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8-2 切れてほしくない縁

「せやから捕まるのはまあ、俺にとっては一種の娯楽やった。お前はいつも一生懸命助けてくれたけどな、別にほっといてくれても良かったんやで。アステラが何をしようがしまいが、俺は人間によう取っ捕まる。死ぬなら死ぬで構わんかったし、知らん人間が俺のせいで何人死のうが、俺の知ったこっちゃないからな。必死に捕まえた人魚がただの半魔やって気づいた瞬間の、間抜けな奴らの顔もおもろかったし」

 

 そう言うとダガンは、アステラの耳元へと口を寄せ、睦言を囁くように言葉を紡いだ。


「……お前が頑張って助けに来てくれんのは嬉しかったけど、お前が思うほど、俺は優しくもなければ間抜けでもあれへんねん。ごめんなあ、アステラ」


 くすくすとダガンが吐息を漏らして笑う。

 それは何に対する謝罪なのかと尋ねるだけの余裕もなかった。

 目の前にいるのはたしかにダガンなのに、態度も纏う雰囲気もまるで別人のようで、身が竦む。アステラの耳をくすぐるように撫でる手つきも、当たり前のように腰を抱いてくる腕も、ゾッとするほど色っぽい。声を聞いているだけで、ぞくぞくと勝手に肌が粟立っていく。

 ――この男は誰だ。

 息が止まりそうな気分でそろりと顔を上げると、ごつんと鼻先がダガンの鼻先にぶつかった。

 目を見開いたダガンは、ぱちぱちと不思議そうに瞬きをした後で、不意に見慣れた苦笑を浮かべた。


「何やねん。悪さしたガキみたいにびくびくしとったと思ったら、今度はえらく落ち着かんなあ」

『ダガンが変なことするからだろ!』


 うっかりいつものように言い返したところで、はたとアステラは口を閉ざした。

 こんな風にダガンと話す資格は、自分にはない。

 言うべきことがあるはずだ。聞くべきことも。

 何度も唇を開いては閉じるアステラを、ダガンは急かすこともせずにじっと待っていた。

 穏やかな眼差しに縋るように、アステラは震える唇をゆるゆると開く。


『……なんで?』

「何が『なんで』なんや?」


 なんで優しくしてくれるのか。

 なんで死にかけるほどの傷を負わされて、たった一言だってアステラを責めないのか。嫌になったと見放さないのか。ついてくるんじゃなかったと怒らないのか。

 なんでダガンが捕まるように仕向けてきたアステラを恨まないのか。気にするなとばかりに、自分のことを教えてくれるのか。

 聞きたいことはたくさんあるのに、何を聞けばいいのかも分からない。アステラは途方に暮れて、ただ同じ言葉を繰り返す。

 

『なんでだ、ダガン』


 それ以上の言葉を口にしないアステラを見つめた後で、ダガンは仕方のないやつだとでも言いたげに、目元を和らげた。

 

「……何聞きたいか知らんけど、どうせしょうもないこと考えとるんやろ。アステラがごちゃごちゃ悩んどること全部、多分一言で答えてやれる言葉はあるけどな、聞きたいんやったら呪い解く方が先やわ。今の俺からは何も言えん。お前、変なところで面倒やから、言葉歪ませるくらいなら下手なこと言いたないんよ」

『歪ませるって?』

「こっちの話や。ほっとけ」

 

 そう言ってダガンは八つ当たりのようにアステラの頭を掴んで揺さぶってきた。


『なにするんだよ!』

「鳥頭はすぐ忘れて困るわあ。何があっても見捨てへんし、甘ったれのアホがどんだけアホなことしようが構わへんって、俺はつい最近も言うた覚えがあるぞ。覚えるまで何回でも言うたるわ」

『何度もって……』

 

 当たり前のように与えられる言葉も、頭を掴む手の力強さも、寄り添う体のあたたかさも、あまりに贅沢だった。意識した瞬間、夢を見ているのではないかと本気で怖くなってくる。

 唇を噛んで身を強張らせるアステラに気づいたのか、ダガンは頭を揺さぶる手を止めて、訝しげに顔を覗き込んできた。


「どないした?」

『……苦しい』

「苦しい? どこが――」

『ここが』


 唯一動く左手で、アステラはダガンの服の胸元をぐしゃりと掴んだ。

 胸がいっぱいになって弾けてしまいそうな気持ちと、わけも分からず心臓が締め付けられるような気持ちが混じり合って、息が上がる。うっかりと滲みかけた涙を必死で堪えながら、アステラは縋るようにダガンを見上げた。


『ダガンといると、胸が苦しい。なんでだ。どうしたらいい……?』

 

 アステラが問うなり唇を引きつらせたダガンは、天を仰ぐように額を押さえたかと思うと、細く長い溜息をついた。

 やがてゆるゆると手が外されると、隠れていたダガンの瞳が露わになる。

 二色の瞳で見据えられた瞬間、誇張抜きにアステラの息は止まりかけた。

 見ているだけで体が熱くなるような熱情の籠った眼差し。間近で向けられた途端に、恐怖と歓喜で逃げ出したくなる。


「甘ったれ。聞かなくたって知っとるくせに」


 知らない。分かるはずもないし、分かってはいけない。

 顔を背けようとした瞬間、それを咎めるようにダガンはアステラを強く抱き寄せた。


「なあ、そんな怖がらんでええ。アステラ」


 その声があまりに優しいものだから、思わずアステラは抵抗をやめて、見惚れるようにダガンの瞳を見つめていた。

 

「大丈夫やから。怖がることなんて何もない。友達も恋人も腐れ縁の知り合いも、表面の呼び方変えて周りに分かりやすくしとるだけでな、根っこのところはそんな変わらへんわ。縁が切れるときは切れるし、続くときは続く。呼び方ひとつ変えただけで『絶対こうなる』なんてもん、あらへんて」

『じゃあ、切れて欲しくない縁はどうしたらいい』

「さあなあ。切っても切れへんくらい雁字搦めに結んどいたらええんちゃう?」

  

 本音か軽口かも分からぬ声音で囁きながら、ダガンはアステラを優しく抱きすくめた。慰めるような、愛おしむような手つきは、心地よいのに恐ろしい。何を言えばいいのか分からなくなって、アステラは耳についた言葉をただ復唱した。


『雁字搦め』

「せやで、雁字搦めや。悪魔でも解けんくらいの腐れ縁なんて、ぴったりやろな」

『……適当言いやがって』


 唇の動きだけで言い返しながら、アステラはダガンの胸元を掴む手に力を込める。

 怖がるなとダガンは言った。甘えてもいいのだと、優しい腕が教えてくれる。最後の逡巡を断ち切るように、ダガンはアステラの耳元で甘く囁いた。


「アステラ」


 声に呼ばれるように鼻先をすり寄せた時には、もう正しい距離感なんて分からなくなっていた。

 心が命じるままに顎をわずかに上げて、目を閉じる。ひそやかな衣擦れの音が響くと同時に、最後に残っていたかすかな距離さえなくなって――次の瞬間、唇に柔らかな感触が重なっていた。

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