第6話
自分の小屋に戻って、洋は今日の恒夫の話を整理した。この世に転生している生物が多々いるのならば、今まで不思議だった事象の解明にも繋がる。例えば植物が音楽を聞かせてやると生き生きとして育つという事は、転生している者の好みの音楽ならば十分に考えられる。犬が計算できる事、迷子になっても家に戻れる事なんかも理由は明らかだ。今まで不思議に思っていた事が次々に解明されてきて、洋はわくわくしていた。
「ああ、自分は命と引き替えに一つの真理を得た!」
死んだ淋しさは拭えなかったが、洋は初めて転生しての喜びを得た。
それからの洋は変わった。散歩に行っても外で用便を済ませられるようになったし、飯のマズさや家族の命令にも慣れた。恒夫の言ったように、犬になりきる必要性を感じたのだ。なれるものならもう一度人間になりたかった。その日まで絶対に転生者だと知られてはならない。その為、洋は本気で犬の生活に馴染んだ。恒夫という理解者が出来た事も大きかった。悩みがあれば常に相談した。おかげで段々と犬として暮らす苦痛はなくなっていった。
そんなある日の事だった。洋が犬になってもう一年近くが経っていた。夕暮れ時の庭で、洋は美枝子の匂いを感じ取った。おそらく大学からの帰宅だろう。ただその美枝子の匂いの他にもう一つ別な匂いが混じっていた。今まで嗅いだことのない匂いだ。しかし何となく記憶の隅に残るような香りでもある。
「だろっ。あいつ面白いよな」
以前に聞いた事のある男の声。門前に現れた姿を見て洋は驚いた。山形だ。奴が美枝子に付きまとっているのだ。
「ふふふっ」
美枝子も笑みを浮かべて山形の話に付き合っている。そのまま二人は篠原家を通り過ぎて美枝子の家の方まで行った。
「何なんだよ、一体…」
洋の目に映った二人の仲良さそうな姿。思い出すと歯軋りする程の悔しさが込み上げてきた。山形が恋人を失った美枝子にうまく取り入って、交際が始まっているのでは?そんな事を考えると洋はいてもたってもいられなくなった。心臓の動悸が速くなり身体が熱くなる。その夜、洋は興奮して眠る事が出来なかった。
翌日、洋は佐藤家へ行った。恒夫も山形と美枝子の姿を見ているだろうと思ったのだ。
「おお、見たぞ!何かちゃらんぽらんそうな奴と歩いていたんで吠えてやった」
恒夫も昨日の二人が歩く姿を見たようで、聞いた途端にいきり立っていた。恒夫から見ても山形は外見からして気に食わないらしい。
「どんな様子でした?」
とにかく心配な洋は詳細を尋ねる。
「男の方が美枝子に擦り寄っている感じだったな。俺が吠えるとその男は門まで来て、睨みつけて行きやがった。ありゃあちょっと危ないな。美枝子の奴もあんなのと一緒に歩いてどうしちまったんだ?」
恒夫の話し振りからは怒りと当惑がうかがわれた。親として娘に山形みたいな男を近付けたくないのは洋にもよくわかった。
結局、二人の関係まではわからなかった。洋は悶々として日々を過ごすしかなかった。
三日後の夕方、洋は再び山形と美枝子の歩く姿を見た。今日はそのまま見過ごす訳にはいかないと思い、洋はこっそりと庭から柵を越えて家を出て、二人の後を尾行した。恒夫の言った通り、山形が美枝子に迫るような仕草がうかがえる。段々と二人の話し声が大きくなっていき、5mは離れている洋の耳にも会話が聞き取れる程だった。
「なあ、いいだろ」
「嫌よ!」
美枝子が拒んでいるのが洋にもわかった。
「そんなこと言わないでさあ」
そう言って山形は美枝子に手を延ばす。洋がそれを阻止しようと走りだした瞬間、
「いい加減にして!」
パチンという音が夕闇に響き渡った。美枝子が平手打ちを食らわせたのだ。洋は駆け寄る寸前で急停止した。そして電柱の陰から二人の様子を見守る。美枝子は一撃くらわすと、さっさと家路へ向かった。
「ちくしょう…」
どういう訳か、とり残されて恨み言をつぶやく山形の姿が気になった。洋は駅の方へとぼとぼ向かう山形を追った。奴は平手打ちされた左頬を押さえながら、苛ついた表情で歩いていた。洋は何となく危険な匂いを感じた。そしてその予感は間違っていなかった。
