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9-1 決戦前夜

 月明かりもなければ喧騒もない、静かな夜だった。

 澄んだ空は日が沈んで久しく、見上げれば冬らしく煌々と光る星々が、控えめに夜を彩っている。

 生け贄としての運命に立ち向かうと決めるや否や、アステラは早速イリヤを呼び出そうとした。ところが、これに強く反対したのがダガンだった。


「呪いが解けようが期限は期限。呼ぶまであいつは来ぉへんはずや。猪やあるまいし、準備くらいしっかりせえ。相手はどぎつい性悪悪魔やぞ。向こうが俺らを舐めとってくれるから辛うじて勝機があるってだけで、まともにやったら勝てる相手やないんやからな!」


 そう言われるとぐうの音も出ない。ダガンの意見に従うことにしたアステラは、いつイリヤに襲われるかと戦々恐々としつつも、日がな一日教会の周りで穴掘りをし、雑草を摘んでは燃やすという不毛な作業を繰り返した。

 かくして、時刻は深夜を迎えようとしている。

 あっという間だったな、とアステラはしみじみと感慨に耽った。

 今日という一日もあっという間なら、死の呪いを掛けられてからの二週間もあっという間だった。ついでに言えば、ヴィンブルク伯爵領を逃げ出してからここに戻ってくるまでだって、アステラの感覚ではせいぜい二、三ヶ月しか経っていないので、あっという間の範囲内だ。


「――準備終わったで。いつでもいける」


 ちゃぷりと水音を立てて、ダガンが海面から顔を出す。岩崖の上で準備運動をしていたアステラは、その声を聞くなり、さっと海辺にしゃがみ込んだ。


「ありがとう、ダガン。サレたちも準備できてるって」


 ちらりと周囲に目を向ける。

 夜の海には、繊細なまじないが刻まれた小舟が二隻。

 遠く見える教会の尖塔の先には、淡く光を発するまじないがひとつ。

 入り江を囲むように配置されたそれらは、いずれもイリヤを逃がさないための網――結界を張るため、サレたち教会の面々が用意してくれたものだ。


「入り江なら人もいないし、暴れても目につかない。伯爵領様様だな!」

「せやな。……その様子やと、香り玉も間に合ったんか」

「最低限はな。草むしりはもうしたくないよ、俺」

 

 蛇の嫌う香りを生む青草と、灰と混ぜて処理すると発煙筒の材料となる鉱石。いずれも教会の周りにある素材とはいえ、ひとりで採取するのは骨が折れた。

 遠い目をするアステラにひとつ頷きを返して、ダガンも「あっちも大人しいもんやで」と呟いた。

 

「ええ子で壺に入っとる」


 水に濡れた髪をかき上げながら、ダガンは水底に視線を向ける。正確には、その下に潜んでいるであろう、()()へと。

 不安げに眉根を寄せつつ、ぼそりとダガンがぼやきを零した。


「クラーケンのガキなんざ陸のそばに連れてきて、騒ぎにならんとええけど」

「大丈夫だって。夜だし、誰も見てないよ。それに、子どものクラーケンは臆病だから、壺を割ったらすぐ逃げるはずだ」

 

 アステラの昼一番の大仕事が採取と道具作りなら、ダガンの大仕事は、周辺海域にいるはずのクラーケンの子をここまで連れてくることだった。

 

「しっかし、クラーケンの孵化場がこの辺りにあるなんて、よう知っとったな」

「海魔の里にクラーケンがいただろ。大きかったけど、まだ若い個体だった。あいつら大体潮の流れに乗って動いてるから、幼体がいるならこの辺りだと思ったんだよな」


 クラーケンは怯えさせると墨を吐く。怯える必要もないほど強い成体は別として、未熟な幼体は、敵を怯ませて逃げようと墨を吐く頻度が多い。見つからなければ見つからないで構わなかったが、簡単には落ちないクラーケンの墨を使えば、イリヤの見えない斬撃を視認する役に立つだろう。


「アステラの言う通りやったってわけや。ついとったな。幸先ええやん」

「ついてるって言うなら、俺はイリヤが本当に来なかったことの方がびっくりだけどな」


 これまでのアステラたちの動きを把握していたことからして、使い魔とイリヤの間には何かしらの繋がりがあったはずだ。使い魔が死んだことはもちろん、アステラに施した死の呪いが解かれたことまでも、イリヤが気づいていてもおかしくはない。

 てっきり自らの手でアステラの命を取りに来るものかと思っていたけれど、事ここに及んでも、イリヤが近づいてくる気配は感じなかった。

 

「来ぉへんって言うたやろ。お気に入りのお前がへこたれんだけでも嬉しいやろうに、一生懸命自分を歓迎してくれようとしとるんやぞ? かわいくてしゃあないんとちゃう? いくら性悪でも、水差すような真似せぇへんて」

「どんな気持ちなんだよ、それ」


 呼ばれた先に待っているのは殺し合いだというのに、それではまるで、子供のおつかいを見守る親ではないか。あるいはペットを見守る飼い主のような心持ちか。少なくとも、己の喉元に食いつこうとする獲物を見る姿勢ではない。

