第十六話 喪主の空席
朝いちばんの息は白く、言葉にする前にほどけた。
体育館の中央に折り畳み机を寄せ、いつもの円を作る。紙コップに入れた薄い湯が、誰の前でもすぐに冷える。壁には規約の紙。四番――「喪主は一名、亡き人の最後の願いを読む」――のところにだけ、最近ついた指の跡がいくつも重なって、灰色に汚れている。
「……今日のことだけど」
千景が声を出した。目の下に隈がある。眠れていない。眠っても休めていない表情だ。
「律の埋葬を終えてから、誰も喪主を申し出ないまま、二晩が過ぎた。規約は残っているけれど、四番は“できない”人が増えた。……だから、今日から輪番も外す。喪主、空席のまま進める」
弓が、机の縁を親指で擦った。皮膚が荒れて、白い粉が落ちる。「“空席のまま”が、罰に聞こえる」
「罰じゃない」
千景はかぶりを振る。「続けるためのやりくり。……喪主の言葉は、後から紙に書いて残せる。口に出せない日は、紙が代わる」
灯は毛布の下から顔を上げ、俺を見る。目は赤くない。赤くなる水分が、もう足りない。
「透、書ける?」
「書く」
自分の声が紙より薄く聞こえた。書く、と言うたび、背中のどこかに冷たいものが滑り落ちる。紙は軽いのに、言った瞬間、重くなる。重さは指先に来る。今日も、芯は短い。
麗の布の向こうで、風の音だけが鳴る。麗はもういないのに、布はまだそこにある。
「じゃあ、決める。埋葬は“誰か”がやる」
千景が言った。誰でもない、誰か。役割の名前がぼやけ、空席が席の形だけ残す。座る人はいないのに、座る場所は減らない。灯が毛布を引き寄せ、弓は拳を握ったまま開けなくなる。指が固まっているのではなく、開け方を忘れてしまったみたいに動かない。
*
外は薄曇り。風は弱いが、土は固い。
祠の水を完全に封じる。そう言って、俺たちは井戸との導水路を土で潰す作業に取りかかった。重機は動かない。だから、手で。スコップで。掌に布を巻き、指の付け根に絆創膏を足し、腰に古い紐でスコップを結わえる。
「ここから入ってる」
千景が、地面に膝をつきながら指で線をなぞる。雪の下で、土の色がわずかに違うところがある。細い石が並び、地面の呼吸がそこだけ浅い。導水の跡。昔、誰かが「戻した」水の道。
弓がスコップを刺す。俺も刺す。土は乾いている部分と、湿って甘い匂いのする部分が交互に出てくる。甘い層に当たるたび、舌の奥に膜が張る。布マスクの内側で、息を短く刻む。
「砂利、運ぶ」
灯がカゴを持ってくる。痩せて、動きだけが細く速くなった。腰を折って砂利を拾い集める姿勢が、やけに危なっかしい。俺が近づくと、灯は顔だけで笑い、「大丈夫」と言った。声が軽く、笑いが重い。
砂利と土で、導水の口を潰す。掘る。埋める。踏む。掘る。埋める。踏む。単純な手順が、手順であるほど体力を削る。頭で考えることが減るほど、体は昔の記憶を呼び出す。田に水を引いた春のこと。土嚢を積んだ夏のこと。誰かが笑っていた秋のこと。全部、ここにはない。
「透、手」
灯が差し出した掌は冷たく、根元だけ温かい。指を合わせ、スコップの柄を渡す。木の匂いは甘くない。甘くない匂いで肺を満たす。
「ここ、埋めたら、楽になるのかな」
灯が独り言みたいに言う。
「楽にはならない。でも、増え方は遅くなるかもしれない」
千景が答える。声に自分への苛立ちが混じる。「“かもしれない”ばかり言ってる」
「“かもしれない”があるうちは、やる理由になる」
弓が、拳を握ったまま言った。指が開かないままでも、言葉は開く。彼女の呼吸は荒く、額に汗が光る。汗は甘くない。甘くないのに、口の中は甘い。
掘り進めるうち、土の中から黒い粘りのあるものが少しだけ顔を出した。藻の乾いた塊が、湿りを吸って戻りかけている。千景がすぐに合図をして、手袋の上からビニールを重ね、ピンセットでつまみ上げる。
