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20頁 「生かすべきか死なすべきか、それが問題だ」

アンを連れ帰って介抱し、いくらかご馳走(ちそう)を与えて数日後に追い出したところで……それが何になる? ただのユニの自己満足に等しい。それどころか贅沢を知ってしまったアンは己の貧しい日常とのギャップによりいっそう絶望を深めるだけだろう。死がいくらか先に延びるだけでアンの死の結末は変えようもない。

親切にはコツがあるとノーラに聞いたことがある。困っている誰かに親切をするときは最後まで面倒を見るか、もしくは一切関わらずに見て見ぬふりをすること。中途半端な人助けは双方にとって不幸を招くだけらしい。

ならば黒猫のユニにできる最大限の親切は最後まで面倒を見てあげること。アンの命が尽きる最後の最後まで。


「じつはわたし、人間を天に送るのは初めてなんです。上手くできるかどうか分かりませんが、せいいっぱいがんばります」


はらはらしながらしゃべるユニにアンは力なくうなずいた。上手かろうが下手だろうが黒猫の力で楽に死ねれば満足なようだった。

死にたい人間と黒猫の合意が発生し、ユニの能力が解き放たれる。楽に死なせるといってもどうやって……と思っていたユニの手に何かが浮かび上がった。

半透明だったモノが次第に濃くなり実体へ変化する。ユニは呼吸を止めて手の中に召喚されるモノに見入った。

それは銀色をした巨大なスプーン。長さはユニの身の丈とほぼ同じで、頭の部分のしゃくしは人が座れるほどの大きさをしている。金属製でしっかりとした造りなのに羽のように軽い。ユニの細腕でも十分に振り回すことができる。すべすべとして、熱くも冷たくもない不思議な触り心地だった。

こうして黒猫のスプーンに触れるのは初めてだが、それでもよく手になじむ。金属のスプーンが手の一部のようだった。前世の記憶は引き継げずに忘れてしまっているが、ユニは前もどこかで黒猫をしていたのだ。巨大なスプーンを何度も振るい、数知れぬ人間を天に送っていたのだろう。

スプーンを召喚したユニはそれまでとは違っていた。目に映るモノが違う。目の前に倒れているアンの身体を包む空気の色が違って見えた。青色のもやがアンの身体の周りをゆっくりとうずまいている。

おそらくはそれがアンの言うところの黒猫の糧だ。ユニの直感もそうだと訴えかけている。死ぬまでに使うはずだった残りの寿命。残存生命力。幸福をもたらす運気。うずまくもやの表現方法は様々だが一目で分かる大きな力だ。それを自分のものにしてしまえばたしかに黒猫の生命は潤うだろう。

スプーンの柄を両手で持ったままたたずむユニにアンが力のない目を向ける。死の恐怖を問題にしないほどの深い絶望と終末への切望。それがアンの目ににじんでいた。ユニの持つスプーンで花でも()むように首を()ねられるか、それともスプーンを使って頭から丸呑みにされるか。どんな悪い想像がアンの頭に浮かんでいるのか、その暗い目からは分からない。

どうやってスプーンを使うべきかすでにユニは分かっている。ノーラにもアルマにも教わっていないが、何もできない新生児が手足を動かすように、呼吸をするように、当たり前にこなすことができる。

ためらわずにばっさり殺せ。胸の奥底からそんな声が届くようだった。まるで地獄の谷底から響く不気味な風音のよう。その声も人の命を刈り取る黒猫の特質だろう。だがユニは黒猫の声には従わずに、ある思いつきを実行することに決めた。

アンの頭上にスプーンの先をかざし、紅茶に入れたミルクをかき混ぜるようにゆっくりと円を描いて回す。するとアンのまとう青いもやがスプーンにからめ取られていく。ここまでは普通の黒猫のやり方。ここから先はユニの考え出したオリジナルだった。

ユニはスプーンを自分の肩に立てかけたまましゃがみ、地面に散らばっているマッチの燃えかすの山から未使用のものを見つけ出す。そしてそれを箱の側面にこすりつけて小さな火を起こした。

ユニの手の中で暖かいマッチの火が揺れている。その火にユニもアンも無言で見入った。ユニはにこっと笑い、スプーンを傾けてもやのかたまりとマッチの火を合わせた。

ユニとアンを包む火の境界線。目を焼くようなまばゆさにアンは固く目を閉じた。

次の瞬間、アンが目を開けるとそこは――きらびやかな宮廷の中だった。絢爛豪華な服に身を包んだ貴族達が数人ごとに集まって談笑し、テーブルに並べられた見たこともない料理と美酒に舌鼓(したづつみ)を打つ。