 ダガンは共感を感じさせる口ぶりで語ったけれど、アステラには魔族の考え方はちっとも理解できそうになかった。

 頬を引きつらせるアステラに、ダガンは肩を竦めて返す。


「好きなやつほど虐めたいってやつなんちゃう?」

「だから呪いを二つも掛けたって? 二十二になったら死ぬ呪いも大概だけど、当て馬にしかなれない呪いも俺、ずっと悲しかったのに」


 言った直後に、そういえば、とアステラは海面へ身を乗り出す。


「俺の当て馬の呪いってどうなってるんだ? そっちも解けたのかな」

 

 死の呪いはダガンが自らの体を身代わりにして移してくれたけれど、イリヤが祝福と呼んだ方の呪いはどうなったのか。

 アステラが愛する人は、誰もアステラを愛さない。赤ん坊の時にアステラが受けた呪いは、目に見える印もないため、解けたのかどうかすらも自分では分からないのだ。

 かすかな期待を込めてダガンを見つめると、無言でアステラを見つめ返したダガンは、ゆっくりと口を開いた。


「俺、アステラのこと、()()()()()

「いきなり何だよ! 泣くぞ!」


 ふざけ半分で喚きつつ、アステラは両手で顔を覆って泣く真似をした。ダガンの言葉が本気ではないと分かっているからこそできる反応だ。

 冗談だとしても聞きたくはない言葉ではあったが、ダガンがアステラのことを本気で嫌いだったら、いくらなんでもここまでしてくれるはずがないということくらい、アステラだって分かっていた。名目上は取引としてダガンはアステラの旅へと同行してくれたけれど、ここまで付き合ってくれたのは、きっとそれだけではない。

 自分がダガンを大切に思うのと同じだけ、ダガンもアステラのことを特別に思ってくれている。自惚れだろうと何だろうと、自分のために命を懸けてくれたダガンのことを、アステラは信じていた。怖がるなと、信じていいのだと、ダガンが何度も繰り返し教えてくれたから。

 それに、と指の隙間からアステラはダガンの顔を盗み見る。

 唐突な言葉とは裏腹に、ダガンの眼差しも声も柔らかかった。慈しみさえ感じさせる穏やかな表情は、言葉の内容とは真逆の優しい温かさに満ちている。


「……残念やけど、そっちの呪いは解けてへんなあ」


 ため息まじりに呟いて、ダガンはぶくぶくと海に沈んでいく。鼻の上まで海に浸かったダガンを見ながら、アステラは小さく首を傾げた。

 

「今ので何が分かったんだよ」

「何でもええやろ。分かるもんは分かるんや。当て馬の呪い――祝福は、あの悪魔が自分の生け贄の『金髪碧眼の赤ん坊』に寄越したもんなんやろ? きっちり対象の色まで指定されとるから、移せる類のもんやないんや、多分」

「それ、イリヤの器を壊しても呪いは解けないってこと?」


 一生このままは嫌だ。

 頭を抱えかけたアステラの髪先を、じっとダガンが見つめていた。まるでそこに答えがあると言わんばかりの、迷いのない眼差しで。


「……どうにかなるわ。ちゃんと()()()()()()()。ぎりぎりやけど、夜まで待った甲斐があった。戦って血ぃ流せば、一気に染まるはずや」

「はあ?」

 

 何のことかと顔を上げるが、ダガンは話は終わりだとばかりに言葉を被せてくるだけだった。


「なんも心配せんでええって言うたやろ。アステラはあの悪魔を倒すことだけ考えとけ。一番危ない役をやるのはお前なんやから」

「俺は元々こういう仕事してたんだからいいんだよ。危ない役っていうなら、ダガンだって大概だろ」

「誰に物言うとんのや」


 ぴちゃりと尻尾で水を跳ね上げて、波に揺蕩う人魚は笑う。

 海は海魔の領域だ。海中にいる限り、誰もダガンを捕まえられない。


「……さ、そろそろやるとしよか。日ぃ跨ぐ前に終わらせたいしな」


 ぐいと大きく伸びをして、ダガンはアステラを促すように声を掛ける。

 

「日、跨ぐと何か悪いのか?」

「何てお前、明日が誕生日なんやろ」


 言われてみればその通りだ。誕生日というよりもタイムリミットという印象が強すぎて忘れていた。

 きょとんと目を見開くアステラをからかうように、ダガンは小さく口角を上げる。

 

「無事に終わったら祝ったるわ。まあ、ダメでもまた海に逃がしたるからええけどな」

「ありがとう。でも逃げないよ。俺、負けないから」


 にかりと歯を見せて笑って、アステラは真っすぐに拳を突き出した。


「頑張ろうな! やらかさないでくれよ、ダガン」

「こっちのセリフや。しくじりなや、アステラ」


 ごつりと勢いよくアステラの拳に拳をぶつけ返したダガンは、そのまま海の底へと消えていく。

 海面にダガンが残した最後の泡が消えるのを見届けて、アステラは音もなく立ち上がる。懐から神樹の描かれた紙を取り出したアステラは、まじまじとそれを眺めた後で、縦一直線に引き裂いた。準備ができたらこの紙を破れという言葉とともに、サレが渡してくれた合図の道具だ。今ごろ、教会に潜むサレが結界を張るタイミングを計ってくれていることだろう。

 ひとりでに燃え上がる紙をひらりと宙に離して、アステラはするりと剣を抜く。


「――イリヤ。来てくれ。話がしたい」


 小さな声で囁いて、アステラは己の左手首にためらいなく刃を走らせた。

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