6-5 つまみぐい
「わっ」
支えを失い、不安定になった体を、反射的にアステラは立て直す。左腕を振り回してぎりぎりバランスを取るアステラの遥か上で、リオは悠々と水中を泳ぎながら、見せつけるように水草に口付けた。
「こんな支え、本当は必要もないくせに。支えられなくたって、ひとりで立てる。できないふりをしているだけだ」
「意地悪しないでくださいって!」
声を張り上げてはみたものの、アステラの抗議は当たり前のように聞き流された。
水草を絡めとったリオは、優しい笑みを浮かべて、誘うようにアステラに手を伸ばす。
「心配して欲しいんだろう。関心を独り占めしたいんだろう。そのためには、相手に揺れ動かれては困るはずだ。自分だけを見てくれなければ、縛れないから」
聞いているだけで意識が遠くなりそうな、海魔特有の甘い声。溺れ死ぬと知っていても、誘われるがまま海へ飛び込んでしまう船乗りたちの気持ちがよく分かる。耳を塞がなければと思っても、指が重くて持ち上がらない。じんと頭の奥が痺れて、リオの声以外の音がどんどんと遠くなっていく。
「よく分かるよ、アステラ。外になんて目を向けずに、ずっと自分のことを見ていてほしいものな」
名乗ってもいない名を親しげに呼ばれて、気味が悪いはずなのに、言いようもない安堵を感じた。この声に乞われるならば、なんでもしてやりたい。頬を両手で包まれても、おかしいとすら思わなかった。
「相手に自分を見て欲しいなら、もっといい方法がある。教えてやろうか」
優しげにリオが微笑む。リオの腕の中で、アステラはぼんやりと首を傾げた。
「な、に……?」
「罪悪感で縛るんだ。腕一本失うだけでも、あの半魔はきっとお前を憐れむだろう。人間を海魔の里に連れてきたことを深く悔いて、お前のことを一生手放さなくなる。嬉しいだろう? 理想的だろう?」
ダガンが一生アステラのそばにいてくれる。それはひどく魅力的なことに思えた。何を言われているかも理解しきらぬままに、アステラはぎこちなく首を縦に振る。
「……いい子だ。俺が協力してあげる。何も心配しなくていい。痛いのは、一瞬だけだ」
リオの唇がにんまりと孤を描く。薄い唇の合間からは、鋭く凶悪な歯が見えていた。それを恐ろしいと思うのに、頭がぼんやりとして、ろくに思考が回らない。
「お前はうまそうだ。レオはダメだと言ったけれど、つまみ食いくらいは良いだろう? 半魔に全部やるのは、もったいない」
アステラの肩に手を掛けて、リオが大きく口を開ける。
首筋に鋭い牙が触れた瞬間、アステラの首元から小さな何かが飛び出した。同時に、耳を貫くような不快な歌声が、海を震わせる。
ダガンの歌だ。
「ぐ……っ!」
手を押さえてアステラから距離を取ったリオは、ダガンの魔除け歌を聞くや否や、苦しそうに呻いて動きを止めた。
はっと我に返ったアステラは、もやのかかった思考を振り払うように頭を振る。
ひょっとしなくても今自分は食われかけていたのではなかろうか。首筋に残る鋭い歯の感触を忘れたくて、手のひらで強く肌を擦る。ばくばくと鳴る心臓を宥めながら、アステラは慌ててリオを睨んで身構えた。
当のリオはと言えば、手にぶら下がる何か忌々しそうに睨みつけ、なりふり構わない様子で振り落とそうとしている。細く長い何かが絡みついていると思えば、どうやら蛇に噛まれたらしい。
白く艶やかな体に、水色の筋模様を持つ小さな蛇。
見覚えがあると思えば、自分に呪いを刻み込んだイリヤの使い魔と同じ蛇だった。先ほどアステラの首元から飛び出したのは、あの蛇らしい。
「くそっ、離れろ!」
ぶん、と大きくリオが腕を振ると同時に、とうとう振り払われた蛇がアステラの胸元に向かって飛んでくる。咄嗟に尻尾を掴んで受け止めると、くりくりとした赤い蛇目と視線がかち合った。アステラの中で呪いを広げる時には凶悪な顔をしていたくせに、きょとんとした顔をしていると、愛嬌があるように見えなくもない。
「……助けてくれたのか?」
アステラの声には答えないまま、蛇はしゅるりと一度舌を出し入れすると、呪いのタトゥーに溶け込むように皮膚の下へと消えていった。助けてくれたのか、はたまた獲物を守っただけか。
ダガンの耳障りな魔除け歌に耳を傾けながら、アステラはひそかに息を吐く。ダガンの歌と、イリヤの使い魔に、結果的には救われた。悪魔から逃げようとした先で、海魔の餌にされかけるなど笑えない。
「その印……お前、陸魔の獲物か」
アステラの腕に刻まれた呪いを凝視しながら、不機嫌そうにリオが呟いた。
「いやあ……誰の獲物にもなりたくないですね、俺は」
頬を引きつらせながら答えた後で、ふと思い立って、アステラはリオの手に絡まる水草をぐいと引いた。
「門番さん。クラーケンのいる場所って、岩の外からは見えないんですか? できたらダガンが歌ってるところを近くで見たいんですが、連れて行ってもらえませんか」
眉間に皺を寄せるリオに、笑顔でアステラは言葉を付け足した。
「門番さんのお兄さん、真面目な方っぽかったですよね。言いつけ破って俺を喰おうとしたこと、お兄さんにバレたら怒られません?」
「……だから人間は嫌いだ。ずるい」
「気が合いますね。俺も、頭おかしくさせて食べようとしてくるずるいひとは苦手です」
苦虫を嚙み潰したような顔をして、しぶしぶとリオは水草越しにアステラを引っ張り、泳ぎ始めた。




