9-6 全部やるから
「あと少しや! 気張りや、アステラ」
ダガンがアステラを見つめていた。
全身を抱かれて、優しく背を叩かれる。
――そうだ。あと少し。
けれど、体が重くて動かない。
血を流しすぎた。息をつく間もなく動き回っていたツケが、今になって全身にのしかかってきている。
「ごめんな、アステラ。しんどいやろな。代わりに戦ってもやれん、雑魚でごめんな」
海面を目指しながら、くしゃりと顔を歪めてダガンが呟く。何を謝ることがあるのかと、アステラはぎこちなく口角を上げた。
ダガンは一緒に戦ってくれている。今だってアステラが溺れないよう助けてくれたし、戦う術どころか己の身を守る術さえ知らないくせに、命を掛けてアステラの隣にいてくれるではないか。
もうひと踏ん張り、と気合いを入れ直そうとしたその時、ダガンはくしゃりと片手でアステラの髪を掴むと、そっとアステラの口元に血の滲む指を押し付けてきた。
熱く甘い血。死にかけるたび何度もアステラを生かしてくれた、ダガンの血だ。それまで優しくアステラの体を温めてくれるばかりだった血は、しかし今に限っては様子が違った。
海水ごとダガンの血を飲み下した途端に、かっと燃えるようにアステラの全身が熱くなる。
中心から末端へと瞬く間に広がった熱は、どくどくと内側から全身が弾け飛んでしまいそうなほど、激しく鼓動を高めていった。
「……っ⁉︎」
経験したことのない感覚に仰け反った瞬間、ふわりと水に揺られた髪が視界の端に映り込む。
クラーケンの墨で黒く染まった己の髪。見慣れた自分の髪であるはずなのに、墨が落ちた端に見える色は、どんな目の錯覚なのか、ダガンと同じ銀色をしているように見えた。
目を瞬かせるアステラを、ダガンは強くかき抱く。
「……なあ、全部やるわ。俺にできることなんざほとんど何もないけどな、血でも肉でも、歌でも命でも、……愛でも。アステラが欲しがってくれるなら、全部やるから。せやから――」
――愛?
真剣な顔してるところ悪いけど一度止まってもらっていいかと遮りたくて堪らなかったが、ダガンと違って海中で喋れば溺死待ったなしのアステラは、泣く泣く唇を噛むことしかできなかった。
ぎゅう、と縋るようにアステラを抱きしめ、祈るようにダガンは呟く。
「クソな呪いもクソな悪魔も、吹っ飛ばしてきてや。俺、お前が好きやねん。呪いが解けたら、ちゃんと言いたいことが――んん?」
聞き間違いかと本気で耳を疑った。唖然としながら、アステラはダガンを仰ぎ見る。
自分で言ったくせして自分で自分の言葉に驚いているらしいダガンは、アステラと目を合わせると同時に、幼子のように首を傾げた。
かと思えば、次の瞬間、耳まで真っ赤になって喚き出す。
「……言えとるやんけ! あのクソ悪魔!」
ふざけるなだの呪いのくせにだのと支離滅裂に喚きながら、ダガンは乱暴にアステラを海面へと押し上げる。
咄嗟に岩崖へと掴まるなり、アステラは自分と同じく海に落ちていたらしいイリヤの姿を、すぐ近くで見つけた。
「イリヤ」
「……尻尾まで斬られるなんて、びっくりしました。あれも君たちの計画ですか?」
強くなりましたね、と微笑むイリヤに、アステラは空笑いを返すことしかできなかった。
カザンガンがあの場にいたのはただの偶然だし、ダガンがやらかさなかったら、そもそも存在に気づきもしなかった。たまたまダガンが機転を効かせただけの、完全なる行き当たりばったりである。
「翼も斬られて、尾も落とされた。二人がかりで寄ってたかってひどいです。これじゃ、もう人前には出られません」
翼をぺたりと海面につけ、イリヤは悲しげに目を伏せる。ぷかぷかと肩上だけを海に浮かばせていると、灯台で暮らしていた時と同じ、優しげな青年のようにしか見えなかった。
けれどアステラはもう騙されない。
体は相変わらず異様に熱く、鼓動も苦しいほどに上がったままだったけれど、それを無視してアステラは素早く陸へと上がった。崖の上に両足をつけると同時に、アステラは己の足に食いつこうとしていた使い魔の首を、姿を見るより先に切り落とす。
