第十話 林道
朝、倉庫の扉が開かなかった。
鍵はかかっていないはずだ。いつも少し歪んだ取っ手を上に持ち上げながら押すと、重たい板金がいやいやながら後ろへ下がる。その動作が、今日は途中で止まっていた。中から何かが寄りかかっているような手応え。弓が一度肩で押し、俺と律も続いた。鋭い金属音。扉が十センチだけ口を開け、冷たい空気が頬を打った。甘い匂いは、そこにはなかった。代わりに、乾いた木の匂いと、古い紙の匂いが濃かった。
志摩が、ぶら下がっていた。
梁に回したロープは古く、緊急時用に沼田が結び直していた縄だ。足場にした木箱が横倒しになり、帳面の束が雪のように床へ散っている。薄い朱の印がいくつも、紙の角に押されて転がっていた。顔は静かで、苦しんだ痕は見えない。志摩の両手は、胸の上で固く重なっていた。誰にも見つけてほしくなかったように。
律が先に動いた。ロープを切り、志摩の体を抱きとめ、床へ下ろした。千景が脈を確認し、何も言わなかった。俺は息を吸い、吐き、また吸った。呼吸のたび、倉庫の紙と木の匂いが肺の内側に貼り付く。甘くない匂いは、こんなにも重い。
弓が足元の紙を拾い上げた。短いメモ。志摩の字。
水を戻した印は、俺の家の恥。息子のいない私が終わらせる。
ただ、それだけだった。余白は広い。余白の白さが目に痛い。
律が目を閉じ、深く息を吐いた。「喪主は……俺がやる」
その声は、どこか壊れていた。鐘のない谷に、壊れた音はやけに長く残る。
*
雪は浅く積もり、地面の凍った土がじわじわと足裏の熱を吸った。棺の中には志摩の遺品が少ない。薄い上着、擦り切れた手袋、そして役場の古いスタンプ。朱肉は乾きかけているのに、印はまだ赤い。朱の色だけが、時間から取り残されたみたいに鮮やかだ。
律が喪主として前に立つ。声を整えようとするように、一瞬目を閉じ、それから顔を上げた。
「志摩は、印に殺された」
誰かの肩がぴくりと動く。律は続けた。
「印を押す人間として生きて、印の意味を引き受けようとした。役場の朱印。祖父の朱印。祠の前で押された昔の朱印。……志摩は全部を自分の背中に集めて、そこで終わらせようとした」
手袋の中で拳が固くなる。弓の手だ。千景が視線だけで弓の体温を測るみたいに見て、短くうなずいた。灯は立っていられず、俺の肘を掴んで支えを借りている。息が浅い。唇の色が薄い。俺の手首の脈が、灯の指先に伝わる。
「終わらせるって、何だよ」
弓が突然吐き捨てた。雪の上に落ちた言葉は冷たくなる暇もなく、誰かの胸に刺さった。
「恥を終わらせるって、残された者に恥を押しつけるだけだよ。志摩さんが嫌いだったわけじゃない。むしろ好きだった。頼りにしてた。でも、こんなの、ずるい。終わらせ方まで志摩さんが決めるの? 私たちは、何を続ければいい?」
律は言葉を探し、見つからず、首を振るだけだった。千景は棺に白い布をかけ、スタンプをその上にそっと置いた。赤い円が雪の白に浮かぶ。それは“公”の印に見えたが、同時に、もうここでしか意味を持たない私印にも見えた。
「弓」
俺は小さく呼ぶ。弓は顔を向けた。目が赤い。怒りの赤と、寒さの白とが同じ目の中に交じっている。
「止めないで」
「止められない。……止める言葉が、今はない」
俺が口にしたのは、正直さというより、諦めに似た弱さだった。皆が疲れている。正しさが研ぎ澄まされ、刃になっている。言葉はすぐに刃の形になる。刃は正確で、ゆえに人を傷つける。
鐘は鳴らない。桂のいない鐘楼は、風が綱をわずかに揺らすだけだ。低い音は胸の内側で響き、外には出てこない。世界がまた少し小さくなる音だ。
*
葬列から戻って、倉庫の紙を片づけた。朱印が押されかけて乾いた書類、改行の位置がばらばらの稟議書の写し、消えかけたカーボン紙。紙を重ねるたび、手のひらが赤くなる。朱肉は乾いているのに、色だけは手に移る。手洗い用の水は少なく、灰で擦ると、赤は薄くなるが完全には落ちない。灯が毛布の中から見ている。体を起こすとき、肩の骨が浮いた。俺は慌てて支える。
「透、手」
灯が俺の手を取る。指と指の間に赤い線。爪の根元に赤い影。
「落ちないね」
「落ちない。……たぶん、匂いと同じで、取る方法はない」
「でも、時間で薄くなる?」
「薄くなっても、見える」