「あの女…、今度犯してやる!」
山形がそう呟いたのを確かに洋は聞いた。さっさと歩いて行く奴を尻目に、洋は美枝子に危険が迫っている事を知り、恐れを抱くのだった。
そして家に戻った洋には、とんでもない罰が待っていた。夜になるというのに勝手に家を抜け出した事で、家長の孝夫に厳重に首輪と紐を付けられたのだ。
(このままではいざと言う時、美枝子を守れない!)洋は必死に抵抗した。しかしその行為は火に油を注いだに過ぎず、却って『やんちゃな子犬をしつける』という家族の意志決定をさせる結果となってしまった。歯軋りをして悔しがる洋。しかし庭から出る事は、散歩以外困難な状況となってしまった。
翌日早朝、洋の鼻は登校する美枝子の匂いを捕らえた。門ぎりぎりの所まで紐を引っ張って行き、必死に吠える。
「ワン!ワンワンワン!」
洋の叫びは美枝子に届いた。彼女は吠え声を聞いて門前まで来た。
「どうしたのブルース。朝から吠えて?」
美枝子は吠える様子を訝しげに見ている。
(山形に気を付けるんだ!君を狙っている!)洋がそう言っているつもりでも、彼女の耳には「ワンワンワン!」という響きにしか届かない。彼女は洋のただならぬ状態を察知してはいるようだが、犬と人間ではこれがコミュニケーションの限界であった。
「ちょっと待ってね」
美枝子はそう言って洋を制すると篠原家の呼び鈴を鳴らした。
「はーい、あら美枝子ちゃん、どうしたの?」
邸内から声がして伸枝が出て来た。
「何かブルースの様子がおかしいんです。ずっと吠えてるから…」
「あら、また悪さしてこの子は!」
伸枝はしかめっ面をして洋を見下ろしていた。
「もしかして首輪に繋がれているのが嫌なんじゃないですか?」
美枝子のその言葉を聞いた時、洋は(しめた!)と思った。しかし、
「そうね。そうかもしれないけど、今はしつけの最中だからねえ。今ちゃんと教育しないときかん暴になっちゃうかもしれないのよ」
そうは問屋が卸さない、伸枝は首輪を外せない理由を述べた。
「へえ、そうなんですか。じゃあ、ちょっとの我慢よブルース」
美枝子は伸枝の言葉に納得したようで、吠える洋を諌める。それでも吠え続けるが、その警告は美枝子の耳まで届かない。もはや彼女の目は伸枝の方に向いていた。
「美枝子ちゃん、最近帰りが遅いらしいわね。お母さんが心配してたわよ」
「ええ、最近は授業が忙しくて。いつも一時間以上延長するんですよ。それで今日もゼミの飲み会があるから、またお母さん心配しちゃうわ」
その美枝子の言葉に洋は反応した。ゼミの集まりなら間違いなく山形も来る。ということは今夜、奴が凶行に出ないとも限らない。洋は焦った。必死になって美枝子にすがりついて叫ぶが、
「こーら、おとなしくなさい」
と言われる始末。しまいには伸枝によって小屋まで連れ戻されてしまった。
「じゃ、行ってきます」
と言う美枝子の後ろ姿だけが洋の目に映った。暴れても庭から出ることは出来ない。そもそも伸枝の目が光っている間はどうにも出来そうになかった。
じりじりとして地団駄を踏んでいる内に昼間になった。この日は太陽が真上に昇る晴天日、ついに主婦の伸枝が家を出た。買物に行くらしい。チャンスとばかりに洋は作業を開始した。
作業、それは首輪と繋がる革の紐を噛みちぎることであった。ガリガリと噛む歯が音を立てる。革製の紐は並大抵の努力では千切れそうにない。次第に噛んでいる歯の方がボロボロになって痛みを伴ってきた。まだ子犬であることも悪条件になっていた。
「ぐうううっ…」
歯茎から血が吹き出してきた。だが洋は噛み切る行為を止めない。その視線の奥には山形に襲われる美枝子の姿が映っていた。歯が崩れるくらいは、美枝子が襲われる事を考えればどうということはない。ギリギリと歯が軋む。ようやく端の方から切れ目が入ってきた。
「ぐおおおお!」
根性で歯を食いしばる。苦闘三十分、ついに紐が切れた。
「待ってろ、美枝子!」
洋は庭を駆け出し、柵越えの後、往来に出た。




