4-6 ダガンの歌
「ああ、お二人ともご無事で良かった。お怪我はありませんか」
夜灯花を収穫し、山小屋へと戻ってきたアステラとダガンを見るなり、ほっとしたようにテネル神父が駆け寄ってくる。どうやら他の者は山小屋にいるらしいが、中からは激しく泣く子供の声が聞こえてきていた。
「……何かあったんですか? 泣いてるみたいですけど」
夜灯花を手渡しながら尋ねると、テネル神父はふさふさの眉毛をしょんぼりと下げて、「セスが体調を崩してしまいまして」と答えた。
セスというと、幼い兄弟の弟の方ではなかったか。よく見れば神父は汚れ物の処理を済ませてきたばかりらしく、桶と濡れた服を両腕に抱えていた。
「急に熱を出すのは、幼い子には珍しいことではありません。今は特に、お父上のことで苦しい思いをしておるでしょうし、無理もない」
「……村に戻りますか?」
特効薬の材料が手に入った以上、ここに留まる必要はない。森の中で迷子を見つけたという体で戻れば、怪しまれることもないはずだ。
しかし、迷う素振りを見せた後で、テネル神父は「やめておきましょう」と言った。
「幸い、ここには寝床も薬草も揃っています。移動させるにしても、明るくなって症状が多少落ち着いてからの方が安全でしょう」
「お兄ちゃんの方は大丈夫なんですか?」
子供たちは一日中、常に兄弟揃って行動していた印象しかない。あれだけべったりとくっついていて、体調を崩したのは弟の方だけなのだろうか。アステラが疑問を口に出した途端、図ったようなタイミングで、中から聞こえてくる泣き声は二重になった。
なんでおれだけ、と涙混じりに嘆く少年の声が、悲痛に響く。
「……クインも随分と気を張っておりましたからな。気丈に振るまってはおりましたが、限界だったのでしょう。少し様子を見てきます」
憐れむように呟いて、テネル神父は小屋の中へと入っていった。小さな山小屋の中に何人も入ったところで邪魔になるだろうが、さりとて何もしないのも落ち着かない。おろおろと扉の前で立ち尽くすアステラをよそに、ダガンはさっさと焚き火跡の近くに座り込んでいた。
「俺らが行ったところで何ができるわけでもないわ。立っとらんと、アステラも座りや」
「でも、あんなに泣いてる。大丈夫なのかな」
「子供は泣くもんや。お前やって昔はそうやったやろ」
「それは、そうだけど……」
中からは、泣き声に交じってお母さん、お父さんと喚く声が聞こえてくる。体調を崩したことも、辛くてたまらなかったことも、たしかに子供の頃はあった気がするけれど、ああやって家族を呼んだ覚えはアステラにはない。ならば自分はどうしていただろうか。
ぼんやりと立ち尽くすアステラを、訝しげにダガンが急かしてくる。
「アステラ? どないしたん」
「あ、いや……」
はっと身を翻して、アステラはごまかすように焚き火跡へと火種を投げ入れた。ぱちぱちと音を立てて燃え始めた焚き火で暖を取りつつ、アステラは膝を抱えて、くしゃりと袖口を握り込む。
子供たちの痛々しい泣き声が、可哀想だった。あやすように語りかけるリリーの声が聞こえてくるけれど、一向に子供たちが落ち着く気配はない。あの子たちだってきっと、泣きたくて泣いているわけではないのだろう。どうしようもなくて、泣き止み方も分からないから、泣き続けるしかないだけだ。
アステラが子供だった頃、一番辛くて苦しくて、どうしたらいいか分からなかった時に聞こえたのは、歌だった。優しく静かな、歌詞のない旋律。縋るように扉を開けた先で、アステラはダガンに救われた。泣きたくもないのに涙が出て、自分の涙で溺れそうになっていたアステラを、助けてくれたのはダガンの歌だ。
「……なあ、ダガン。歌ってよ。子供たちも、泣き止むかも」
膝を抱えたまま、ぼそりとねだる。子供たちのために歌ってあげてほしいのか、それとも単に、それを口実に歌を聞きたいだけなのか、自分でも分からないまま、アステラはじっとダガンを見る。
「歌ぁ? 余計に泣くやろ」
嫌そうに顔を歪めて、ダガンは吐き捨てるように言った。
