9-5 いつも通り
「馬鹿ダガン!」
半泣きになりながら叫んで、アステラは全力で背を翻す。海際に居たはずなのに、気付けば随分と陸側に追い込まれていた。
迫りくる無数の黒い尾は、どれが本物でどれが偽物なのかすら分からない。ダガンの挑発の甲斐あってか、先ほどより攻撃の軌道が読みやすくなっていることだけが幸いだった。
自分たちに届きそうなものだけを剣で捌いて、アステラは必死でダガンを守る。自分では攻撃ひとつ避けられないくせに、恐怖も躊躇も一切見せずに命を委ねてくる、愚かで愛しい腐れ縁の男を。
あちこち切られて、アステラの体は血まみれだった。そうでなくともイリヤを呼ぶために手首を切ったから、溢れる血が不快で仕方がない。おまけにダガンのやらかしのせいで海水は被るわクラーケンの墨を被るわ、今日はもう散々だ。
けれど、不思議と恐怖は感じなかった。
「よっしゃ海や! 飛び込めアステラ!」
暗く揺れる海を見るなりダガンが叫ぶ。
「逃がすと思いますか?」と苛立ちの込もったイリヤの声が聞こえたけれど、アステラは足を止めなかった。
「……何とかしろよな!」
全力疾走した勢いのまま、アステラは強く岩崖を蹴る。
――ああ本当に、ダガンの言う通りだ。
迫りくる海面を見据えて息を大きく吸い込みながら、アステラはひそやかに笑う。
陸でアステラが攻撃の手を凌いだら、海でダガンが敵を振り切る。打ち合わせも計画も何もない、二人で修羅場から逃げ出す時のお決まりの手順だ。
まったく憎らしいほどいつも通り。違うのはただ、アステラたちは逃げ出すために海へ逃げるのではなく、イリヤを仕留めるために逃げるということだけ。
どぼん。
派手な水音を立てて海の中へと沈むや否や、荷物を抱えるのはアステラではなく、ダガンの仕事に代わった。
アステラの頭を胸に抱き込むように抱えたダガンは、力強く尾びれを動かして加速する。陸と海を隔てる崖の、ちょうど真下に位置する岩を目掛けて、まっすぐに。
急激な加速で脳は揺れるし、暗い海中を振り回される気分は控えめに言っても最悪だ。自分の血がたなびくように後を引いては、海をみるみる汚していくのが分かる。
貧血か酸欠かも分からぬ目眩のせいで、視界までもが掠れてきた。それでもアステラは、ダガンを信じて身を委ねた。
動きを止めるとダガンは言った。ならばアステラの仕事は、その時を逃さずイリヤの物騒な尾を切り飛ばすことだ。
イリヤの尾と使い魔たちは、まるでひとつの生き物のように群れをなし、猛烈な勢いでアステラたちを追いかけてきた。一際鋭く迫るのは、白黒の影に紛れて海をかき分けてくる、影も形もない斬撃だ。とうとうダガンの尾びれを捕らえたそれが、肌を無慈悲に裂こうとした瞬間、ぐんとダガンは進行方向を変えた。
曲がりきれずにそのまま岩を貫いたイリヤの尾を尻目に、ダガンは上へ上へと高度を上げていく。
「今や! 上で斬れ!」
アステラを海面へと押し上げるように、ダガンはアステラから手を離す。
泡が噴き出す。海が揺れる。
見下ろせば、海底で静かに眠っていただけのところを、イリヤの尾で叩き起こされた岩の魔物――カザンガンが、まさに怒りの声を上げてカッと目を見開くところだった。
視界が泡で埋め尽くされた次の瞬間、カザンガンの頭部から、鉄砲水のような水柱が噴き上がる。その名の通り火山が噴火するかのごとく凄まじい勢いで、カザンガンは己を貫いた不届きものを吹き飛ばすように、周囲のものすべてを海上へと打ち上げた。
海面にいたアステラも、海中にいたダガンも、――そして、尻尾ごと水中噴火に巻き込まれる形になった、哀れなイリヤも。
「……ちっ!」
顔を歪めたイリヤの体が、噴き上がる水に引きずり込まれて空中へと投げ出される。頼みの翼も、片翼ではイリヤの体を支えるまでには至らない。
水飛沫がアステラの姿を隠す。その一瞬で十分だった。
ともに打ち上げられた岩と、ダガンの肩を足場がわりに、アステラは一気にイリヤと距離を詰めていく。
イリヤがアステラに気づいたときにはもう遅かった。全力で剣を振りかぶったアステラは、落下の勢いに自らの体重を載せて、勢いよく剣を振り下ろす。
首を狙うには視界が悪い。凶悪な尻尾はどれが本物か分からない。
けれど、胴から下を切るだけなら朝飯前だ。たとえ目でははっきりと見えずとも、カザンガンを貫いたばかりのイリヤの尾は、切ってくれと言わんばかりに伸びきっているはずだから。
「アステラくん……!」
目を輝かせたイリヤが、感嘆するようにアステラの名を呟く。しかし、剣を振ることに必死だったアステラには、その声に答えるだけの余裕もなかった。
「よ、い、しょっと!」
骨で止まった刃に力を込めて、気合いと力で無理やり剣を進める。ふんぬ、と歯を食いしばりながら骨を断ち切った瞬間、まだらにクラーケンの墨で染まっていたイリヤの尾は、白い鱗を露わにして、海へとそのまま沈んでいった。
もちろん、勢いをつけて切り掛かったアステラもまた、切り離されたイリヤの尾の同じだけの勢いで海へと落ちていく。
「あらら」
緊張感のないイリヤの声が聞こえた時には、すでにアステラの体は海に叩きつけられ、水底すれすれまで沈んでいた。頭から水に落ちたせいか、意識が朦朧として、ろくに腕すら動かせない。
イリヤの首を切って器を壊さければ意味がないのに。
遠ざかる水面を見つめながらごぼりと空気を吐いた瞬間、誰かが力強くアステラの腕を掴んだ。