灯は笑った。笑いはすぐに咳に変わる。「見えるなら、書いといて」
「書く」
俺は帳面を開き、鉛筆で行を増やす。
――第十日。十人目、志摩央。倉庫。
――遺書。「水を戻した印は、俺の家の恥。息子のいない私が終わらせる」。
――喪主、律。遺品、役場の古いスタンプ。
――弓、爆ぜる。「恥を終わらせるって、残された者に恥を押しつけるだけ」。
――正しさ、刃になる。
書いたとたん、胸の中の空気が硬くなった。紙は柔らかいのに、行が固まる。固まったものは動かしづらい。沙耶が言っていたとおりだ。それでも、動かないものにしがみつかないと、俺は落ちてしまいそうだった。
*
夕方、風が少し出た。祠の扉は閉めてあるのに、木目の隙間から湿った冷気が押してくる。甘い匂いは、濃くなるばかりだ。灯は毛布の端を握ったまま、目だけで窓の外を追った。弓は配給箱に米を分け、千景は新しい煮沸のルールを壁に貼る。律は火の前に座り、両手を膝の上に置いたまま動かない。
「外に出る道を、もう一度」
灯が言った。囁きではなく、薄い紙を破らない強さで。俺は顔を向ける。灯の目は熱で潤んでいるのに、焦点は合っていた。
「古賀さんが信じた道。崩れる前に撮った、私の写真。……もう一度、行こう。行って、確かめよう。行けないなら、それを確かめるだけでもいい。私、座って死ぬのは嫌だ。立って、行き止まりに頭をぶつけたい」
弓が顔を上げた。「行くの?」
千景が立ち上がる。「行って、戻ってこられる?」
灯は頷いた。「戻る。戻るために行く」
律がゆっくりと口を開く。「俺も行く」
「ダメ」千景が即座に言う。「律、あなたは今、喪主を連続でやっている。判断が鈍る。……透と、灯と、私。三人まで。弓は配給と火。麗は名簿。律は、寺を見て」
律は反論しなかった。喉の奥で言葉が砕け、握りこぶしの中へ戻っていった。
*
林道へ向かう。
古賀の写真と、灯の記憶の中の道を重ねて歩く。雪の上に黒い土が見えるところで、道は細くなる。空が低く、雲が地面のすぐ上にある。崩落現場は近づく前からわかる。風の音が変わるからだ。谷の流れが塞がれ、音が丸くなる。
土砂は山の腹ごと剥がれて凍ったように見えた。茶色と灰色の層がむき出しになり、途中で折れた樹の根が鉤のように空を掴んでいる。沼田の重機が、半分土に飲まれて斜めに止まっていた。鍵は付いたまま。ハンドルには沼田の手袋。座席には、彼の癖なのか、直立したペットボトルがひとつ、空のまま残っている。
「動かない」
千景が言う。言葉は診断のように短い。灯は重機の歪んだキャタピラを触り、手を引っ込める。金属の冷たさが骨に刺さる。
「管理路の入口、ここだった」
灯の指が、雪の下のアスファルトの縁をなぞる。崩落した土砂に飲み込まれて、扉のような金属の枠が斜めに見えている。ダムの管理路。古賀が信じていた外への道。上から押し潰され、口だけを地面の中に残している。
俺はスコップで雪を払い、灯は手袋で氷を砕く。千景は後ろで見張りをしながら、祠から流れてくる地中の線を思い描いているように黙っていた。崩落の土は湿って重い。掘っても掘っても、別の塊が落ちてくる。土は積むためにあるのではなく、崩れるためにあるものだと、今さら知る。
「匂い」
灯が言った。布マスクの内側に指を当て、呼吸を調整する。「甘い。……ここでも」
千景が周囲を見回し、土の間から立ち上る薄い湯気のようなものに目を細める。「導水路、ここまで来ているのかもしれない。地中でつながって、圧で染み出す」
俺は土の塊を鼻に近づける。土の匂いの奥に、確かにある。桜餅の皮をむいたときのあの柔らかさ。喉の奥で浅く解ける甘さ。遠くにあるはずの祠の匂いが、ここにもある。
「行けないね」
灯が笑う。笑い方は、諦めとは違う。壁を見つめながら立っている人の笑い方。
「行けない。……でも、行き止まりに頭をぶつけたから、戻れる」
「戻る?」
「戻って、皆に言う。外は、今の私たちの足じゃ行けない。行けないけど、道はここにあった。私が写真を撮った道は、ちゃんとここにあった」
千景が頷く。「存在の確認は、大事だ。『ない』より、『今は行けない』のほうが、体が持つ」
