6-2 愛の形
「何度も二人で話し合ったよ。俺はもちろんハニーのためなら何にでもなりたいし、ハニーに寂しい思いをさせたくない。でも、ハニーは人間として生きるって決めてるんだ。なら俺は、ハニーの意志を尊重するだけさ」
「自分はそれでいいんか。あいつ、いつまで経ってもシスターやっとるし……好き合っとるのに五十年以上手も出さへんの、俺にはよく分からんわ」
皮肉げにダガンが頬を歪める。まじまじとダガンを見つめたフリッツは、ふと目元を緩めると、「若いねえ」と優しく呟いた。生きた年月だけで言えば、ダガンの方が年上のはずなのに、フリッツがダガンを見る目は、まるきり青い若者を見守る老人そのものだった。
「愛の形は色々なのさ、お義兄さん。体を繋ぐ愛はもちろんあるだろうし、相手のために自分を曲げる愛もあるだろう。でも俺たちは、これがいいんだ」
ダガンは口を挟むことなく、静かにフリッツの言葉を聞いていた。空気を読んだアステラも、じっと姿勢を正して黙り込む。
「ハニーはたしかに俺の妻になってくれたけど、それより前に、神の妻たるシスターだ。俺も俺で、ハニーの夫である前に、海に身を捧げた海の男だ。俺たちにはお互い、お互い以外の一番がある。分かってて俺たちは夫婦になった」
もちろん誰より愛し合ってるぞ、とフリッツは茶目っ気たっぷりに言葉を足す。
「ハニーはいつだって俺の女神だけど、一緒に暮らすだけが夫婦じゃないし、子供を育むことだけが家族じゃない。俺たちは、自分たちでこう生きるって決めて、自分たちが思う幸せを生きてる。これが俺たちの……俺たち二人だけの愛の形ってわけだ。最高だろ?」
そう言って笑うフリッツの顔は清々しく、後悔ひとつ浮かんでいない。
恋に生きてきたアステラから見れば、恋愛の先にある幸せというものは憧れの極致、もはや悲願である。目の前の男は、アステラが求めてやまないものを勝ち取った人なのだ。そう思うと、親方どころか師匠と呼びたくなってきた。
重ねた歳を映す顔の皺も、老化で黄ばんだ歯も、それだけで見れば決して美しいものではないのに、フリッツの生きてきた人生を生々しく映すそれらが、急に輝かしく思えてくる。
「すげえいいと思います!」
身を乗り出したアステラは、フリッツの手を握ってぶんぶんと勢いよく振った。
一方のダガンはといえば、「納得しとるなら、言うことないわ」とぶっきらぼうに呟くと、ふいと顔を背けてしまう。
「……俺には、やっぱり分からん。きっと、自分らみたいには離してやれん」
独り言のように呟いて、ふらりと立ち上がったダガンは、止める間もなく服を脱ぎ捨てる。錨は下ろさんでええ、と言い残す声が聞こえた直後、ダガンの姿は海へと消えていた。
「おい! どこ行くんだよ!」
頬に飛んできた水しぶきを払いつつ、慌ててアステラは海面を覗き込む。しかし、見えるものといえば泡と乱れた海面くらいで、ダガンの影すらすでにない。
「行き先くらい言ってけよ……!」
「落ち着け、坊主。お義兄さんは、集落を探しに行ったのさ」
宥めるようにフリッツがアステラの肩を叩いた。動かぬ腕を忌々しく押さえて、アステラはぶすくれながらフリッツを振り返る。
「集落って、人魚の集落ですか?」
「そのはずだ。もっとも人魚――海魔ってのは、住処も性質も秘密だらけだから、正確な場所は分からないけどな」
「詳しい場所はともかく、何しに行くかくらい言ってくれてもいいのに。あいついっつも自分のこと教えてくれないんです」
ひどくないですか、と苛立ちを込めて訴えると、フリッツはからからと笑って、「分かるよ」と頷いた。
「ハニーも昔はつんつんしててなあ、心を開いてくれるまでずいぶんかかったもんだ。懐かしい」
「オクタヴィアさんも? なら、親方はどうやって仲良くなったんですか」
「お、知りたいか?」
ちょいちょいとアステラを手招いたフリッツは、内緒話をするように顔を寄せてきた。応えるように、アステラは耳に手を当てる。
「デレてくれるまで、攻め続けたんだ。恥を捨てて、あなたが好きでたまらないってことを、隙あらば伝えるのさ」
「ははあ、攻め続ける」
「そうだ。顔でも声でも仕草でも、何でもいい。好きなところを見つけるたびに、下手に小細工せず、まっすぐ伝えるんだ。ハニーもお義兄さんも、特殊な体質で苦労してきた分、人より少し警戒心が強いからな。こいつは自分のことが大好きでたまらないんだって信じてくれるまで、何度だって伝え続けろ。誰が見たって疑わないくらいにがんがん攻めれば、いつか絶対デレてくれる。ハニーを振り向かせたこの俺が言うんだ、間違いない!」
なるほど、とアステラはノリ良く頷いた。夫婦と友人ではまた違うところもあるだろうが、基本的なところは変わるまい。
参考になったと礼を言おうとした瞬間、がくりとアステラの視界が引き上げられる。
「……え?」
両足が浮いていた。朗らかに笑うフリッツが、猫の子を運ぶようにアステラの首根っこを掴み上げている。
「一番手っ取り早いのは、どこにでもついていくことだな。思い立ったが吉日! 頑張れよ、坊主! 海魔は耳がいいから、海に飛び込めばお義兄さんの方から見つけてくれるはずだ。――そぉれ!」
爽やかに笑ったフリッツは、ためらうことなくアステラを海へと放り投げた。
「待っ――うわあぁっ!」
はっはっはと豪快すぎる笑い声が聞こえたのを最後に、アステラは海の奥へとなすすべもなく沈んでいく。
「あの子、沈んでません?」と慌てたような声が聞こえたような気もしたけれど、助けてくれと手を振るより前に、アステラは頭のてっぺんまで水面下へと沈んでいた。




