30. マホロのヒーロー
ぱっと身が翻る。浮かんでは緊迫する闇に埋没する疑問符の群れ。胸懐の感傷を表出することはままならない。だって、今。あたしの意思を介さずに体が動いた。キィン、と、か細い金属音。連続する。さっきまで立っていた場所にほど近い。狙撃されている? こんな真っ暗で、地上二百五十メートルの高所を?
「あー! 狙撃されてる? とか思ってますか? その通りです。――いやぁ、ボクも『死んでもらえますか?』なんて交渉はまだやったことないので自信がなくて。電話一本で便利屋を設置してみ……あっ、ちょっと! どこ行くんですか!」
身体は勝手に動いた。鉄骨を勢いよく蹴りつけて空中へ踊り出る。どこって。どこへ行こう? わからないな。これはあたしの意図する行動ではないのだし。ただ、今は時間が欲しい。できればナズナと話せないかな。無理か。寝てるだろうし。メール。ケータイ、どこにしまったっけ。落ちていく間だけ頭痛が和らぐ。張りつめていた意識も比例して弛緩する。変身が解けて、もう、落ちたら助からないかな。
夜の風が好き。優しくて、お母さんみたい。こんな母ならよかった。でも、母は。あの人は、秘密の理由で死んでしまった。夜は夜でも、淀んだ隘路の吹き溜まりみたいな夜だった。
だめ。こんなこと、思い出すよりもっと大切なこと、思いたいの。時間が。時間が欲しいな。全部吐き出したいの。クリスさん、どこにいるんだろう。ヘキサグラムは最後に何を言おうとしたんだろう。
あたしは。あたしはね。ただ、ずっと生きていたいし、ナズナにちゃんと笑えるじゃん、って言われたいし、明日もおはようって言いたい。あたしはここにいるということを伝えたくて、何者でもない、たまゆらの存在にすぎないあたしを残したいと願う。あたしはきっと目覚めたばかりだから。欲すること。渇望すること。闘うこと。生きるということ。あたしはそれらをこれから望みたい。
だれか、助けてくれないかなあ。
半笑いのあたしの声なき声に応えるように、冷たい腕が、あたしを掴んで引き寄せた。
――半透明の。
それは正真正銘の奇跡で。
しかし必然の因果律の交点だった。
『ならば、己が君を助けよう』
さて。
一般に幽霊と呼ばれる存在は、神代から今日まで長く語られている。
*
「えッ、消えた? マジか……」
彼――宵ヶ峰イツキは渋面をつくり青い息を吐いた。さっきまで二人いた付き人は今は一人だ。先ほど、狙撃の流れ弾で同士討ちヘッドショットというびっくりコントをやらかしてくれた。かくいうイツキも一発掠めているが、いくらでも換えはある。付き人の方は珍しく換えのない逸材だった。イツキはこのことを二秒ほど惜しんだ。
「こぉどねーむ:ぽーすぽろすおじーちゃん! どう? 光はもたらせそう? 七号はレーダーから消えたんですが。……おッ。まずい。呼吸抑制が出てるな。サガラ!」
サガラと呼ばれた付き人がアタッシュケースを開く。見た目は四十後半、彼はイツキの付き人ではなく、宵ヶ峰家現当主の雇う執事である。即ち、イツキの父の。今回の同行は所謂お目付け役であるが、イツキの行動を窘めることはない。宵ヶ峰イツキは自立した宵ヶ峰家の人間として扱われている。
「……ム。ひどい徐脈ですぞ。戻りますかな」
「戻らなくてもいい。脳のダメージだけ抑えてくれ。脳と骨髄が無事ならいいよ。どうせ処分する――と、そっちは」
ぼさぼさの髪をことさらぼさぼさにして、イツキを睨む青年がいる。
「うん。元気そうだ。喋れないんでしたっけ。呪いだとかで。というかあなたは何もかもが呪いの塊だと思いますけどね。あなたは祝福などされちゃいない。――本家の嫡男への嫉妬に狂い酔狂に身を窶し呪われた不老の胡乱な男。それがあなたの正体だ」
青年は歯ぎしりの音が数軒先まで聞こえてきそうな、すさまじい形相を露にしていた。あまりの凄まじさにイツキはヒューっと口笛を吹いた。青年は鉄骨から落ちることも厭わずにイツキに手を伸ばそうと身じろぎする。筋弛緩薬の投与が足りなかったかもしれない、とイツキは唸った。
「あー、そうですね。七号が見つかるまで暇ですし。せっかくだからボクの調査報告会でもします? もちろん、あなたがたの正体についてのね。まあ、まずは――雛小路有理と雛小路正規のカクシツっぽい話からします?」
*
『己が誰か知っているか?』
「あの、助けてくれてありがとうございます」
『己が誰か知っているな?』
「なんだか、あなたに会ってからすごく身体が軽くて」
『己の名を言ってみよ!』
「感覚が戻った……というか、自由に動ける……というか、その、すごく……助かりました」
『己は荊の路を行く男……!』
「あなたのことは知りませんけど」
いやマジで誰?