「俺の『歌』知っとるやろ。お前だって下手くそだの人魚らしくないだの言うて散々貶したくせに」
「魔除けの歌はそれはそれで便利だけど、俺が言ってるのは、魔除け歌じゃない方の歌だよ。だってダガンが前に歌ってくれた歌は、もっときれいな歌だったじゃんか」
「前? いつの話や」
首を傾げるダガンに、もどかしい気持ちでアステラは言い募る。
「前だよ。ずっと前。初めて俺が、ダガンと会った時!」
アステラはあの日のことを一日だって忘れたことがないというのに、ダガンは忘れてしまったのだろうか。
ぐっと唇を噛み、恨みがましくダガンを睨む。
「覚えてねえの……?」
「何やそんな拗ねたガキみたいな顔して――ああ!」
まじまじとアステラの顔を見たダガンは、その瞬間、思い出したとばかりにポンと手を打った。
「アステラがギャン泣きしとった時の話か。それならそうと早よ言うてや。紛らわしいねん、言い方が。ガキだった頃のアステラの前で歌ったんは『歌』っちゅうか、ただの音程追っただけの子守歌やし」
子守唄、とアステラは飴玉を転がすように、舌の上でその言葉を繰り返す。
「俺が泣いてたから、歌ってくれたのか。あの時」
アステラのためだけに歌ってくれた子守唄。そう思ったらふわふわと飛び上がりたい気分になった。しかし、ダガンの次の一言を聞いた瞬間、浮ついた気分はぱっと霧散する。
「せやな。妹が小さかったころ、泣くたびによく歌ってやっとったから、ガキにも効くかと思って」
「……ふうん」
妹に重ねて歌ってくれただけらしい。眉間に皺を寄せるアステラの心中など知る由もなく、ダガンは懐かしそうに言葉を続ける。
「父親の真似して歌ってな……、でも俺の歌は人間には効かへんし、魔の力もろくろく籠らんもんやから、何やそれ言うて笑われたわ。音を追うことしかできん歌なんて、まさに海魔の出来損ないの証明やな」
薪を投げ足しながら、ダガンは自嘲するように唇を歪める。その言葉に、むっとしながらアステラは言い返す。
「でも俺、あの歌が好きだ」
「物好きやな」
ダガンが肩を竦める。明らかに乗り気ではなさそうだとは分かっていたけれど、アステラは構わず身を乗り出した。
「なんでもいいよ。歌って、ダガン」
じっと上目遣いに目を見つめてねだると、ダガンは怯んだように目を逸らした。ややあって、「少しだけやぞ」とため息をついたダガンは、歌詞のない旋律を空気に乗せるように歌い始めた。
ぱっと目を輝かせたアステラは、膝を抱えて座り直すと、旋律に耳を傾けるように目を伏せる。
懐かしい歌だ。耳に心地よいダガンの声が、郷愁を誘うもの寂しい旋律を、静かに奏でていく。ずっと聞いていたいと思うのに、終わるまでは一瞬だった。短い一節が終わると、焚き木の弾ける控えめな音だけが、しんと場を満たす。
名残惜しい気持ちで目を開けて、わずかに開いた小屋の扉を目にしたアステラは、にっとダガンに笑いかけた。
「……ほらな。俺の言った通りだろ、ダガン」
何の話だと言わんばかりに眉を顰めた後で、遅れてダガンも気がついたらしい。
あんなにも悲痛に響いていた子供たちの泣き声が、いつの間にやら消えていた。代わりに、控えめに押し開けられた扉の向こう側から、鼻水を垂らした子供が二人、顔を出す。
「きれいなおうた」
思わずと言った様子で呟く幼い子供に、アステラは穏やかな笑みを返した。
「ああ、綺麗なお歌だよな。俺も大好きなんだ。いい子にベッドで横になってたら、このモジャモジャの兄ちゃんが寝るまで歌ってくれるよ」
「……誰がモジャモジャや」
苦虫を噛み潰したような顰め面とは裏腹に、声を上擦らせて立ち上がったダガンは、「外は寒いで。中に入りや」と早々に子供たちを中に押し込めにかかる。
海魔の歌など聞いたことはないけれど、アステラにとっての人魚の歌は、あの日に聞いたダガンの歌だ。
自分でも止められない涙を止めてくれる歌が、出来損ないなどであるものか。
焚き火に照らされたことが理由ではないだろう、赤みを増したダガンの頬をじっと見ながら、アステラは聞いたばかりの旋律をそっと口ずさんだ。




