7-2 対等な取引
「今日は声か」
気遣わしげにダガンが顔を覗き込んでくる。
そうみたいだ、嫌な呪いだよな、と能天気に聞こえるように返事をしたかったけれど、口から出たのは掠れた吐息の音だけだった。眉を顰めたダガンは、肩を組んだまま、そっとアステラに頭を寄せた。ちょうど、アステラの口がダガンの耳元に来るように。
「あの性悪悪魔、さすが悪魔だけあるな。睡眠妨害、飯は食わせん、他人と話すのも許さへんってか。嫌ぁなことばっかり起こしよる」
本当にな。
唇だけを動かして答えると、ダガンはますます不機嫌そうに眉を顰めて、ほとんど睨みつけるような目つきでアステラを見た。より正確に言えば、アステラの喉元に居座っているだろう、呪いの蛇を。
「賑やかな声が聞こえんと、調子狂うわ」
『いつもうるさいって言うくせに』
「人が寝ようとしとるときまでべらべら話しかけてくるからやろ。別にお前と話すのが嫌やなんて言うたことあれへんし」
『つまり俺と話すの、好きってこと?』
「調子に乗っとんな。俺が言いたいのは、お前と一緒にいると――」
続く言葉は『疲れる』か『イラつく』あたりだろうか。『飽きない』『楽しい』あたりだったら嬉しいけれど、仮にそう思ってくれていたとしても、ひねくれもののダガンが素直に言うとは思えない。言葉の続きを待ってみたけれど、ダガンは苛ついた様子で口を閉ざしたきり、言うつもりはないようだった。
「……あかんな。歪むやろな、これ」
『何だよ』
「なんでもあらへんわ、クソ」
ヤドリギを手に入れてからというもの、ダガンはずっとこの調子だ。妙なツンデレ発言をしたかと思えば頭を抱えてみたり、会話の最中、まるで行き止まりに行き当たったかのように変なところで言葉を止めてみたりと、やたらと情緒不安定な振る舞いをする。慣れない旅につき合わせている上、負担を掛けっぱなしともなれば、無理もないだろう。
ありがとう、とアステラはダガンの耳に吐息だけで囁きかける。途端に、ダガンは胡乱げに片眉を上げた。
「はあ? 何のありがとうやねん、それ」
『今までのこと、全部。いつも助けてくれてありがとう。旅にもついてきてくれて、本当にありがとうな』
内緒話をしているような体勢だからだろうか。思っていることをそのまま口にするのに、何の抵抗も感じなかった。声にならない吐息だけで紡いだ言葉など、誰に届くわけでもない。聞き取れるのなんて、文字通り息がかかるほど近くで耳を傾けてくれているダガンだけだ。そう思ったら、するりと言葉が滑り落ちてきた。
『ダガンには迷惑ばっかり掛けてるけどさ、俺、こんなに楽しい旅は初めてなんだ。ダガンといると毎日楽しい。だから、ありがとう』
どうせなら声が出るときに言えばよかったとも思ったけれど、後の祭りだ。何かを失くすときは、いつも失くなってからしか気が付けない。
アステラの言葉を聞いたダガンは、たっぷり数秒もの間絶句して、やがて途方に暮れたように口を開いた。
「……なんやねん、急に。楽しいてお前、寝られんほどしんどい思いしとるやんけ。絶対楽しくないやろ」
アステラは黙って首を横に振る。
それはそれ。これはこれだ。呪いの痛みは確かにつらいけれど、夜中にダガンが時折起きては、アステラの様子を確認してくれていることも、額に滲む汗を拭ってくれていることも知っている。朝はこうして一緒に朝日を眺めてくれるし、昼間はつかず離れずの位置で船旅を楽しみ、夕方にはアステラのためだけに歌を歌ってくれる。自分には決して縁がないと思っていたあたたかな何かを、ダガンは惜しむことさえなく、当たり前のようにアステラに与えてくれるのだ。それがどれだけアステラにとって嬉しくて、夢のようなことなのか、ダガンにはきっと分からないだろう。
幼いころは、体調を崩しても周りに気取られぬよう振る舞うことが当たり前だった。温情で置いてもらっているだけの孤児が体調を崩せば、職場で煙たがられるどころか、最悪ねぐらからも追い出されることになる。大人になってからだって、弱った姿を他人にさらすことが恐ろしくて、その習慣は変わらなかった。
ごまかそうにもごまかされてはくれず、強引なくらいに世話を焼いてくれるダガンに、どれほどアステラが救われていることか。
呪いの痛みを対価にしたって、釣りが出るほど贅沢な日々だ。巻き込まれたダガンにしてみればたまったものではないだろうし、ひどく自分勝手な自覚はあるけれど、呪いが鳴りを潜めていた前半の旅は言うまでもなく、死が目前に迫った今だって、アステラは人生で一番楽しく幸せな日々を過ごしている自信がある。
『ダガンと一緒に旅ができて、すごく楽しいし、嬉しい。ありがとな』
「何回言うねん。俺は……、俺やって……こんな旅、来たくもなかった」
自分が無理やり巻き込んだのだから、ダガンからしてみれば当然そうだろう。そう思ったのに、なぜか焦ったようにダガンは自らの口を押さえて青ざめた。