「そこ、避けて。……土で“押し戻す”」
押し戻す、という言葉が今日いちばん冷たかった。戻したいのはこっちのほうだ。戻らないのは、いつも向こうだ。土を崩して、砂利を詰め、木片で叩いて固める。音が鈍く、胸に残る。
日が傾く。冬の日は早い。背中の汗が冷え、指先の感覚が鈍る。
灯が咳を二度した。声は小さいのに、耳に刺さる。
「もう少しで、今日の分は終わり」
千景が言う。「無理を切り上げるのも、やりくりのうち」
弓が頷く。「切り上げるって、冷たい言い方。……でも、好き」
「好き?」
「うん。生きてる言い方だから」
*
体育館に戻ると、火は弱く、湯は薄い。配給箱の隅に小さな欠けができている。弓は秤の布をかけ直し、針の震えを布越しに指で感じようとして、結局指を開けないまま手を下ろす。千景は衛生キットの箱の中身を数え、数字を声に出さないで目だけで合計を出し、ふっと目を閉じた。
「喪主の輪番、外したから」
千景が壁の紙の四番に、細い線を一本引いた。線は消すための線ではなく、しばらく触らないための線。触れれば崩れるものの上に、細い板をそっと渡しておくみたいな。
「喪主は空席。言葉は紙。……透、よろしく」
「うん」
紙は待っている。待たれている紙は、薄いのに重い。膝の上にのせると、骨が沈む。鉛筆を削る。木の匂い。甘くない。
――第十六日。喪主の空席。
――埋葬、“誰か”がやる。言葉は紙へ。
――導水の封止、手で。スコップで。砂利で押し戻す。
――黒い塊、わずかに露出。採取、封入。
――土の層、甘い匂い。息、短く。
行を増やすたび、今日が固まる。固まったものは、動かない。動かないものだけが、明日に届く。
*
夜。火の前に並んで座る。
灯は毛布の中で膝を抱え、痩せた足首が布の間からのぞいた。骨が浮いている。千景はカップを両手で包み、湯気を顔に当てる。弓は配給の小袋を片手で数え、もう片方の手は固まったまま。
扉の隙間から、甘い匂いがじわじわ入ってくる。窓枠に詰めた布の間の、目に見えない道。匂いは道をよく知っている。
「ねえ、透」
灯が呼んだ。声は細いのに、遠くない。
「うん」
「古賀さんの計画、ずっと言ってなかったことがある」
弓が顔を上げる。千景も視線だけを向ける。灯は毛布を少しだけずらし、指先を出した。指先は冷たい。根元が温かい。
「誘われたとき、私、断った。“外に出よう”って言われて、写真を持ってる私が一緒に行けばいいって、古賀さんは言った。……でも、断った。本当の理由、今日まで言えなかった」
灯は息を整え、言葉の形を確かめるようにゆっくり続けた。
「外に出ても、あなたがいないなら、意味がないと思った」
俺は、応え方を忘れた。
喉が鳴り、胸が空になり、火の音だけが耳の奥を満たす。言い訳の用意も、返事の練習もない瞬間が、正面から来る。千景が視線を落とし、弓が固まった拳を膝に置いたまま動かさない。
「私、写真を撮るのが好きだった。ううん、“好き”だった、にする。今も“好き”って言うと、何かに背中を押されて外に出てしまいそうだから。……でも、あなたがここにいるのに、私だけ外に行くの、違うって思った。たぶん、間違ってる。正しい選び方じゃない。生きるための計算としては、たぶん落第」
灯は笑おうとしたが、笑えなかった。
「でも、私の“好き”は、あなたと一緒じゃないと意味がない。古賀さんには悪いけど、あのときの私は“写真”より“透”が好きだった。だから断った。……言ったら、あなたが背負うと思って、黙ってた」
救いは、来た。
来たけれど、長く続かないと知っている救いだった。
