5-12 見捨てやせん
「たかが呪いやろ。どうとでもなるわ。腕が動かなかろうが足が動かなかろうが見捨てやせんし、こんな可哀想なやつ置いていかれへんって昨日も言うたやろ。そんな子犬みたいな目で見てこんでも、最後まできっちり面倒みたるわ。いらん心配しとるな、アホアステラ」
唇がわななく。欲しかった言葉を見透かされたように与えられて、息が詰まった。伸びてきた手にぐしゃりと髪をかき回されると、余計に涙が溢れて止まらなくなる。まるきり子供のころのような扱いを受けているとは思ったけれど、文句を言う気にもなれない。
何度も瞬きをして涙を払い、アステラは縋るように唇を震わせる。
「……ほ、本当に?」
「俺がお前を見捨てたことが、今まで一度でもあったか?」
はだけたアステラの服を直しながら、静かな声でダガンが問う。黙って首を横に振れば、「せやろ?」と得意げにダガンが笑った。
「俺は優しいねん。感謝せえ」
「じ、自分、で……言うなよな」
ずび、と鼻水を啜りながら、アステラはくしゃりと顔を歪める。
「……でも俺、この腕じゃきっと、ダガンに何もしてやれない」
「もう十分してもらった。ベルの村でお前、俺のこと置いていかへんかったやん。それより前だって、俺が何やらかしても、一遍だってお前は嫌な顔せえへんかった」
「そんなの、当たり前だろ……! お、俺、ダガンと逃げんの、いつも楽しかったし」
きょとんと見返されて、頬が一気に熱くなる。
言うつもりなんてなかったのに、自分はいったい何を言っているのか。そう思うのに、緩んだ涙腺のせいで、心の奥底にしまい込んでいたことまで、涙と一緒くたになってぽろぽろと零れ落ちていく。
「……檻を斬ったら、褒めてくれただろ。抱えてやったら、それだけで頼ってくれた。背ぇ伸びて、体鍛えて、できることが増えたら喜んでくれんの、嬉しくて……修羅場に巻き込まれるのは悲しかったけど、ダガンと逃げるのは、いつも楽しかったよ」
みっともなくしゃくりあげそうになりながら、懺悔するようにアステラは話し続ける。
「次はいつ会えるんだろうって、いつも思ってた。ダガンは捕まって嫌な思いしてたのに、最低だよな。この間だって、ダガンひとりにしたら絶対やらかすの分かってたけど、驚かせたかったからひとりで買い物行って……結局それで、ああなった」
ぐいと乱暴に涙を手で拭って、アステラは睨むようにダガンを見た。
「お、俺、自分勝手でずるい、どうしようもないやつなんだ。がっかりしただろ。この旅だって、元々ダガンには、何の得も――ぶふっ」
唐突に唇を指で掴まれて、間抜けな音が零れる。目を白黒とさせるアステラをじっと見つめて、「いきなりネガティブになりすぎやろ」とダガンはからかうように口角を上げた。
「ほんまお前、ガキの頃から変わらへんな。一回泣き出したらどん底に落ちんの、おもろいけど悪い癖やで」
「むー、うぅ!」
鳥のくちばしのように唇を固定されているせいで、言い返そうにも何も言えない。ぐにぐにと唇を引っ張って、ひと通りアステラに変顔をさせたところで、ダガンは不意に優しく微笑んだ。
虚をつかれて、息を呑む。
「がっかりするも何も、お前がアホの甘ったれやってことくらい、とっくのとうに知っとるわ。別に俺、それが嫌やなんて言うたことあらへんやろ」
言葉の意味を理解すると同時に、頭が真っ白になる。ゆるりと細められたダガンの目を見た瞬間、わけも分からず、全身がかっと熱くなった。
「う……、ぅぅ……!」
向けられる視線がいやに優しいものだから、むず痒さといたたまれなさで、アステラはとうとうまともにダガンを見ていられなくなった。
