6-8 ツンデレの呪い
「『は?』ってなんだよ。自分で言っといて、なんでびっくりしてるんだよ」
アステラが不審そうにこちらを見ているが、構う余裕はなかった。口だけを操られたような奇妙な違和感に、ダガンは震える指で唇を押さえる。
「……ダガン? どうした?」
アステラが訝しげに顔を覗き込んでくる。澄んだ空色の瞳の中には、瞳孔を囲むようにして、かすかな蒼色の光が散っていた。
ダガンの片目と同じ、人間にはありえない蒼色が。
気づいた瞬間、ぞくりとするような恍惚感が背を這い上がる。
ダガンの血を飲ませた直後だけ現れるその変化を、アステラ本人が目にしたことはないだろう。目を凝らせば、水に揺られる金色の髪もまた、瞳の変化に一歩遅れて、淡く冷たい色を纏ったように見えた。
奇跡は安くないのだと、ダガンはアステラに教えたはずだ。こんな半端者に懐かずに、人間は人間の中で暮らすべきだと何度も言った。
聞かなかったのはアステラだ。
暗い喜びと罪悪感で、口角がひくりと震える。
ひそやかな変化は、瞬きのうちに元の色に飲まれて溶けていった。ダガンの中に生まれた奇妙な興奮もまた、アステラの色が元に戻るとともに、波が引くように消えていく。
始まりはたしかに憐れみだったはずなのに、いつから自分は、こんなことを考えるようになったのだろう。
嫌な予感を抱えつつ、ダガンは己の推測を確かめるように、慎重に言葉を紡いでいく。
「……少し考えごとしとっただけや。俺もアステラみたいに武器が使えたらええのになって。お前馬鹿強いから、すごいと思うで」
「脈絡ねえなあ。ありがとう」
我ながらどうかと思う話の振り方に、アステラは首を傾げつつも頷いた。
「顔もええし」
「知ってるけど……何だよ、いきなり」
「や、改めて思うことってあるやん? 見てて眼福やなって」
「さっきからどうしたんだよ。疲れてるのか?」
誰のせいだと思っているのか。
ぐっと文句を飲み込みつつ、ダガンはごまかすように咳ばらいをした。
どうやら好意を込めた言葉でも、すべてが歪むわけではないらしい。ある程度客観的な事実か、本人に自覚があることならば許されるのだろう。
問題はこの先だ。ごくりとダガンは唾を飲み込んだ。
――甘えたがりのくせに甘え下手なところにはかわいげがある。
「甘ったれなんは玉に瑕やな」
「は?」
――犬のようにまっすぐな気性に癒される。
「犬かってくらい落ち着かへんのが腹立つし」
「なんでいきなり犬?」
――何かあれば他人を優先する優しさは、見ていて心配にはなるが美点だとは思う。
「八方美人すぎるんは欠点やと思う」
「やっぱり俺に喧嘩売ってるんだよな? あんまりひどいこと言うと泣くぞ!」
言えば言うほど歪む言葉に、もはや天を仰ぐことしかできない。
全滅だ。主観的な好意の言葉を口に出そうとすると、途端にすべてがねじ曲がる。
アステラをそっと押し退けたダガンは、そのまま両手で顔を覆うと、緩やかに海底へと落ちていく。そんなダガンを気味悪そうに見守りながら、アステラは「なあ、本当に大丈夫か?」と声を掛けた。
「なんかさっきからすげえ挙動不審だけど、腹でも痛いの?」
顔も赤いし。
本気でダガンの身を案じているらしいアステラをキッと睨んで、泣きたい気持ちでダガンは喚く。
「痛いのは腹やのうて俺やんけ、こんなの! お前ほんま、ふざけんなや!」
「俺は何もふざけてねえよ。ふざけてんのはダガンだよ。つーか、俺を置いていくなよ! 支えててくれないと縦になれないんだって! 怖いって言ってるじゃん!」
ひとりでじたばたともがいたアステラは、何がどうなっているのか、話している間にも頭から海底へと沈んでくる。真珠を飲ませてなおこのカナヅチっぷりとは、もはや徹底的に海に嫌われているとしか思えない。仕方なくアステラの首元を掴んで引き寄せ、ダガンは海底でアステラと並んでうつぶせになった。
ほとんど海底に頭を打ち付けるような体勢で、ダガンは静かに問いかけた。
「……アステラ。あの性悪悪魔がお前に掛けた呪い、何やったっけ」
「はあ? 俺が二十二になったら死ぬんだよ。今日入れたらあと六日で死ぬ呪い! だから俺たち、こんなに急いで旅してるんじゃんか!」
