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十五人の葬式  作者: 妙原奇天


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第十一話 砂の味

 朝、雪は薄く、雲は低かった。屋根の氷柱は夜の分だけ伸び、指を当てると音も立てずに折れた。体育館の中は白い息が重なって霞み、ストーブは弱く唸るだけ。薪はもう、束になっていない。ばらばらの棒を数えて、誰かが何本かを別の箱に移した。

 神崎律が、早くから身支度をしていた。黒い手袋の背に、白い綿埃がひとつだけ乗っている。それを払わずに、律は扉のほうへ目をやった。祠ではない。小さな家並みの奥。彼の祖母代わりと皆が呼ぶ古参の家の方角だ。

「見に行ってくる」

 律は短く言った。声は落ち着いていたが、落ち着かせているだけの声だと聞けばわかる。弓が肩を並べ、俺と千景も後ろについた。灯は毛布に包まれたまま、上体を起こして頷いた。唇の色は薄くない。咳はひとつだけだった。

 家の戸口は開いていた。隙間風が床を撫で、紙の張りの弱くなった障子がふるえた。寝台の上、古参は仰向けに横たわり、手を胸に重ねていた。頬はこけ、口元は乾いている。まぶたの下に、まだ眠っている人の影がほんの少しだけ残っていた。

 律は膝をついた。祖母、と呼んだことはないはずなのに、その目は孫の目だった。千景が脈を取り、ゆっくり首を横に振る。確かめる所作は丁寧で、時間だけが冷たく進む。

 枕元に小さな木箱があり、律が蓋を上げると、古い鉄の鍵と紙片が出てきた。鍵は祠のものと同じ形をしている。紙片の字は弱く、墨がにじんでいる。律は指先でそれを広げ、声を出さずに読んだあと、紙を俺に渡した。

 ――水は人の願いで甘くなる。

 俺は紙の薄さと、その言葉の重さの釣り合いについて、考えるふりをした。実際には、何も考えられなかった。迷信の形をした文が、事実の顔をして目の前に置かれている。祈った数だけ甘くなるのなら、ここはもう甘さで埋まっているはずだ。

 律が鍵を手のひらで包み、目を閉じた。

「喪主は、俺がやる」

 千景が頷き、弓が布を整えた。外は静かすぎて、雪が落ちる音すら想像の中でしか鳴らない。桂のいない鐘楼は、その不在で谷を満たしていた。

 葬列は短い。雪は浅いのに、足は沈む。土は凍って、最初の一掬いが鍬を弾いた。律の肩が一度だけ震えたが、誰も見なかったことにした。棺の中に古鍵と紙片が置かれ、白い布がその上で波打つ。弓は胸の前で指を強く組み、千景は深く息を吸って吐く。灯は立っていられず、俺の腕に手を置いた。手の重さで、俺は自分がまだ支えられることに驚いた。

 律は喪主の言葉を選び、短く言った。

「この鍵は、閉めるために使う。開けるためにも使う。どちらのためにも、置いていく」

 紙片の一文は声に出されなかった。祠の前に花を置いた沙耶のことを誰もが覚えていて、祈りの重さをどう測ればいいのか、誰も知らなかった。土が落ち、古鍵は布の中で見えなくなった。鐘は鳴らない。鳴らないことが、鳴ったことと同じくらい強い。

 戻ると、配給の時間だった。葛城砂のいない秤は、空白の中心を見せたまま机の上にある。弓が米袋を持ち上げ、俺に視線を送る。

「透、お願い」

 俺は秤を抱えた。冷たい金属が掌の皮膚を吸う。針はゼロのところで小さく震えている。重りを載せる。震えが広がる。針は指先の脈に合わせて動く。俺の手の中にも、砂の手の癖がまだ残っている気がした。

 均等に、が合言葉だった。けれど均等は簡単ではない。喪主をした者、看取りをした者、熱のある者、作業に出る者。千景が線を引いた新しい紙は灰色で、赤い鉛筆のように胸を刺さない代わりに、薄く広く沁みる。俺は針の揺れの真ん中を目で追い、米をすくって袋に落とした。少し多く、少し少なく。均等は、どちらかに傾くことを含んでいる。

「ごめん、もう少しだけ」

 弓が言い、俺は米を一匙足した。針が少しだけ落ち着く。灯は毛布に頬を預け、小さな声で「うん」と言った。麗は列の端で両手を胸に当て、順番を待ちながら唇をすぼめていた。指先が震える。視線が泳ぐ。