涙なのか汗なのかも分からぬ液体が、頬を伝って落ちていく。顎先にたどり着いた雫が腿に落ちると同時に、ダガンはぱっとアステラの唇から手を離して、皮肉げに片頬を歪めた。
「俺にとって何が損で何が得かは、俺が決める。何もしてやれんだのひとりで置いてったら絶対やらかすだの、えらい貶してくれるけどな、俺はお前よりずっと長く生きとんねからな。赤ん坊みたいに世話してくれんで結構や。……それに、どう考えても世話しとんのはお前やなくて俺の方やしな!」
海に落ちるたび助けてやっとるもん、と言うダガンに、反射的にアステラは言い返す。
「どう考えても俺の方が世話してるだろ! ぴちぴち床で跳ねるしかできないアホ人魚のこと、いっつも抱えて逃げてやってるぞ!」
「修羅場製造機の泣き虫男がよう言うわ」
「自分で泣かせといてなんだこの野郎!」
気づけば涙は止まっていた。普段の調子で怒鳴りつけた途端に、ふ、とダガンは吐息だけの笑いを零して立ち上がる。
「あれこれ考えんと、お前はそうやってやかましくしとけばええねん」
「ぁ……」
それは、疑いようもない慰めで、優しい励ましの言葉だった。余計なお世話だと跳ね除けるには、それはアステラが欲しくてたまらない何かだったけれど、さりとて素直に礼を告げるには羞恥が勝る。
言葉にならない呻きをひとつ漏らして、アステラは遠ざかるダガンの背中を、睨むように見つめた。そうでもしていなければ、惜しげもなく注がれた何かのせいで、自分が内側から弾けてしまいそうだった。
ダガンが海際へ向かうところを見届けつつ、おかしな汗を宥めるように深呼吸をする。ようやく頬の熱が引いた頃、アステラは室内へとゆっくり視線を戻した。
その瞬間、こちらの様子を窺うように立ち尽くしているオクタヴィアと、まともに視線がかち合った。
「……おはよう、アステラくん。朝ごはん、よかったら食べていってな」
生ぬるいとしか言いようのない視線を向けられて、アステラは咄嗟に言葉を返せなかった。どこから見ていたのかと聞くのも怖い。ここが他人の住居であることさえ、今の今まで忘れていた。
口を間抜けに開閉するアステラを横目に、オクタヴィアは窓に視線を向けると、はきはきと言葉を紡いだ。
「薬は六日分、夢守りも四つは用意できたわ。船の準備もできとる。これでええ?」
なんのことかと問うより前に、海藻らしきものを取ってきたダガンが、「ああ、悪いな」とテラスから顔を出す。
ダガンとオクタヴィアの顔を交互に見ていると、海藻をオクタヴィアへと渡しながら、ダガンが簡潔に説明してくれた。
「朝飯食うたら、船でヴィンブルク伯爵領に行くで。呪いが足に来たら面倒やし、船旅の方がええやろ。オクタヴィアの旦那が連れてってくれるらしいから、ご厚意に甘えよか。あと、海のヤドリギは、朝方まで探したけど見つからんかった。面倒やけど、海魔の集落に寄って分けてもらえんか聞いてみるわ。ほんで素材が揃い次第、伯爵領の教会で呪い移しや。それでええな?」
「お、おお……なんかすげえ、決まってる」
アステラが痛みでのたうち回っている間に、旅程といい段取りといい、とんでもない早さで整えられていた。
「本当にもう、なんて礼を言えばいいのか……ありがとうございます、オクタヴィアさん。ダガンも、ありがとう」
世話になった二人に頭を下げると、半魔の兄妹はよく似た仕草で肩を竦めた。
「似合わん殊勝な真似するなら、全部めでたしめでたしで終わってからにするんやな」
「元気になったら、お兄ちゃんと一緒にまたおいで」
――タイムリミットまで、あと六日。




