後、風が出た。祠の方向から押し寄せる甘さが、窓の布をかすかに膨らませる。空気の重さが変わる。冬の重さではない。体の中から膨らむ重さ。千景は窓の隙間にさらに布を詰め、弓は庫裏へ水を汲みに行く用意をした。少しだけ坂を下って、氷の薄いところを避ける。戻るとき、息が上がり、頬に赤い斑点が浮かんだ。

「大丈夫」

 弓は言った。言った後に、細い咳が出た。人は自分の咳に驚く。自分の体が発する音が自分の意思からずれる瞬間に、顔の筋肉がきゅっと固くなる。千景が弓の肩に手を置く。「体温、測る」

「いらない」

「要る。……弓」

 名を呼ばれて、弓は目を閉じた。呼ばれることに、今は効き目がある。体温計が鳴る。三十七度六分。弓は笑い飛ばそうとしたが、笑いは唇の上で止まった。

「隔離」

 千景が即座に言う。壁の布を持ち上げ、寝袋をひとつ移動させる。灯が毛布を二枚持ってきて、布の隙間を小さくする。「ここ、座って。……寒いほうに私が座るから」

「君は座らない」

 弓がうっすら笑った。「座ってるけど、座ってないひとだから」

「なにそれ」

「よく分からない」

 会話はいつもより少しだけ軽く、すぐに重くなった。弓が座った瞬間、肩が落ちる。灯が隣に座り、俺は二人の向かいに腰を下ろした。千景は薬の袋を確かめ、湯の蓋を閉める。祠のほうからの甘さが強くなり、布の壁の上の端がわずかに揺れた。

「透」

 灯が手を伸ばしてきた。強く握る。強く、という言い方はこの土地では初めての種類の力だ。握られた指の根元が痛む。痛みは、生きている印に似ている。握り返すと、灯の息が少し深くなった。

「弓、大丈夫」

「大丈夫」

 弓はいつものように言う。言い方の強さは、いつもより半歩弱い。額がわずかに熱い。千景が冷たい布を置き、弓の目尻がほんの少しだけ緩む。「ありがとう」

「お礼は、よく寝られたらにして」

「寝たふりでもいい?」

「だめ」

 千景の言い方はいつもと同じなのに、どこか柔らかい。柔らかさは使いどころが難しい。ここでは、贅沢品だ。

 夜が近づき、火が小さくなる。薪は数えられるほどしか残っていない。数を声に出すことは、今はやめておく。数は刃だ。刃は空気を切って、言葉の端を裂く。

 灯の握る力が、少しだけ強くなる。

 俺は息を整え、布の壁の向こうの暗さを見た。暗さは濃い。濃いのに、そこに名前の形がぼんやり浮かぶ。呼べば届く。呼ばなければ、溶ける。呼び方を間違えると、突き刺さる。

 夜、記録を書く。

 紙は相変わらず薄く、鉛筆は短い。木の匂いは甘くない。甘くない匂いだけが味方だ。

 ――第十七日。配給。干芋と少量の米。

 ――発症者優先。きしみ、あり。

 ――秤、震え続ける。最後に自分の分。

 ――名を呼ぶ。「灯」「千景」「弓」。呼べるうちは、ここにいる。

 ――弓、発熱。隔離。布の壁。灯、手を強く握る。

 行を置いて、一度鉛筆を止める。火の音を聞く。息の音を聞く。布のこすれる音を聞く。音は全部、ここにある印だ。印が夜の板壁に小さく打ち込まれていく。抜けば跡が残る。残った跡が明日の目印になるかどうかは、明日の風の向き次第。

「透」

 灯が囁く。

 「いる」

「さっき、名を呼んでくれて、助かった」

「呼びたかった」

「どうして?」

「呼ばないと、名前が溶ける気がするから」

 灯は笑いそうになって、笑わなかった。「溶ける名前って、面白い」

「面白い、で済ませられるうちは、大丈夫だ」

 灯は目を閉じ、指先で俺の手の甲を撫でた。「透」

「いる」

「生きて」

「生きる」

 いつもと同じ約束。小さい。小さいけれど、火種の形をしている。弓が布の向こうで寝返りを打ち、千景が椅子の位置を少しずらす。祠の方向からの甘さが一段強くなり、舌の奥がうずいた。甘さは、いつも今を侵す。明日ではなく、今を。

 俺は記録の最後に一行を足した。

 ――名を呼ぶのは、死者への弔いではない。生者の点呼だ。

 書いてから、気づいた。

 最後の葬式に向かっているのは、死ではない。名の数のほうだ。

 名が減る。呼べる名が減る。呼んだ名に返事が届かなくなる瞬間が増える。葬式はそのことの結果で、原因ではない。原因は、呼べなくなること。呼んでも届かない空気の厚み。名前は声でできていると、ここへ来てから初めて理解した。

 声が弱くなる前に、呼ぶ。

 呼べるうちは、ここにいる。

 深夜、外の木がまた軋んだ。屋根の板が薄く鳴る。鳴らない鐘の代わりに、風が今日の終わりを告げる。祠のほうからの匂いは濃い。布の壁は匂いを止めない。止めないのに、あるだけで助かる。区切りは呼吸の場所になる。灯は眠りに落ち、手の力が少しだけ緩む。離さない。離さなくていい、と自分に言い聞かせる。

 千景が火の芯を箸で寄せ、湯の表面に小さな波を作った。「明日は、また配る」

「うん」

「配れなくなる日が来る。その前に、分け方だけは決めておきたい」

「決めるのは、今だね」

 俺は紙を閉じ、鉛筆を布に包んだ。包むと、木の匂いが濃くなる。甘くない。甘くない匂いのほうへ顔を向けると、息が少し楽になる。弓は布の向こうで静かだ。熱が上がらないように祈る。祈りは水を煮沸しない。それでも、火の場所を指さすくらいのことにはなる。

 目を閉じる前、もう一度だけ名を呼んだ。声には出さない。喉の奥で。

 ――灯。

 ――弓。

 ――千景。

 返事はない。寝息だけが届く。寝息は返事の代わりになる。音があるうちは、夜はまだ夜のままだ。最後の葬式は、もう向こう側で形を作っているかもしれない。けれど今はまだ、こちら側で名を呼べる。

 俺は握っている手を確かめ、火の色を確かめ、息の長さを確かめてから、目を閉じた。

 明日も配る。秤は震える。震えの真ん中に指を置くやり方を、今夜のうちに体に覚えさせておく。呼ぶ。渡す。結ぶ。

 名簿の文字を、朝の光の中で追いかけられるように。

 呼べるうちは、ここにいる。

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