7-6 物知り
「そやから半年前、あの伯爵は俺の血ぃ取ろうとしたんか」
ぽつりとダガンが呟く。そういえば、どうしても君を死なせたくないから異形の血を飲んでくれと、ヴィンブルク伯爵はサレに言っていた。
頷いたサレは、憂いを帯びた表情で、自らの纏うローブをぐしゃりと掴んだ。
「旦那様の気持ちは嬉しかったけど、神樹はそこまで優しくない。契約に厳しいって意味では、悪魔とそう変わらないんだ。人魚の血だろうが薬だろうが、それで予言をごまかそうだなんて、そんな卑怯なことは許されない。加護を受けたまま神樹を欺こうとした人は過去に何人もいたけど、皆例外なく神樹から裁きを受けた。予言を覆そうと思ったら、神樹の加護――契約そのものを無効化しないと意味がないんだ」
「それと媚薬がどう絡んでくるん」
アステラの疑問を代弁するようにダガンが問うと、ぱっと顔を上げて、迷いなくサレは答えた。
「だから、契約を無効化するんだよ! 契約に曖昧な言葉を使うと、悪魔はすぐに揚げ足を取ってくるでしょう? 逆に、解釈の余地もない契約なら、文言ひとつ崩すだけで契約なんて簡単に崩れる。僕が受けた予言は『塩の街に生を受けし天使の子、生誕から二十五年目の炎の月に、神樹の根の糧として身を捧げる』――天使の子は、神職者のこと。神職者は純潔を守ることを神樹に求められる。つまりは純潔でなくなれば僕は神職者ではなくなるし、予言も僕を縛れなくなるはずなんだ」
淀みなく語るサレの目つきは、アステラが付き合っていたときには見たこともないほど冷静で、計算高い。あるいは、当時はそういった一面を隠していただけなのかもしれない。
「文言ひとつ崩すだけで……」
サレの言葉の一節をとらえて繰り返したダガンは、何かを考え込むように目を伏せた。かと思えば、どうかしたのかとアステラが聞くより前に、「なるほどな」とつまらなさそうに頷く。
「ぐたぐた言うとるけど、要は誰かとヤればええんやろ。なんでわざわざ媚薬使うねん。今言ったこと全部そのまま伯爵に言ったらええやん。好き合っとるんやろ」
「言ったよ! 旦那様がああまで愛してくださったから、僕も生きようと思えたんだ。一緒に運命を変えようと、旦那様も同意してくださった。……で、でも、自信がないんだ。僕、誰かを抱いたことなんて一度もないし、最後までできるか分からない。おまじない代わりの助けが、何でもいいから欲しいんだよ!」
必死に言い募るサレの目に、冗談の色はない。同年代の男そのものの欲と不安に満ちた目つきは、アステラが抱いていた『守ってあげたいサレ』のイメージをがらがらと崩していった。イリヤといいサレといい、自分は彼らのかわいらしい見目ばかりを見て、肝心の中身をろくろく見てはいなかったらしい。しょっぱい思いでサレを見つめていると、ハッとしたようにサレは姿勢を正して、控えめな微笑みを浮かべ直した。
「と、とにかく、そういうわけなんだ。お願い、アステラ。『恋の香り』の作り方、僕に教えてくれないかな? こんなこと他の人には聞けないし、悩んでたんだ」
いかにも清純そうな笑顔だが、聞いている内容は媚薬の作り方だ。何とも言えない気持ちになったが、アステラはダガンを通じて、サレに媚薬の作り方を淡々と教えた。
嬉しそうに微笑みながら、サレは「ありがとう」と上目遣いにアステラを見上げてくる。
「やっぱり物知りだよね、アステラ。人魚の血が万能薬って話、旦那様もアステラから聞いたって言ってたくらいだもんね。神秘の生き物、海の宝石、心奪われる美しさ――だっけ? アステラがいつも言ってたから覚えちゃった」
ついでのように呟いて、思い出したようにサレは首を傾げた。
「あれ? でもアステラ、いつも門番の仕事ばっかりだったのに。旦那様とお話することなんてあったんだね」
『……護衛させていただく機会は何回かあったから』
声なき声で呟いて、アステラは取り繕うように笑みを浮かべた。聞こえなかったのか、不思議そうにサレが口を開こうとしたその時、大路地からサレを呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら知り合いらしく、慌てた様子でサレは「すぐに行きます」と返事をしている。
「ごめん、行かなくちゃ。街のはずれの海際の教会、覚えてる? 今の僕の職場なんだ。寝床が必要なら、そこに来て! あと、肩を貸してる二人組って結構目立つから、できたら裏路地を使った方がいいと思うよ」
呪い移しの儀式の手伝いが必要なら請け負うからと言い残して、サレは慌ただしく大路地へと出ていった。
残された薄暗い細路地に、沈黙が落ちる。
アステラが何かを言うより前に、「ついとったな」とダガンは朗らかに言い放った。
「道具が揃ってよかったわ。あとは呪い移して、それで終いや」
いつも通りの口調だ。けれどなぜだか、アステラはダガンの顔を見ることができなかった。
何も悪いことはしていない。以前の職場で、アステラはただ世間話をしていただけだ。それなのに、自分が周囲の人間に人魚の話をしていたのだとダガンに知られてしまった途端に、たったそれだけのことがひどくやましく思えてきた。
「アステラが物知りなあ……」
からかうようにダガンが呟く。
「いつやったかな。夏の夕暮れ時にヴィンブルク伯爵領の浜から見る夕陽は絶景や言うて、教えてくれたことあったよな」
『そう、だったっけ』
「ああ。アホみたいに目ぇきらきらさせて喋るから気になって、うっかり見にいってもた」
『……覚えてない』
「そうか? 俺は覚えとる」
ダガンがアステラを抱く指が、ぐっと脇腹に食い込んできた。俯いた視界の端に、うっすらと孤を描くダガンの唇が映り込む。
「俺が取っ捕まる少し前くらいやった。なあ、アステラ?」
どくりと心臓が跳ねる。顔を上げないアステラをくすりと笑って、ダガンはアステラを促すように腕を優しく叩いた。
「――さ、教会やったな。ちゃっちゃと行こか」