「麗?」

 千景が呼ぶ。麗は顔を上げ、笑おうとして、声が小さく漏れた。

「甘い……あまい……」

 体育館の空気が固くなる。志摩がいない。沙耶がいない。桂がいない。俺たちは一斉に千景を見る。千景は頷き、麗の肩に手を置いた。体温計が唇の下で鳴る。

「三十七度九分」

 千景は言いながら、衛生キットの箱を開けた。紙マスクはもう薄く、紐が伸びている。手袋も少ない。隔離、と口に出す前に、皆が同じ問題に行き当たる。隔離する場所が、ない。体育館は広いのに、居場所は狭い。壁は寒く、隅は風が溜まる。離れることはできても、離れきることはできない。

「ここを、仕切る」

 弓が言って、毛布を二枚、ロープに通して吊った。見た目の壁ができる。音は通る。匂いも通る。けれど、何もないよりはいい。麗は頷き、布の向こうへ入った。目だけがこちらを見た。「甘いの、さっきより薄い。……でも、ある」

 千景は頷き、灯に向き直る。「水は一口ずつ。煮沸を二度。……透、秤は私が持つから、あなたは火の番を」

「持てる」

「持たせて」

 千景は言い、秤を俺の手からそっと引き取った。針の震えが彼女の手に移る。移った震えは不思議と小さく見えた。千景の指は冷たいのに、揺れを眠らせる癖がある。看取りの指。火を点ける指。

 昼過ぎ、弓が小さく舌打ちをして引き出しを閉めた。「米、足りない」

 足りないのはわかっていたことだ。言葉にすると、世界がさらに小さくなる。俺は火のそばで雪を足し、湯気の上がり方を睨んだ。沸点が遠くなる。湯の表面に薄い膜が張り、甘くない匂いがすぐに甘い匂いに飲み込まれる。

 秤の針は、昼のあいだ震え続けた。俺が持っても千景が持っても同じだ。震えを止める方法は、どこにもない。止められるのは、視線のほうだ。見なければ揺れはない。見れば、揺れる。

 律は寺へ行き、鐘の綱の前で立ち尽くした。鳴らすべきではないことは、もう皆が知っている。知っているのに、綱の手触りが掌に残る。鳴らさない鐘は、鳴っている鐘よりも長く耳に残る。

 灯は、眠らない。目を閉じて、起きている。起きているのに、静かだ。ときどき短い咳が混ざる。額には汗がにじみ、指先は冷たい。甘い匂いが窓の隙間から忍び込むたび、灯の眉間に小さな皺が立った。俺は湯気の向こうから灯の様子を見て、千景と目を合わせた。千景は頷き、火の加減を一段落とした。薪は残りわずか。沸かすための火が、暖を奪う。

 麗は布の向こうで横になり、唇を噛んでいる音だけが壁越しに伝わる。弓は配給表の隅に指で印を付け、今日の終わりの列を閉じた。紙は灰色。列は細い。けれど、真っ直ぐではある。

 夕方、俺は帳面を開いた。紙の角が指に刺さる。鉛筆は短い。木の匂いは、甘くない。書く。

 ――第十一日。十一人目、古参。喪主、律。

 ――遺品、祠の古鍵、紙片「水は人の願いで甘くなる」。

 ――配給、足りない。秤、震え続ける。

 ――麗、甘い、と言う。隔離の場所、ない。毛布の壁。

 ――鐘、鳴らず。

 紙に落ちる線が、砂の粒に見えるときがある。広げれば隙間ができ、握れば指の間から落ちる。書くたび、指先の皮膚がすり減る。痛みは温度に似ている。持続すれば、感覚は鈍くなる。鈍くなっても、消えない。

 灯が俺を呼んだ。声は細く、届く。「透」

「いる」

「額、貸して」

 灯は上体を起こそうとして、俺が先に身を寄せた。額と額が触れる。冷たさと温かさがまざる。灯は目を閉じたまま、息を整える。

「熱、ない」

 灯は言った。確かめるように、もう一度小さく額をこすりつけた。そこに、かすかな救いがあった。救いは大きな形をしていない。小さくて、触れてやっとわかる。俺は自分の手を見た。火にかざしてばかりで冷えていると思っていたのに、掌はまだ温かかった。指先の朱は薄くなり、灰の粉が爪の根元に白く残っている。温かい手が自分のものだという事実が、今さらのように胸の中で音を立てた。