「……人前に出られなくても問題なさそうだな、イリヤ」
「残念。気付いてたんですね」
ちっとも残念そうに聞こえない言い方で呟きながら、イリヤは意地悪く口角を上げた。
使い魔の残骸を海へと蹴り落としながら、アステラは「イリヤのこと、ちょっと分かったって言っただろ」と肩をすくめて返す。
「俺、人形遊びはもうしたくないよ」
「そうですか。なら、次は何をして遊びましょう? 君が疲れて動けなくなるまで、いくらでも付き合いますよ」
イリヤが美しい微笑みを浮かべて囁いた瞬間、控えめに水をかき分ける音が聞こえた。海面を突き抜け、ぬっと白い腕が現れる。
「――ほなら俺とも遊んでや」
言うが早いか、ダガンは背後からイリヤに両腕を回し、凄絶な笑みとともにイリヤを海へと引き摺り込んだ。
いくら海とはいえ、戦えないダガンがあれだけイリヤに近づくのは自殺行為だ。アステラは顔を青ざめさせたけれど、幸運にも血しぶきが上がることもなければ、ダガンの体が宙を舞うこともなかった。
代わりに、声が聞こえた。
「よくも散々好き勝手してくれたもんやわ、クソ悪魔。――いや、イリヤ?」
聞くだけでぞわりと痺れが走る、甘い声。水中から声など聞こえるはずもないのに、波と風の音に交じるようにして、たしかにダガンの声が聞こえた。耳元で囁かれているようにも、遠く水平線の向こう側から響いてきているようにも思える不思議な声は、海と隣り合うこの場においては、何より強い力を発揮する。
「苦しいか。海で生きることすら出来へん、ひ弱な陸魔が。可哀想になあ」
くすくすと笑う声はたしかにダガンのものであるはずなのに、とても先ほどまで喚いていた男のものとは思えないほど艶やかだった。誘われているのは自分ではないのに、うっかり海へと踏み込みそうになって、慌ててアステラはそんな自分を窘める。
直後に、ひどく音痴で不快な歌が耳を貫いた。
魔族が嫌う魔除け歌。半魔のダガンにだけ歌える、特別な歌だ。人間のアステラでさえ思わず耳を覆いたくなる不気味な歌を、どうやらダガンは至近距離でイリヤに聞かせているらしい。ひどい嫌がらせだ。
ごぼり、ごぼりと不穏な泡がいくつも生まれ、あちらこちらに湧いては場所を移動する。
固唾を呑んで海面を見守っていると、濡れそぼった翼がばさばさと忙しなく海面を叩く様子が見えてきた。海の下でいったい何をしているのか。
いよいよ待っていられなくなり、飛び込もうとした瞬間、不意にダガンが助けを求めるように海から腕を伸ばしてきた。
「ダガン?」
歌こそ途切れず続いているけれど、くいくいと指を曲げる動きは、間違いようもなくアステラを誘っている。
何のつもりかと手を伸ばすと、アステラがダガンの手を掴むより早く、ダガンは強くアステラの手を強く握り込んできた。そのまま握り合った手を支点とするように豪快に跳ねあがったダガンは、ともすればアステラが押し流されそうになるほどの荒々しさで、勢いよく水を跳ね上げてくる。
まともに正面から海水を浴びせられたアステラは、鼻まで入ってきた水にむせながら、じとりとダガンを睨みつけた。
「何するんだよ! つーか、何やってんだよ! 無茶するな!」
「時間稼ぎや、時間稼ぎ。体がおかしゅうなっとったのも、そろそろ治まったやろ」
地面に寝そべりながらアステラを見上げて、満足げにダガンは微笑んだ。言われてみれば、とアステラは目を瞬かせる。
ダガンの血を飲んだ直後に感じた、体の内側から弾けてしまいそうなほどの奇妙な熱さは消えていた。それどころか、体中にあったはずの小さな傷も、重くのしかかる疲労感も嘘のようになくなっている。
何かしたのかと聞こうとした瞬間、ばさりと不穏な羽ばたきの音が聞こえてきた。
音を追って視線を海に向けると、片翼で不安定に宙へ浮かんだイリヤが、見たこともないほど引きつった笑顔でアステラを見つめていた。