天上の舞台から落ちに落ちたあたしは幽霊に抱えられ、今は雑居ビルの屋上にいる。ウウーだかピーポーだかどこかで救急車のサイレンが鳴っていて、急に日常に引き戻された気分。その日常風景にぽっかりと空いたイレギュラー。幽霊。奇跡も魔法もあるんだから幽霊だっているんでしょう。わかんないけど。たぶん。自信ないけど。
幽霊じゃなければなんだって言うのだろう。
それは半透明に発光している人型の物体および現象だ。それの随意で触れることができる。それはひどく冷たい。足はある。草履を履いている。袴を穿いている。詰襟のシャツに着物を着ている。長めの襟足を紐で結んでいる。生活に支障が出そうなくらいに背の高い、若い男性だ。たぶん、シャヘルさんと同じ年の頃の。
その人(人?)は無遠慮に、それはもう鼻と鼻が触れ合うくらいまであたしに顔を近づけると、
『知らんのか』と言った。
「知りません。本当に。まったく」
その人(幽霊?)は気障ったらしい仕草で前髪を払い、わざとらしくため息を吐いた。幽霊に呼吸という概念があるのかはさておき。
『では、君はあれか。この己を知らずに我が後裔の命を救ったのか』
「……なんのことですか?」
『己は名をユーリ・ソーンロードという。ユーリはジュリアス・シーザーのJuliと綴れ。いいな』
話を聞いてくれない。
「……日本人ですよね?」
『フッ』
「芸名ですか?」
芝居がかった口調に、あたしはあえて「偽名」ではなく「芸名」という言葉を使った。そのくらいには頭が回るようになっていた。不意に夏の匂いを感じた。違和感が胸にわだかまった。
『荊の路を行く帝王を意味する。己が己につけた名だ。古いしきたりには囚われんタチでな』
己は神か王かはたまたその両方である、とでも言いだしそうな尊大な言い様。あたしは苦笑いと委縮を半々に表し、おずおずと切り出した。
「……聞きたいことがあるんですけど」
『なんでも聞け。己の心は雄大なる蒼穹のごとしだ』
「そうですか……」
その人――ユーリさんを透かして向こうの景色を見る。そこにあるのはごく普通の夜の街。非現実に透かして見る電灯の光は、いくらかピンボケしていた。
さて、散々この世界の埒外でやりとりをしたあたしだけど、こんな安い心霊特集みたいなことを尋ねることになるとは思わなかった。
「……ユーリさんは、その、いわゆる……幽霊、なんですよね」
一拍置いて、存外に思慮深げな顔をして。ユーリさんは口を開く。想起するように遠くを見ていた。それはたぶん、大切な人を想う瞳だった。
『そうだ。己は死んだ。奴に救われたおかげで、己は己の人生を全うして死んだ。しかし、君に呼ばれた。己の後裔を救った君に。――嗚呼。君の気配は奴によく似ているのだな。どうりで、己があの日の格好で、二度此岸を踏んだわけだ』
ユーリさんの瞳は爛々として、自信と確信に満ち溢れていた。真夏の太陽のようなひとだと思った。荒野に聳える大樹のようでもあった。雄大なる蒼穹、とは案外的を得ているのかもしれない。
どうしてこの人があたしの前に現れたんだろう。
あたしを助けてくれたんだろう。
『己の時間がどれだけ続くか知らんが、助けたついでだ。己の昔話でも聞いていけ』
あたしの時間だって、どれだけ続くかわからないけれど。
この人の正体が知りたくて、あたしは自然と首を縦に振っていた。
交錯する過去と現在。
語られるのは、とある青年らのありふれて奇怪に歪んだ奇跡。




