19. 交点
これがあたしの記憶でなくとも、暁ノ宮の生き残りたる末妹の物語であるのなら。
ここから始まるのは悲劇で、機械仕掛けの神は存在しない。
ことのはじまりは兄の病死だった。あたしがまだ小学校に上がる前。日に日に痩せ細り老け込んだ、紅斑に染む兄を覚えている。赤くて、青黒かった。窪んだ眼窩。浮き上がるされこうべの輪郭。その、薄気味悪さ。
たちの悪い血の病だった。九州をルーツに持つ母の家系は時限爆弾を抱えて短命だった。骨髄移植は成功した。でもね。「まさか」「そんなはずはない」「ありえない」、医者はしきりにそんな言葉を繰り返していた。兄に移植された造血幹細胞は一ヶ月足らずで狂い出した。それは奇しくもとある事故の、とある被害者の経過に似通った。そもそも、この病は十代やそこらで発症するようなものではなくて。その点も含めて医師は困惑を募らせた。
結局、原始的な化学療法が繰り返されるばかりだった。やがて、ようやく台頭しはじめた生物学的製剤の実験台になって兄は死んだ。
国内で実施された、PⅠの小規模な治験。
依頼者は父の協力会社だった。
「――ご子息のことは、本当に残念だった」
焼香の辛気臭いにおいの充満したモノクロの葬儀場。
ほら、見て。子供みたいな翡翠の目が泣いている。
純粋で、熱のこもった悔いの涙。
ああ、嫌だ。
全部あなたのせいでしょうに。
遠からず兄を誰より愛していた母が首を吊った。バイオリンの弦で吊った頸は皮膚を切らせて赤く染まっていた。遺書の内容に父が絶句した。言葉を失ってひとしきり静かに泣いていた父。そんな状態は一過性だった。しばらくして、父は以前と同じ活力を取り戻した。母と兄のことは記憶から消えてしまったらしく、それは姉も同じだった。父も姉も遺書の内容を知っていた。あたしだけ知らなかった。知らされなかった。知らされなかったけど、察したことならある。
あたし、疎まれていた。
「お嬢様はなにも心配されなくて良いのです」
チェンシーの声はしんしんと降り積もる淡雪みたい。
「私が守ってあげます。誰より愛してさしあげますから。私の一番はお嬢様です。私を頼って。手を曳いてあげます。ほぉら、お嬢様。夜空を見上げて。星座の話をしてあげましょう」
――どうして、チェンシー。わたしだけじゃなくて。かあさまやにいさまも守ってよ。
「私が大事なのはお嬢様なのです。ずうっと私を見ていて。目を離さないで。声を聞いて。私がすべて教えてあげます」
――いや。いやだわ。にいさま。かあさま。
「悲しまないで、お嬢様。どうか笑ってください。幸せでいてください。私がそばにいる限り、あなたに夜は訪れない」
雪解け水が黒土に染み込むように、チェンシーの声はわたしによく浸透した。濾過された綺麗な水はわたしの幼い心の成長の糧となった。わたしはチェンシーを愛していた。
母方の祖母が発狂して祖父を真っ二つにしてしまったとき。心神喪失となった祖母がODで眠るように亡くなったとき。伯父がストレスによる心臓破裂に倒れたとき。年の離れた従兄が事故で即死したとき。父方の祖父母が示し合わせたように急逝したとき。父が邪教に従って腹を掻っ捌いたとき。
あなたが死ぬときでさえも。
「さあ、よく見てくださいね」
チェンシーの、春の訪れのようにほころんだ顔をわたしはよく覚えている。左手にかざしたきらめく銀も、儀式めいた蝋燭の炎も。少しだけ甘い、ハロゲン溶剤みたいなお香の匂いも。
「私は今から死にます」
はだけたブラウス。ミルクに蜜を溶かした色の滑らかな肌。ぷつん、と表皮を突き破るあっけない、小さな音。
その赤の鮮やかささえも、ありありと。
幼いわたしは初めて見る真っ赤な動脈血の色に泣いて喚いてチェンシーにすがりついた。やめてくれと伸ばした手は真っ赤に染まってひときわ大声で泣き叫んだ。チェンシー、いや、やめて、血がたくさん出ると死んでしまうの。チェンシーがいなくなったらわたしはどこにもいられないの。チェンシー。お願いだから。
そんな言葉を舌ったらずに、甲高い声で叫んでいたのをあたしは淡々と聞いていた。淡々と、は嘘かも。血のにおいってすごく強烈で、気持ちのいいものじゃなかったから。
「よく見てお嬢様、ほら――私からお嬢様への最後の贈り物。私の愛と、お嬢様の愛の」