俺は言葉を探し、言葉の代わりに灯の手を握った。手は冷たく、根元は温かい。握った瞬間、胸の中で何かがほどけた。ほどけたのに、強くはならない。
「ありがとう」
絞り出すと、灯は目を閉じ、肩の力を少し抜いた。弓は目を逸らし、千景は湯気の向こうでゆっくり頷いた。火の色が浅くなり、薪がひとつ落ちる。落ちた木が火の中で位置を変え、わずかに音を立てる。甘い匂いが、そこで強くなった。
救いは、長く続かない。
扉の隙間から入る甘さは、言葉より持続力がある。
舌の奥に膜が張り、喉が痺れ、目の奥がじんと痛む。灯が咳をひとつこらえ、千景が鍋の蓋を閉め、弓が拳を膝に押し付けた。
「……封じた導水、効くよね」
弓が祈るように言う。
「効く」
千景は即答した。自分に向けて言い直すみたいに、もう一度。「効く」
俺は帳面を開く。救いを紙に留めることはできない。匂いも、温度も。けれど、今日ここにあった言葉だけは、紙に写る。
――喪主、空席。
――導水、土で封じる。
――灯の告白。「外に出ても、あなたがいないなら意味がないと思った」。
――救いは来る。長くは続かない。甘い匂いが強くなる。
鉛筆の芯が欠け、木の匂いが立った。甘くない匂いだけが、今夜の味方だ。
*
深夜、外の木が軋んだ。鳴らない鐘の代わりに、屋根の板が薄く鳴る。風向きが変わって、祠のほうからの甘さが一段濃くなる。布の壁は匂いを止めない。止めないのに、あるだけで少し楽だ。区切りがある場所は、呼吸の場所にもなる。
「透」
灯が小さく呼んだ。
「いる」
「私、古賀さんにひどいことをした?」
「ひどくない」
「ほんと?」
「ほんと。……ひどいのは、ここだ。ここが私たちを侵す。私たちがここを戻してから、ずっと」
灯は頷き、目を閉じた。まつ毛に、火の色が小さく乗る。
「じゃあ、明日も掘ろう。掘って、埋めて、踏む。……これ、写真に撮る?」
「撮らなくていい。……でも、いつか、撮ってほしい」
「いつか?」
「甘い匂いが薄くなった日に。火が強くて、笑った声が少し大きかった日に。……そのとき、撮って。俺は書く」
「約束」
灯の声は細いのに、熱を持っていた。
約束は火種に似ている。小さくても、冷え切らない。俺は紙の端に小さな行を足した。
――いつか、撮る。いつか、書く。薄い日のために。
弓が寝返りを打ち、膝の布が擦れる音がする。千景は椅子から立ち上がり、扉の隙間に布をもう一枚押し込み、戻ってくる。「少し、薄くなった気がする」
「気がする、でもいい」
灯が目を閉じたまま言う。
「気がする、があるうちは、ここにいる理由になる」
俺は頷き、紙を閉じた。紙は重い。重いけれど、膝から落ちない。落ちない重さは、眠るためにちょうどいい。目を閉じる前に、壁の規約の四番を見た。指の跡は灰色のまま。空席のまま。空席が、席の形を守っている。その守り方は、少しだけ好きだった。
*
明け方、外が薄く明るむ。雪は降らない。降らないのに、白い。
祠の方向からの匂いは、昨夜より少し薄い“気がする”。火はまだ生きている。弓は秤に布をかけたまま手を添え、千景は湯の蓋を少しだけ開け、灯は毛布から手を出して俺の袖を引いた。
「透」
「いる」
「今日の一行、先に決めて」
俺は頷き、鉛筆を持った。
――喪主の空席を守る。掘る。埋める。踏む。ここにいる。
書いた瞬間、胸の中のなにかが静かになった。静けさは薄く、すぐに甘い匂いに押される。それでも、行は残る。残る行は、誰かを縛るかもしれない。誰かを助けるかもしれない。どちらでも、今はかまわない。空席のままでも、席はここにある。
椅子に座って、火の前で、息を合わせる。甘い匂いが来る。俺たちは吸い、吐く。吸って、吐いて、明日を先回りして掘りながら、まだ埋まっていない自分たちの場所を、土の上に確かめていく。




