6-9 染め方
「ちゃんと抱えてくれよ」
「文句言うんやったら自分で泳げ」
「意地悪言わないでくれよ! 尾びれが擦れてくすぐったいんだよ、この体勢。せっかくの海なのに底しか見えないし!」
動く左腕を催促するように振って、アステラがわざとらしい上目遣いでねだってくる。
こちらの気も知らずに、とダガンは青筋を立てた。
「……『ちゃんと』抱えたらええんやろ」
半分嫌がらせのつもりで、アステラの背と膝の下に腕を回して、横抱きにする。ところが予想に反して、アステラは嫌がるどころか躊躇いなく左腕をダガンの首に回すと、ひひ、と嬉しそうに笑い声を上げた。
「姫抱っこ、されんのは初めてだ。こんな感じなんだな」
こんなことで喜ぶなと唸る間もなく、アステラはじっとダガンの瞳を覗き込んできた。遠慮というものを知らないのかと聞きたくなるような熱い視線に、ダガンは唇の端を引きつらせる。
「見世物とちゃうねんぞ」
「金が欲しけりゃ言い値で払ってやるよ」
子供のころとは違う余裕綽々な返事をした後で、「綺麗な目」とアステラはうっとりと呟いた。
「海の中だと、陸の上とはやっぱり少し色が変わるんだな。人魚の時のダガンの目、俺が今まで見たことのあるものの中で、一番綺麗だ」
海を閉じ込めたみたい、とあどけない口調でアステラが呟く。深々と眉間に皺を刻みながら、ダガンは呻くように答えた。
「やめろ。俺を口説くんやない……!」
「なんで俺がダガンを口説かなきゃなんねえんだよ。ただの感想だよ、感想! せっかく綺麗なんだから、隠さなきゃいいのに。ずっと見てたい」
それが口説いているのでなければ何だというのか。
「髪、ハーフアップにでもすれば顔回りもすっきりするし……ほらな! 似合うじゃんか」
ダガンの髪を手でまとめ、後頭部で握りながら、アステラは得意げに笑う。ガキか、と呆れながら泳いでいるうちに、気づけば二人は里の入り口へと戻ってきていた。
ダガンたちが姿を現すや否や、待ちかねたとばかりに門番たちが近づいてくる。
「約束のヤドリギだ。一株あれば足りるだろう」
木の根を束ねたような小ぶりのヤドリギを突きつけながら、レオは素っ気なく言い捨てる。
「用がなければもう里には近づくな、半魔の忌み子。貴様の歌は耳障りだ」
「何度も言われんでも分かっとる」
うんざりしながら返事をする。蔑みの一つや二つ、最後に投げかけられることを覚悟していたが、意外にも門番たちはそれ以上の侮蔑を投げかけようとはしなかった。
代わりのように、レオは物言いたげな目をダガンに向けてくる。
「与えるのなら、全部与えろ。涙も唾液も、精も血も。それでも足りないのなら、己が身も。半魔の力の弱さでは、血だけでは不十分だ」
「はあ?」
何の話かと首を傾げると、ふわりと上を通り過ぎたリオが、面白がるように「染め方だ」と言葉を足してくる。
「レオは優しい。人目も憚らない恥知らずなど、放っておけばいいものを」
嫌味な言い方からして、どうやらこの門番たちは、先ほどのダガンとアステラのやり取りを見ていたらしい。口元を引きつらせながら、ダガンは「何のつもりや」と呟く。
「これ以上失望させんなだの何を与えとるか分かったものやないだの、さっき散々言うとらんかったか」
じとりと睨みつけると、レオはふん、と尊大に鼻を鳴らした。
「慈善事業でばら撒いているわけでないのなら構わない。心ばかりはどうしようもないと、俺とてそれくらいは分かっている」
「すべて捧げて染め上げるのが、海魔の愛。必要なのは覚悟ひとつだ、哀れな半魔」
兄に続いて、うたうようにリオが呟く。
するりとレオの隣に泳ぎ着いたリオは、手すりでも掴むように兄の肩を掴むと、あどけなさの滲む笑顔を浮かべながら身を寄せる。応えるように、レオは仏頂面をほんのわずかに崩して、口角を上げた。
なんら不自然ではない触れ合いなのに、視線ひとつにさえ情愛が滲んでいるように思えるのは、ダガンが彼らの秘密を知っているせいなのだろうか。そっと視線を逸らしたダガンに気がついたのか、リオはくすりと笑って呟いた。
「おぼこい忌み子。たかが人間ごときのために、お前に陸魔へ喧嘩を売る度胸があるとは思わなかった」
「……『たかが』?」
鼻で笑って、ダガンは口を開こうとした。
――たかがで括れない相手だから、こうしているのだ。
「別にこいつのためやないからな! ……は?」
当然のように歪んだ言葉に、自分が一番驚いた。前を見れば理解不能とばかりに目を丸くした門番たちが見返してくるし、隣からはアステラが妙に生温かい目を向けてくる。
「いや……普通に俺の呪い移しのためだし、ダガンは押しに弱いから、同情してついて来てくれてるだけだって知ってるよ、うん」
だから別にそんなベタベタなツンデレしなくても良いと思うよ。
聞いたこともないような優しい声でアステラが諭してくるものだから、怒りを通り越して、岩に頭を打ち付けたくなってきた。
「クソ、……誰のせいやと思て……!」
「うん。昨日は俺のせいで寝られなかったし、寝不足なんだよな、ダガン」
ごめんなと言って、アステラがまさしく情緒不安定な相手を気遣う視線を向けてくる。遠巻きにこちらを見つめるリオとレオも、侮蔑を通り越して引いた視線をダガンに向けていた。
「……よくも」
わなわなと肩を振るわせたダガンは、アステラの腕に刻まれた蛇とイバラの刺青を射殺さんばかりに睨みつける。
「よくも人をこんな痛い捻くれ者みたいにしくさって……! 絶対呪い解いたるわ! 覚えとれよ、この性悪悪魔……!」
血を吐くような悪態は、虚しく海底に響いて消えた。