「ちゃうねん! そうやない。俺は――」
『分かってるって。なんやかんやダガンは優しいからな。俺に付き合ってくれてるの、感謝してるよ』
「ちゃうって言うとるやろ! 俺は、お前といるとほんま疲れるんよ! 面倒臭いし、迷惑ばっかりかけよるし……せやからちゃうわ! なんでそうなるねん! クソ! こんなこと言いたいんとちゃうのに……!」
またダガンの情緒不安定が始まったらしい。頭を抱えて唸るダガンを、アステラは苦笑しながら見守った。
『いいって、負担かけてる自覚はあるよ』
「ちゃうねん! ええか、とにかくこれはちゃう。お前の呪い、よく思い出してみろや」
鬼気迫る勢いでダガンが言い募るものだから、思わず面食らう。もしかして、とアステラはダガンの腕を掴む。
『俺の呪い、ダガンにまで何かしてるのか』
「あ、ああ。いや、うん。そうといえばそうなんやけど……」
挙動不審に目を泳がせるダガンを前に、アステラはぐっと奥歯を噛んだ。己ひとりが苦しむならばいざ知れず、巻き込んだだけのダガンまで、呪いで苦しませるつもりなんてなかった。
『ダガンもどこか痛いのか……?』
「お前絶対分かってへんやろ。強いて言うなら頭が痛いわ、俺は……」
涙目で項垂れるダガンを見つめて、アステラはごめん、と囁いた。
「はあ?」
『巻き込んでごめん。今さら遅いけど、俺の事情に巻き込んで、本当にごめん』
掴んだ腕に力を込めて、許しを乞うようにアステラは続ける。
『あの時は何も考えられなくて、死にたくないってそればっかりで……自分のことしか考えてなかった。俺、ダガンのことを利用した。ダガンが押しに弱いの知ってて、助けてくれって縋りついた。ダガンにまで痛い思いさせるつもりじゃなかったんだ。謝ってどうこうなることじゃないけど、本当にごめ――』
「――ごめんはいらんってさっきも言うたやろ。もう忘れたんか、このアホ」
言い終えるより前に、低められたダガンの声が、叱りつけるように割り込んできた。目を瞬かせた瞬間、ダガンはアステラの手を振り払い、胸倉をつかむようにして眼をつけた。
「アステラは何も悪くないて、何度言えば分かるねん。ほんまアホやな。それに、これは対等な取引や。忘れたとは言わせへんからな!」
鼻先が触れあいそうなほど近くで、ダガンは言葉を選ぶように、慎重に囁いた。
「呪いを解く方法を一緒に探す見返りに、お前、俺に人の世界を見せてくれる言うたやん。ほんで俺はそれに乗った」
たしかに言った。ダガンを言いくるめるためだけに、アステラがその場しのぎで適当に言った言葉だ。
「迷惑かけとるだのありがとうだの、かしこまって何やねん。縁起でもない。付き合わせとるってお前は言うけどな、俺かてアステラと一緒に旅すんのは――ああクソ、これ、歪むんやったな……とにかくお前、俺に命がけで悪魔に喧嘩売らせといて、まさかたかだか二週間で釣り合うと思ってへんやろうな。俺の貸しは、そんな安くあらへんからな!」
声音こそ脅しつけるような低い声だが、ダガンの言葉は紛れもなく、呪いを解いた後のことを示唆するものだった。
こんな旅に来たくもなかったと言ったくせに。
何か言おうと唇を震わせたけれど、アステラの喉から出るものといえば、掠れて引きつる息の音だけだった。
アステラの胸中など知らずに、ダガンはむくれきった顔で唇を尖らせる。
「巻き込んだだのなんだの好き勝手言いよって。今さら他人行儀なこと言いなや。俺は自分の意思でここにおるっちゅうねん」
不機嫌そうに投げかけられる言葉のひとつひとつが、きらきらと煌めいているように思えた。震える手をそっと持ち上げ、アステラは自分の胸倉を掴むダガンの手に、おずおずと触れる。
『……呪いが解けても、もう少し一緒にいてくれるってことか?』
耳元でアステラが問いかけるなり、ダガンは苛立ったように舌打ちをした。
「勝手に終いにできると思いなや。こんな忙しい旅、ろくろく観光もできへんやんけ。俺が満足するまで、お前が嫌や言うても付き合わせたる」
言葉の意味を理解した瞬間、じわじわと頬が勝手に緩んでいく。ありがとう、と震える息で言葉を紡ぐと、ふんと鼻を鳴らしてダガンはアステラの胸倉から手を放した。
「せやからごめんもありがとうもいらんねん! 礼を言われる筋合いなんざ何もないわ」
『ツンデレってやつ?』
照れ隠しに茶化すと、耳打ちしたわけでもないのに聞き取ったらしいダガンは、本気で嫌そうな声を返してきた。
「誰がツンデレやクソ! 言いたいこともろくに言えんと、腹立てとんねんこっちは。お前ほんま、全部片付いたら覚えとけよ!」
『なんで俺に怒るんだよ! 横暴! 理不尽!』
「やかましい!」
ひそひそ声で喚く二人を乗せて、船はまっすぐ海を進む。
ヴィンブルク伯爵領の港町にアステラたちが足を踏み入れたのは、その日の昼前のことだった。




