9-4 当て馬は誰だ
「――くっそ、今度は何や!」
「ああもう……!」
イリヤの尾でぐるぐる巻きにされたダガンは、今にも頭から崖に叩きつけられる寸前だ。しかし当の本人はといえば、今の状況もろくに分かっていないのか、「寄ってたかって人を虐めて何やねん!」とのん気に喚くばかりで逃げようとすらしていない。
「このアホダガン!」
とうとう堪え切れずに罵声を放ったアステラは、その場で強く地面を蹴って飛び上がると、素早くイリヤの尾を斬った。――はずだった。
(手応えがない……?)
たしかに斬ったはずなのに、手には斬った感触がまるでない。霧でも斬ったかのような気持ち悪さに眉を顰めつつも、アステラは空に投げ出されたダガンを抱き留めると、そのまま滑るように崖先へ着地した。
「……ああ、びっくりした。助かったわあ」
ひしと抱き着いてくるダガンに頬を引きつらせながら、アステラは唸るように怒声を放つ。
「何をどうしたらこの短時間でそんだけ色々狙われるんだよ! これじゃ計画も何もあったもんじゃねえだろ、クソダガン!」
「俺に言ぃなや! 壺投げたっただけでも感謝せえ! こっちは大変やったんやからな!」
「どうせうっかり魔物つついたとかその辺だろ! 嫌ってくらい知ってるんだよ、アホダガンのアホさは!」
「何やとこの恩知らず!」
ぎゃあぎゃあと緊張感なく言い合いながらも、アステラの手は淀みなく動き続けていた。左肩にダガンを抱え上げて逃げ回りつつ、次から次へと迫る攻撃を片手で捌く。ダガンに食いついていた魚型の魔物は別としても、切っても切っても無数に湧いてくるイリヤの尻尾はどうなっているのか。
「さっきはあんなに長くなかったのに!」
跳ぼうが走ろうが追いかけてくる尾を半泣きになりながら切っていると、ダガンが「幻や」と肩の上から口を出してきた。
「本物は一本だけや。あとは使い魔と幻やな」
「そんなの有りかよ!」
歯を食いしばりながらイリヤの攻撃をいなすアステラとは真逆に、殺意の高い攻撃の的となっているダガンはといえば、怖がる素振りすらない。それどころか「本物以外は無視してええわ」とのんびり言い出す始末であった。
「偽物も本物も分かんねえよ!」
「右のは使い魔、前のは本物。海から来るんは全部幻や」
手当たり次第に斬り続けていると、いくらアステラでも体力が持たない。半信半疑ながらもダガンの言う通り、右と前から来る攻撃だけに対処してみると、海から襲い掛かってくる黒い尾はどうやら本当に幻だったらしく、煙のように消えていった。
「……なんで分かるんだ?」
ちらりと視線を向けると、ダガンは得意げに顎を上げた。
「音や、音。本物だけ重い音がする」
「すごいけど……分かっても斬れないや、あれ」
イリヤの動きが早すぎる。
どうしたものかと眉間に皺を寄せていると、ダガンは何かを思いついたように拳を振り上げた。
「要は動き止めたらええんやろ? ほなら、いつもの戦法でええやん」
「いつものって?」
嫌な予感に、アステラは口元を引きつらせる。にんまりと悪だくみをするように笑ったダガンは、「いつものはいつものや」と答えにならない答えを寄越した。
「狙われとるのは俺。俺抱えて逃げるのはお前。――と来たら、逃げる先は海一択や!」
言うが早いか、アステラの肩の上で興奮したようにぴちぴち跳ねながら、ダガンはイリヤを挑発するように声を張り上げた。
「涼しい顔して腹ん中は煮えくり返っとるやん、蛇男! お察しの通り、こいつの呪い解いたんは俺や! 悔しいやろなあ、半魔ごときに出し抜かれて!」
ダガンが叫ぶなり、ぴくりとイリヤが眉を引きつらせる様子が遠目に見えた。迫りくる攻撃の手は、イリヤの怒りを反映するようにますます勢いを増していく。
「おいダガン――ぅ!?」
挑発するなと言いかけた瞬間、アステラの唇は物理的に塞がれていた。
ダガンの唇で。
逃げ回っている最中に、一体何をし出すのか。硬直したのはアステラだけではなく、イリヤの攻撃の手まで刹那の間止まっていた。
見せつけるようにアステラに口付けて、ダガンはゆっくりと唇を離し、顔を上げる。
「……こいつが愛する人は誰もこいつを愛さへん、やったか? アステラを当て馬にしてどいつもこいつもくっついてく胸糞悪い『当て馬の呪い』、結構なもんやないか。性悪すぎて感服やわ」
がばりと強くアステラの肩を抱きながら、ダガンは挑むようにイリヤへ指を突きつけた。
「でも残念やったなあ! 自分が言うた通り、生憎俺は人間やないもんでな。効かんねん、そんなクソな呪い。解けへん呪いやろうが移せん呪いやろうが関係あらへん。呪ったやつが報いを受けろって話やわ! ……こういうの、なんて言うんやったかなあ」
わざとらしく額に手を当てた後で、「せや」とダガンは嫌みたらしく口を開いた。
「――呪い返しや。なあ、愛しても愛してもらえへん当て馬は誰や? ありがとうなあ、おかげで俺は、欲しくてたまらんかったもんが自分から飛び込んできてくれて幸せやわ」
ダガンが言い切った瞬間、ただでさえ蛇らしく縦に伸びていたイリヤの瞳孔が、裂けるように一気に広がった。
「……身の程知らずのひ弱な半魔くん。君の名前は何でしたっけ」
「ダガン」
「覚えておきます」
凍りつきそうなほど冷たい声が聞こえたときには、目の前に無数の斬撃が広がっていた。




