第一話 十五人
山に囲まれた集落の名は、霧鳴という。
三方を崖に挟まれ、唯一の林道は雪崩で途絶えた。ラジオは雑音だけを吐き出し、無線も数日前から返事がない。
外の世界がまだ生きているのか、それさえ誰にもわからなかった。
その夜、残された十五人が体育館に集まった。
ストーブの灯がかすかにゆらめき、折り畳み机を並べて作られた円卓のまわりに、彼らは黙って座る。
吹き込む風が板張りを鳴らす音だけが響く。誰もが顔を上げない。自分がここにいる理由を、確かめるように指先を握りしめていた。
臨時統括を務める佐久間が、紙束を持ち上げた。
「――これが、今後の生活に関する規約案だ」
乾いた声が体育館に落ちる。
「発熱の申告は義務とする。看取りは二名で行う。埋葬は日没後、喪主は一名。亡くなった者の最後の願いを読み上げること」
読み上げが終わると、看護の雨宮千景が体温計と青いマスクを配った。
彼女の白い指先は、かすかに震えていた。
「体温は毎朝記録してください。少しでも異変を感じたら、知らせてください」
それだけ言うと、千景は配給箱のそばに腰を下ろした。
八重樫弓が穀を秤にかけて、袋に小分けしていく。無言のまま、彼女の眼鏡の奥に光が揺れた。
神崎律は祠の鍵を胸に下げたまま、顔を上げない。
寺の桂は柱のそばで鐘の綱を握り、鳴らす稽古をしている。音は出さず、ただ手の感触を確かめていた。
透は名簿の端に小さく書き添えた。
「妹・柚 欠」
欠席、の欠。けれど本当の意味は、もういない、だった。
ほかにも亡くなった家族の名を書き添える者がいた。十五という数字の重さを、皆が知っていた。
夜更け。体育館の隅に寝袋が並ぶ。
透の隣には灯がいた。カメラを毛布にくるみ、抱きしめるようにしている。
「もう撮らない」
小さな声で灯は言った。
「あれは生き残るための道具じゃない。記録しても、誰も見ない」
「じゃあ、俺がやる」透は言った。
「記録係、俺がやる。……最後まで残る人が、きっと必要になる」
灯は返事をせず、カメラを抱いたまま目を閉じた。ストーブの火が小さくなり、二人の影が壁に溶けていく。
朝。
雪がわずかに溶けて、井戸の水面がのぞいた。
透が汲み上げた桶から、甘い匂いが立ちのぼる。桜餅のような匂い。
誰かが笑って、「春の匂いだ」と言った。
だが千景は眉をひそめ、声をひそめた。
「その匂いを強く感じる人は、発症の前触れかもしれない」
笑いが止まる。空気が冷たくなる。
透は自分の鼻先に残る微かな香りを、息と一緒に押し込めた。
昼は配給作業。夜は順番で見張り。
ラジオの電池は残り二本。薪も二週間分。
外に出るのは危険だ。けれどこのままでは、何も残らない。
透は帳面に今日の日付と、十五人の名前を書き込んだ。
その横に、柚の名を小さく添える。
亡き者の名も、記録のうちに入れておきたかった。
夕暮れ。鐘が一度だけ鳴る。
誰も打っていないのに、かすかな風が綱を揺らした。
その音を合図に、十五人は旧診療所へ向かう。
息を引き取った老婆が一人。
千景が白布をかけ、桂が手を合わせる。
その静けさの中、律が小さな祠の鍵を握りしめていた。
祠の奥には、誰も近づけない。そこから吹く風が、いつも甘い匂いを運んでくる。
「喪主は、桂さんでいいですか」
佐久間の声に、桂は頷いた。
老婆の遺品の小箱から、古い帳面の切れ端が出てきた。
滲んだ文字でこう書かれていた。
――祠の水は、遠くへやるな。
誰も意味を理解できなかった。
ただ、千景だけが短く息を呑んだ。
埋葬は日没後に行われた。
雪がまた降り始める。掘った穴に土を戻すたび、湿り気が手のひらにまとわりつく。
透は土の重さを確かめながら、思う。
この重みは、土のせいか、罪のせいか。
最後の一掬いを落とすと、桂が鐘を鳴らした。
低く、震える音が谷に響く。
その音の中に、誰かのすすり泣きが混じっていた。
夜の帰り道。
灯がぽつりと言った。
「匂い、まだするね」
「何の?」
「桜餅。あの井戸の。……あたし、昔からあの匂い好きだった」
透は何も言えなかった。
彼女の声が、少し熱を帯びていたからだ。
雪の上に映る灯の足跡が、途中から薄れていくように見えた。
体育館に戻ると、弓が配給箱を閉めていた。
「今日からは半分。米が足りない」
佐久間はうなずき、記録帳に線を引いた。
「生き延びることを、まず優先しよう」
その言葉に、透は無意識に名簿を見た。
“十五”という数字を指でなぞる。
――ここから、数は減る一方だ。
誰かがその声を聞いたのか、灯が寝袋の中から顔を出した。
「透。ねえ、もし私がいなくなったら、撮ってて。最後の瞬間を」
「縁起でもないこと言うなよ」
「でも、残して。そうすれば、きっと誰かが見つけてくれる」
透は返事をしなかった。
彼女のカメラは、まだ毛布の奥にあった。
夜が深まり、雪がまた降る。
体育館の屋根に音が積もるたび、人々は息をひそめて眠りにつく。
透だけは目を閉じられず、帳面を開いた。
ページの隅に、小さく書く。
――第一日、十五人。
――桜餅の匂い。
――発症、未確認。
――埋葬、一。
文字を書き終えるたび、手が震えた。
この記録がいつか誰かの手に届くのか、それとも雪に埋もれて消えるのか。
それさえ、もうわからなかった。
窓の外、祠の方から光が漏れていた。
透は立ち上がり、そっと外に出る。
雪明かりの中、誰かが祠の扉の前に立っている。
律だった。胸元の鍵が光を反射している。
彼は扉を見つめたまま、動かない。
「開けるのか?」透が問う。
律は首を振った。
「開けたら、戻れなくなる。そう言われた」
「誰に?」
「……前の喪主に」
風が吹き抜け、甘い匂いが広がる。桜餅のような、それでいて鉄のような匂い。
透の喉が焼けるように痛んだ。
そのとき、祠の奥で何かが動く気配がした。
律が顔を上げる。
「聞こえた?」
「何を」
「水の音だよ。……まだ、生きてる」
翌朝、透は熱を出した。
千景が脈を取り、薬を口に含ませる。
「休んで。今は無理をしないで」
透はうなされながらも、帳面を握りしめていた。
ページの角に、誰かの指の跡がついている。桜色に染まった跡。
目を閉じると、井戸の匂いが鼻を刺す。
あの甘さの中に、妹の声が混ざっているような気がした。
――お兄ちゃん、迎えにきて。
その声で、透は跳ね起きた。
窓の外では、雪が音もなく降っていた。
その日、村に残る十五人のうち、ひとりが姿を消した。
灯だった。
カメラも、寝袋も、そのままだった。
帳面の十五という数字の横に、透は線を引く。
十四。
それは、はじまりの数だった。