灯は(少しだけ)息が楽になったみたいに肩を下ろした。重機の影に座り、首元の布を直す。俺は崩落の縁に立ち、下を覗く。土砂の斜面は滑りやすく、足が入れば抜けなくなる。滑り落ちたら、誰も引き上げられない。沼田の重機が語っている。ここで無理は死と同義だ。
「帰ろう」
灯が立ち上がる。足取りは軽くないが、方向は前を向いている。千景は最後に重機の鍵を外し、胸ポケットに入れた。「いつか、燃料が見つかったら」
いつか、は遠い。遠いけれど、棚に空の鍵を置いておくことは、秩序だ。秤の空白と同じ、中心の余白だ。
*
戻る道で、灯が急に足を止めた。
祠の方向から、強い甘い匂いが押し寄せる。風が変わったのだ。谷の形が音を曲げるように、匂いも曲がる。糖蜜のような濃度。布マスクを通して、舌が痺れる。
「祠、近づかない」
千景の声が鋭くなる。俺たちは道の真ん中に立ち止まり、呼吸を浅くした。匂いは一分もかからず薄れたが、残像のように鼻の奥に滞った。灯は咳を二度して、笑おうとしたが、笑いにならなかった。
体育館に戻ると、弓が立っていた。「どうだった」
灯が答える。「行き止まり。……でも、道は“あった”」
弓は頷き、配給表の端に指で小さな印をつけた。「線、一本足す」
沙耶のいない壁の前で、麗が名簿を見つめる。新しい名前は増えないほうがいい。祈りの束は、千景の手の中で静かに重さを保っている。
「志摩さんの印、どうする」
弓が問う。
「スタンプは、棺に入れた。……朱だけ、残った」
「あの赤、落ちないね」
「落ちない」
落ちないものがある。匂いも、色も、言葉も。落ちないものは、紙に移す。紙に移せば、持ち運べる。持ち運ぶ間に、重さが少しだけ変わる。俺は帳面を開き、灯が撮った崩落前の道の写真の位置を指でなぞるように、行を増やした。
――林道、崩落。重機、停止。管理路の口、土中。
――甘い匂い、崩落地点でも検知。
――外への道、「今は行けない」。でも、あった。
――鍵、保存。
書き終えると、灯が俺の肩に頭を乗せた。熱い。けれど、昼より落ち着いた熱だ。千景の指が鍋の取っ手を掴み、湯の表面が静かに揺れる。弓は秤に布をかけ直し、麗は名簿の自分の名前に薄く指を置いた。律は寺のほうを向き、目を閉じ、誰にも見えない鐘を鳴らす練習をしているみたいに右手を上げて下ろした。
「透」
灯が呼ぶ。
「いる」
「志摩さんの、最後の行、書いた?」
「書いた」
「読んで」
俺は声に出さず、唇だけで動かした。灯は目を閉じても、たぶん読めた。紙に書かれた行は、読まれるたび、体温を少しだけ吸う。吸って、冷める。その冷めた部分が、次の行を書く余白になる。
*
夜、火が小さくなった。薪の残りが数えられる。弓は配給箱に最後の米を小袋に分ける。千景は衛生キットを手前に寄せ、手袋の数を数える。律は寺へ行こうとして、ドアの前で引き返した。麗は紙の前で立ち続ける。灯は眠っていない。目を閉じて、起きている。起きているのに、静かだ。
「透」
「いる」
「ねえ、あの道、雪が解けたら変わるかな」
「変わる。土は、変わるためにある」
「じゃあ、私、また撮る。……もう撮らないって言ったけど、撮る。行けなかった道が、行けるようになったら、ちゃんと撮る」
「撮って」
「そのとき、透は書いて」
「書く」
約束は、火種に似ている。火種は、煮沸はしない。けれど、鍋に火を点ける理由になる。千景が昼に言った言葉が、今夜は寒くなかった。
外で、木がきしんだ。鐘ではない。鳴らない音は、耳の中で長く続く。甘い匂いが強くなり、舌が痺れる。俺はページの端に、もう一行だけ足した。
――世界、また少し小さくなる。けれど、道の位置は覚えた。
――灯、生きている。俺も、生きている。
――明日、鐘は鳴らないかもしれない。それでも、息の音で、道を確かめる。
鉛筆の芯が短く、指先でつまむのが難しくなった。削ると、木の匂い。甘くない匂い。俺はその匂いを深く吸い込み、灯の手を握った。指の根元の熱は、まだあった。
倉庫の朱は手に残り、林道の土は爪に入り、祠の匂いは喉の奥に薄く貼り付いている。落ちないものを抱えたまま、俺は目を閉じた。眠れない夜でも、目を閉じることはできる。目を閉じれば、道の位置が浮かぶ。崩落の口の縁。重機の斜めの影。鍵の重さ。
明日の朝、また紙は白い。白さは、残すための余白だ。そこに書けるうちは、俺たちはまだ、ここにいる。