「透」

「うん」

「生きてる?」

「生きてる」

「うん」

 灯はそれ以上何も言わず、目を閉じた。睫毛が頬に触れる。俺は髪の毛を一筋だけ指で払った。灯の手が毛布の下で俺の指を探す。探して、見つけて、軽く握る。握られた指が、思ったよりも温かい。温かさは移る。移るから、記録に残る前に少しずつ薄まる。薄まっても、消えない。

 夜。火は小さく、湯気は薄く、甘い匂いは濃い。祠の方向から風が運ぶ。布マスクの内側、舌の奥に砂糖の膜が張る。砂の味。水に混ざった砂を噛んだときのあの微かなきしみ。歯の間に残る粒の気配。甘いのに、ざらつく。ざらつきは、喉の壁に薄く傷をつける。そこに熱が乗ると、痛みになる。

 千景が静かに言った。

「“水は人の願いで甘くなる”って、きっと本当じゃない。……でも、願いがなかったら、私たちはとっくに冷えてる。願いの回数と甘さの濃さは関係ないけど、願いがあると、火のそばに座る理由が増える」

「理由、大事」

 弓が言い、布の壁を少し持ち上げて、中の麗に声をかけた。「水を一口。ゆっくりね」

「……ありがとう」

 壁の向こうの声は、遠くなかった。近いのに、届きにくい。紙一枚の壁が、世界を分ける。分けるだけで、守りきれない。それでも、分けるという動作が秩序を作る。秩序は、寒い夜に火の場所を決めるための線だ。

 律は寺から戻り、扉の前で立ち止まった。目の奥に赤い隈がある。朱肉の色ではない。眠れていない色。彼は誰にも何も言わず、灯の寝ているほうへ視線を落とし、深く一度うなずいた。喪主の顔から男の顔に戻る瞬間が、そこにあった。

 俺は帳面を膝に開いたまま、ペン先を見つめた。木の匂い。甘くない。砂の味のことを書こうと思い、やめた。味は紙に移りにくい。匂いもそうだ。けれど、移らないことを書き留めておくことなら、できる。

 ――砂の味。甘いのに、ざらつく。

 ――願いは火の理由。煮沸は火の動作。

――祈りは否定しない。祈りは水を煮沸しない。

 ――俺の手は、まだ温かい。

 書き終えると、紙が少し重くなった。重くなった紙は、膝の上に安定して乗る。安定は安心に似ている。似ているだけで、同じではない。けれど似ているだけでも、眠るためには十分だ。眠れない夜でも、目を閉じるためには、似ている何かが必要だ。

 灯が小さな声で呼んだ。

「透」

「いる」

「ねえ、祠の鍵、どこに行ったの?」

「棺に」

「そっか」

 灯は目を閉じたまま、額を俺の袖に押し付けた。袖の布が湿る。涙ではない。息の温度だ。俺は袖を少し引き、灯の額に自分の額を再び当てた。温度を確かめる。熱はない。ないことが、こんなふうに救いになる夜は今までなかった。

 麗の咳が、布の向こうで一度だけ鳴った。千景がすぐそばに行き、背をさすっている音がする。弓は配給表を閉じ、秤に布をかけた。針の震えは布の下でも続いている。見えなくなるだけだ。見えなくなっているあいだに、世界がもう少しだけ小さくならないように、誰かが火の前で座る。

 律は眠らない。壁にもたれて目を閉じているだけだ。朝になっても鐘は鳴らないだろう。鳴らないことが、合図の全部になるだろう。けれど、息の音はある。灯の息。麗の息。弓の息。千景の息。律の息。俺の息。息は、砂の味を運ぶ。甘さを薄めることも、強くすることもある。ただの空気なのに、世界を保っている。

 眠る直前、灯が囁いた。

「透。生きて」

「生きる」

「うん」

 約束は、火の芯に似ている。小さくても、すぐに消えない。砂の味が口に残りながら、俺は目を閉じた。紙は膝の上で重く、手はまだ温かい。温かさがあるうちは、書ける。書けるうちは、ここにいる。

 世界はまた少し小さくなる。けれど、今夜はまだ、息の音が足りている。

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