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5-10 広がる呪い

 海鳥が鳴いている。次いで、絶え間なく響く波の音に混じって、包丁がまな板を叩く軽快な音が聞こえてきた。じゅう、と油が弾ける音とともに、ベーコンが焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 ――なんて贅沢な朝だろう。

 久々に感じる柔らかな寝台の感触に、アステラは頬をすり寄せた。腹に乗せられた何かの重みは不快だったが、微睡みを誘う温もりは悪くない。

 差し込む朝日の気配に目を開けて、真っ先にアステラの寝ぼけ眼に飛び込んできたのは、うねりの強い銀色の髪と、端正に整った連れの顔だった。


「……ダガン?」


 なぜこんな近くで寝ているのか。重いと思えば、腹の上に乗っていたのはダガンの腕だった。抱き込まれるような体勢を訝しみつつ身じろぎすると、うう、と不機嫌そうに呻く声が聞こえてくる。


「少しは寝かせろや……。俺、さっき戻ってきたばっかりやねんぞ」


 神秘的な二色の瞳が、瞼の下から姿を現す。本人の言葉通り寝不足らしく、目は血走っているし、隈もひどい。とはいえ、普段は隠されている瞳の美しさがその程度で損なわれるわけもなく、至近距離で見つめられると、落ち着かない気分になった。

 

「寝てないのか、ダガン。なんで?」

「なんでも何もあるかい。ヤドリギ探しや、ヤドリギ探し。……体の調子は?」


 気だるげにダガンが問いかけてくる。その言葉に、夜通しダガンとその妹に世話になったことを思い出し、眠気が一気に吹き飛んだ。慌てて身を起こそうとするが、それを制するようにダガンはアステラの肩を押さえつけてくる。


「体の調子はどうなんやって聞いとんのや。痛みはおさまったんか、おさまってないんか」

「だるいけど、もう何ともないよ。昨日はありがとう」


 意識を失った男を運ぶのは、さぞや大変だったことだろう。決まり悪い思いで身を竦めていると、ふわあと大きくあくびをしたダガンは、「それならええわ」と言って、当たり前のようにアステラの腰に腕を回してきた。

 海で溺れているときならばいざ知らず、陸の上でするにはあまりに距離が近すぎる。


「……あのさ、近くね? なんで一緒に寝てんの?」

「自分の手首見てから言うんやな。俺かてしたくてこんなぴったりくっついてるわけやない。善意や、善意」

「手首? ……っ!」


 そう言われて視線を右の手首に向けると、ぼろぼろに焼き切れたまじない紐と、その下に広がる茨のタトゥーが目に飛び込んできた。

 もはや意味をなさないまじない紐を取り去り、脇へとよけたダガンは、眠そうな声で話し出す。


「俺が戻ってきたときには、もうそれ壊れかけとった。せやから、俺がまじない代わりや。俺みたいな半端もんでも、おらんよりマシやろ。あの悪魔かて、何度も耳障りな歌は聞きたくないやろうからな」


 要は、アステラの安眠のためにダガンが一肌脱いでくれたということらしい。面映さを隠しきれずに、アステラはもごもごと言葉を探す。


「……そっか。助かったよ。本当に、色々ありがとう、ダガン」

「礼は一回でええねん。お前がしおらしいとこっちまで調子狂うわ」

「うん。でも、ありがとな」


 ほこほこと胸をあたためてくれる感情のまま、アステラはへらりと笑う。


「痛くないなら、何でもええわ」

 

 ぶっきらぼうに言い捨てて、ダガンは眉間に皺を寄せた。いかにもダガンらしい照れ隠しに、頬が勝手に笑み崩れていく。

 しかし、身を起こそうとした次の瞬間、アステラは違和感に気づいて、愕然と目を見開いた。


「……あれ?」


 慌てて右腕に視線を落とす。

 たしかにいつも通りに見えるのに、右腕の感覚がまるでない。横向きに寝ていたせいで痺れているのかと思っていたけれど、指一本さえ動かせないのは、明らかにおかしい。

 

「どないした」


 ダガンが訝しげに身を起こす。

  

「腕が……動かない」


 救いを求めるようにダガンを見つめて、アステラは掠れる声で呟いた。

 朧げながら、昨夜見た悪夢が脳裏によみがえる。

 夢の中で、アステラはイリヤに呪いをなぞられ、嬲られた。今感覚を失っている右腕は、悪夢の中で、深々と荊に絡み取られていた部位そのものだ。

 嫌な予感がして、寝台の上でアステラは素早く身を起こした。しかし、服を脱ごうにも、自由になる左手は利き手ではない上、動揺で手が震えて、ボタンひとつまともに外せない。


「は……、あはは。おかしいな。手が……」

「貸せ」


 険しい顔をしたダガンが、アステラの手を押し除け、シャツのボタンに手を掛ける。上着をはだけられると同時に、目に飛び込んできた呪いを見て、アステラはひくりと頬を引きつらせた。

 むき出しになった右腕には、びっしりと荊のタトゥーが絡みついていた。不気味なタトゥーが広がっているのは、もはや前腕に止まらない。イリヤに刻まれた呪いは、つぼみが花開くかのように成長して、アステラの右腕全体を肩まで覆っていた。


「これ……こんなに大きくなかったよな?」


 声を震わせたアステラを嘲笑うように、肩口に刻まれた蛇のタトゥーが、邪悪な顔でぞろりと蠢く。疼くような痛みに顔を顰めた瞬間、宥めるようにダガンがそっとアステラの腕に手を当てた。温かい手のひらの感触に意識を向けると、ほんの少しだけ痛みが遠のいていく。


「……後ろにも来とる。かなり広がっとるな」


 背中側を覗きこみながらダガンが呟く声を、アステラは絶望的な気分で聞いていた。

 こんなはずではなかった。舐めてかかった己が悪いと言われてしまえばそれまでだけれど、進行する呪いなら進行する呪いと、初めから教えておいてほしかった。

 同じ二週間でも、万全の状態で挑める旅と、日に日に体の機能を奪われていく状態での旅では、深刻さがまるで違う。手始めに利き腕を奪うこともそうだけれど、期限が半分になってから本性を現すあたりが、呪い主の意地の悪さを窺わせた。


(イリヤ……!)

 

 よくも、と喚きたい気分になって、アステラは強く奥歯を噛み締めた。

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