喚きながら、アステラはダガンの肩を掴んで揺さぶってくる。何度振り払っても掴んでくるあたり、よほど支えがほしいらしい。とうとうアステラを引き剥がすことを諦めたダガンは、腕にアステラを捕まらせたまま、「そっちやない」と弱弱しくため息をついた。
「当て馬の呪いの方や。あの悪魔が言うてた言葉、一言一句そのまま言うてみい」
「え? えーっと……」
疑問符を顔いっぱいに浮かべながら、アステラは記憶を辿るように視線を上に泳がせる。
「『君が愛する人は、誰も君を愛さない』」
「『人』言うたんやな。『相手』やなくて」
「うん。そのはずだ」
人――つまりは、人間に限定した呪い。
魔族は種族によってそれぞれ異なる力を持つけれど、全般的に人間よりも遥かに丈夫で、魅了や呪いに掛かりにくい。
悪魔の呪いは強力だけれど、その分厳しく契約と条件に縛られる。いかにイリヤが強い悪魔だろうと、同じ魔族にまで効く呪いを掛けることはできなかったのだろう。
「ダガン?」
再度黙り込んだダガンを、心配そうにアステラが見つめてくる。
顔を上げたダガンは、じっとアステラの顔を眺めた。
眼福だと言ったのは嘘ではない。子供のころからの澄んだ色合いはそのままに、ずいぶんと見目麗しく育ったものだと思う。
目が離せなくなる危うさと、頼りがいのある腕っぷしを併せ持つ変わり者。明るく愛嬌あふれるアステラは、ダガンの生まれ育ちを気にせず、いつだって真正面から向き合ってくれた、たったひとりの人間だ。代わりなんてどこにもいないし、誰かの代わりにされていいような人間だとも思わない。
そんなアステラに想いを寄せられておいて、誰一人として愛を返さないなど、納得できなかった。
有り得るとすれば、相手がアステラに愛を返そうとした瞬間、呪いが相手の心と言動をねじ曲げるからだとしか思えない。
クソ、とダガンは口の中だけで悪態をつく。
ダガンは半魔だ。純血の魔族のように呪いを完全に無効化することはできないけれど、人間よりは遥かに呪いに強い。たとえ言動を縛られることがあったとしても、心までは操られない。
そんなダガンに呪いの効果が及んでいるということは――。
「お前、俺のこと、そんなに好きなん……?」
「好きじゃないよ」
間髪入れずにアステラは答えた。その瞬間だけ、アステラの瞳から人形のように感情が抜け落ちる。
「好きじゃない」
似合わぬ無表情の奥には、見間違えようもない恐怖が滲んでいた。そう言わなければ死ぬといわんばかりの必死さには、傷つき震える体を針で守ろうとする小動物のような、形容しがたい痛々しさがあった。
アステラに掛かっている呪いはきっと、目に見える死の呪いだけでもなければ、ふざけた当て馬の呪いだけでもないのだろう。裏切られ続けた心を守るために、アステラがアステラ自身に掛けた呪いが、根深く心に絡みついている。
「……堪忍してや……」
声に出さずに呟いて、ダガンは額を押さえて項垂れた。
好きじゃないと言うなら、縋るようにダガンの腕を握るその手はなんなのか。甘え下手な甘ったれほど、庇護欲をくすぐられるものはないというのに。
アステラに掛けられた呪いの効果がダガンに出ているということは、口でなんと言おうがアステラはダガンに愛を向けているし、不本意ながら、その逆も成り立つということだ。
薄々気づいてはいたけれど、どうしてよりにもよってこんな手の掛かる男に心を寄せてしまうのかと、ダガンは己に絶望した。
アステラは愛されたがりで惚れっぽい上、嬉々として相手に貢いで尽くそうとする、寂しがり屋のアホだ。さらに言うなら赤ん坊の時から悪魔に目をつけられている、何もしなければあと六日で死ぬ男。おまけにダガンに愛を向けているらしき割には、本人に自覚があるのかさえも怪しいときた。おおよそ本当の意味での愛など知りもしないだろう、とてつもなく手のかかる男だ。
けれど誰より特別で、のん気な笑顔が何より似合う。
もはやアステラの趣味の悪さを笑えない。どうしようもない気分になりながら、ダガンはアステラの両脇に手を入れ、荷物のように引きずりながら上へ向かって泳ぎ始めた。