ナイフははじめにチェンシーのあばらの下辺りに突き刺さった。そこから時折小さな水音をさせて、臓器を切断しながらI字に下りていった。わたしはそこから逃げ出したい。逃げられない。どこへ行こうというの。チェンシー以外にわたしの居場所なんてないのに。父さまも姉さまも、あの日からわたしを忌むような目で見ること。隠さなかった。わたしは普通ではなかったから、わたしは吉兆から凶星になった。普遍性を持つことを許されなかったわたしはもはや愛しい末の娘ではなかった。真っ白に浮いた存在するべきでないもの。
あたしは立ち上がって距離を取ろうとする。消化物の残った臓物は悪臭がひどくて、その場にいられなかった。でも、できなかった。
わたしとチェンシーの首は、一メートルほどの鎖で繋がれている。
「ね、お嬢様。神様っていると思いますか?」
腹膜を裂かれた体は今にも臓器をこぼしそうなのに、チェンシーの声色は変わらなかった。わたしとチェンシーは温かな血だまりの中にいる。
「かみ、さま?」
わたしははっとして叫び声を上げた。かみさま。かみさま助けて。チェンシーを死なせないで。そんな様子を見てチェンシーはくすくす笑う。笑うたびに臓腑がこぼれた。上昇した心拍に合わせて噴き出す赤と黒の血液。チェンシーは構わずナイフを横に引いた。祈る十字が赤く、ドロドロに崩れていく。
「うふふ。私たちの願いを聞き届けてくれる神様なんていませんよ。神様は神様の都合で私たちの世界を管理するだけ。そんなのって悲しいでしょう。いっそ退屈でしょう? どれだけ祈りを捧げても、声が嗄れるほど叫んでも、干からびるまで泣いたって、届くことはない、なんて。虚しい。奇跡なんて嘘だなんて」
チェンシーの言うことは幼いわたしには理解できない、いささか概念的であったり、哲学的なことがあった。けれどこのときの、神様なんていないという言葉。家族を散らせて年端もいかないわたしには絶望を与えるには十分だった。
あたしはわたしと同化する。ユークリッド平面に記された二次曲線。その、ひとつめの交点。
そうだ。これきっかけだった。
あたしはここから始まった。
思い出した。忘れていたこと。真っ白に塗りつぶしてしまったこと。ぱらり、剥がれる白。じわり、滲む赤。
あたしは。
「かわいい、かわいい、私のお嬢様。この世界の誰より無垢で、純粋で、清ら、な」
チェンシーの唇はとっくに紫色で、それはわたしが何度も目にした死相だった。わたしは幼く鋭い感覚で、死がチェンシーに寄り添っていることを察していた。それが恐ろしくてわたしは上手に息ができない。浅く、不規則に。吸っては吐き出すヘモとアンモニアの飽和した空気。
酸素を不足させて暗く霞む視界の中、あたしはチェンシーの真っ赤な手の導く景色を見ている。下腹部の臓器から順に取り出されていた。大腸。小腸。膵臓。胃と、引きずり出される食道をするりと切断して。邪魔なものを片付けるように、探し物をするみたいに。
「見初められた、白。不可視の境界。紫。黎明。暁。私が、与えてあげます。神様。神……様。痛くない、痛くないよ」
痛い、痛いに決まってる、いやだいやだいやだ、わたしはこんなのいや、どうして、たすけてかみさま!
ね。
なんて、息も絶え絶えなのに叫び声を上げようとする、あたしは滑稽に見えやしない?
「この世界で一番美しい、無垢を、守る。……昇華、して、形而上。純潔と、ゆりかごは。待っててね。いとしい、いとしい」
横隔膜を中心から裂いて。あたしはなんとなくそんなことだろうと思っていた。それを取り出すなら、骨を砕くよりも。柔らかいところを掘り進めていった方が簡単でしょう。
不意にチェンシーがわたしの手を取る。血を失って弱々しく脈打つ器官。露出する。触れる。わたしの指先。覚えている。覚えているの。最後の瞬間まで。わたしの、最後の記憶。
「あなたに夜は訪れない。私は明ける夜。朝のひかり。すべてあげます。かみさま。いい子にしてますからね」
掠れる声が。遠のく命が恐ろしくて、わたしは意識を朝靄に沈めて。
あたしはそんな声、止めてしまいたくて。
「まほろばに、おやすみなさい。あなたはもう二度と傷つかない」
――さ、ここからがあなたの記憶。わたしから奪い去った、わたしのものであるはずだった記憶だわ。
Hello, Dr.Shambles.




