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5-4 置いていかないで

 息を呑む音が聞こえた気もしたけれど、気にしているだけの余裕はアステラにはなかった。

 呼吸ができない息苦しさに耐えかねて唇を開いた瞬間、唇のあわいから苦い薬が流れ込んできたからだ。その苦味といったら、朦朧としていた意識がわずかに覚醒するほどひどかった。

 薄く目を開くと、焦点も合わぬほど近くに、ダガンの顔が寄せられていた。アステラの様子を窺う目は苛立ちと焦燥で満ちており、ただでさえ鋭い目つきが、余計にきつさを増している。

 苦すぎる薬の味から逃げようと、咄嗟に舌を縮こまらせるが、ダガンが逃がしてくれるはずもない。顔を背けようとするたび、そんなアステラを咎めるように、顎を掴むダガンの手の力は強まっていく一方だった。

 頬に添えられたダガンの指が、爪を立てるように沈んでくる。飲め、と脅しつける声が聞こえてくるかのようだった。


「ぅ……っ」

 

 吐き気を堪えて、与えられたものをしぶしぶと嚥下する。流し込まれた薬をすべて飲み込むと、ようやく唇が離れていった。褒めるように頭を撫でられ、そんな場合でもないのに頬が緩む。


「ダ、ガン……?」

「寝とけ。熱だけでもひけば、少しは楽になるやろ」


 ぶっきらぼうに言い捨て、身を起こしたダガンは、ぱっとアステラに背を向けた。遠ざかる背中を目にした瞬間、得も言われぬ不安に襲われて、アステラは無意識に手を伸ばす。

 普段だったら、途中で止める。ダガンはよくて友人、悪くてただの知り合いだ。いくら甘ったれと言われようとも、たったそれだけの相手に、これ以上を求めるのは甘えすぎだということくらい、アステラだって分かっている。

 けれどその時のアステラは多分、正気ではなかった。経験したこともない苦痛が恐ろしくて、ひとり置いていかれることが寂しくてたまらなくて、手を伸ばさずにはいられなかった。

 指先がダガンのシャツの裾に触れる。人差し指と中指の間で、アステラは幼子のようにダガンの服をぐっと掴んだ。

 

「……か……いで」

「何やて?」

「……おい、て……いかない、で……!」

 

 ひとりは嫌だ。そう掠れた声で懇願すると、ダガンは形容しがたい顔をして、アステラの隣に戻ってきた。

 アステラの指を丁寧に服から剥がしたダガンは、そのまま寝台の脇にしゃがみ込むと、ぐしゃぐしゃと乱暴にアステラの頭を撫でる。アステラと目線を合わせたダガンは、普段よりも柔らかさを増した声で、言い聞かせるように囁いた。


「痛み止めになる素材を採りに行くだけや。遠くには行かんし、すぐ戻る。そっちの方が、お前のためになる。そのままやったら、しんどいやろ?」


 問いかけられるまま、痛い、と縋るように答えると、ダガンはぎこちなく笑みを浮かべた。ぐずる子供を宥めるように、ダガンはゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「すぐ楽にしたるから、少し待っとけ。心配せんでも、置いていかへんわ。こんな可哀想なやつ見捨てるほど、俺は薄情者やない。知っとるやろ?」

「……うん。ありが、とう……ダガン」

「礼言うようなことやないやろ、アホ」


 罵られているはずなのに、そうとは思えないほど、その言葉は優しく聞こえた。

 与えられた薬のおかげか、体中が燃えそうなほどの熱さは、わずかではあるが引いていた。代わりに襲ってきた猛烈な眠気が、アステラの意識を飲み込んでいく。頭を撫でる手へ無意識にすり寄りながら、ほっと息をついてアステラは目を閉じた。

 

「……甘ったれめ」

 

 苦笑の交じった優しい声を聞いたのを最後に、アステラの意識は再び闇へ沈んでいった。


 * * *

 

 くすくす、くすくす。

 軽やかな笑い声が、アステラの耳をくすぐった。眠る直前まで聞いていた優しい声とは真逆の、冷たく嗜虐的な笑い声。ぞっと血の気が引いていく。

 夢か現実か分からない。いや、きっと夢なのだろう。周囲は真っ暗で、何も見えなかった。四肢を磔にされるような体勢で、アステラはその空間に繋がれていた。

 左腕は動くけれど足は動かず、右腕に至っては、棘だらけの茨に絡み取られて、ろくに動かすことさえできやしない。全身が引きちぎられそうなほど痛くて、まともに頭すら回らなかった。

 アステラにできることと言えば、痛みに呻くことだけだ。


「苦しいですか、アステラくん」


 甘い声が聞こえてくる。前から聞こえてきたような気もしたけれど、遠くからこだましているようにも思える、不思議な声だ。


「苦痛から解放されたければ、抗うのをやめればいい。それだけで君は、こんな苦しい思いをしなくてもよくなりますよ」


 ああそれとも。

 楽しげな声とともに、不健康なくらい白く滑らかな手が、するりと背後から回ってくる。顔は見えなくとも、それが誰の手かは、すぐに分かった。


「痛みだけでは、足りませんか?」


 温度のないイリヤの手が、アステラの肌をするりと撫でた。首筋から胸元までを辿るように、イリヤの手がゆっくりと降りていく。その動きに呼応するように、アステラの肌に刻まれた呪いがぞろりと動いた。

 その瞬間、苦痛と同格の抗いがたい官能に襲われて、アステラはわけも分からず目を見開く。


「ひ……っ」

 

 たかだか肌の表面をなぞられただけなのに、気が触れそうになるほど強烈な感覚が全身を支配していた。

 痛みが気持ちいいはずがないのに、泣きたくなるほど痛くて、すべてを投げ出したくなるほど気持ちがいい。頭がおかしくなったとしか思えない異常な感覚に、アステラは悲鳴を上げて身を丸めた。

 なす(すべ)もなく身を震わせるアステラを、酷薄な声が嘲笑う。


「こんなに震えて、可哀想に。僕が怖いですか」


 答えなんて分かっているくせに、試すように問いかけてくる声に、腹が立つ。

 逃げたいのに、逃げられない。目覚めたいのに、目覚め方が分からない。縋るように、アステラは優しい人魚の名前を呟いた。


「……っ、ダガン……!」


 名を呼んだ途端に、背後からアステラを抱く手の力が強まった。

 

「妬けますね。灯台で暮らしていたときにも、君はあの半魔を思い出して夢から逃げた。思い出しさえしなければ、今ごろ楽しく暮らせていたでしょうに」


 冷めた声で呟いて、イリヤはそっとアステラの首に手をかけた。

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