状況がつかめずにしばしぼう然としていたアンは己の薄汚い身なりに思い至りあたふたと顔を赤らめた。しかし、どういうわけかアンは周りに勝るとも劣らない……それどころか周り以上の美しいドレスをまとっていた。まるで王族の姫君のような姿だ。

アンの存在について誰も何も言わない。光が射さない貧民窟(ひんみんくつ)のかたすみで最低の暮らしを続けたアンが貴族の社交界に自然に溶けこんでいた。

アンは恐る恐るテーブルの前へと歩み寄り、一面に広がる輝くばかりの料理に目を落とす。アンが何も言っていないのにその場に控えていた給仕に肉料理を皿によそってもらい、うやうやしく手渡された銀のフォークで口にそろそろと運ぶ。とろけるような舌触りと口から全身に満ちる強烈な幸福感。アンが餓えをしのぐために食べてきたしなびた野菜屑の数々とは天と地の差だ。

続いてワイングラスに果実酒を注いでもらい、ちびちびとなめるように飲んでみる。こちらも驚くほどに美味い。慣れないアルコールの薫りに子どものアンはとまどったが、まるで快感が水となって具現化したかのような代物だ。果物の香りとのど越しの良さにつられてアンは三杯もグラスの中身を飲みほし、ほろ酔いのまま足取りも軽く人の輪の中へ進んでいく。

ダンスパーティーが始まったようだ。立派な衣装に身を包んだ音楽隊による管弦楽が耳に心地良い。二人一組で手を繋ぎ優雅に踊る男女の群れにアンがおどおどしていると、次々とダンスを申し込まれる。

下民のアンとはまったく別の種族かと見紛うほどに造りの違う姿形をした美男子達に囲まれて顔を真っ赤にしていると、ある一人の少年と目があった。アンと同じくらいの年ごろをした黒髪の男の子で、耳にとどくほどに髪が長く少女のような美しい中性的な顔をしている。夜空のような黒いタキシード姿で、首元のささやかな蝶ネクタイが微笑ましい。

アンは少年の申し込みを受け、手を繋いでワルツを踊る。社交の経験など皆無のアンはダンスなど踊れるはずもなかったが、美少年の優しいリードで上手に舞うことができた。

周囲の視線がアンと黒髪の少年に集まる。ずっとアンに向けられてきた軽蔑の目でなく、羨望(せんぼう)と祝福の眼差しだった。間違いなくアンがこの場の中心であり主役の姫。想像だにしなかった幸福に、アンは名も知らない少年と手を繋いだまま涙をこぼす。

曲が終わり小休止がはさまれる。酔ってしまったアンは少年に礼を言って頭を下げ、ほてった身体を冷ますためにテラスへ出た。夜空にまたたく星々が美しい。生まれてから今日までで最高の気分だった。

背後からの足音に振り返れば、先ほど自分と踊ってくれた黒髪の男の子が立っている。アンは軽く笑って向き直った。


「あんた、ユニって黒猫でしょ?」


「あっ……。バレてました?」


照れ笑いを浮かべて頭をかく少年の頭に猫の耳が生え、腰から長い尻尾がにょろりと生えてくる。見ようによっては黒いタキシード姿も執事の仕事着と見れなくもない。


「何となく分かってたよ。男に化けたあんたのことも、このお城も。全部幻なんでしょ?」


「…………」


「私が死ぬ前に、気を利かせて良い夢を見せてくれたんでしょ? ――ありがとう。こんなに素敵な思い、一生できなかっただろうから」


「死にたく、なくなりましたか?」


ドレス姿のアンは悲しく笑った後で首を横に振った。そんなアンにユニも偽らずにからくりを明かすことに決めた。

ユニが右手を前に出すと闇の中からマッチが浮かび上がる。すでに火は消えかかっていてかすかに煙を上げているだけだ。


「アンからもらうはずだった力をすべて夢の投影に使いました。ですがもう残りがありません。夢の時間はもう終わりです」


「そう。やっぱり私の人生全部を費やしてもこんな短い夢がせいいっぱいだったってわけね」


アンは最後に小さく笑うと男装のユニに歩み寄り、その足元にひざまずいた。顔の前で両手を組み合わせ、祈るように目を閉じる。


「やっと終われるのね。長かった。最後の最後で、本当に良い気持ち」


もはやアンの覚悟は決まっていて揺らぐことはない。城も料理も極めて現実に近い幻影とはいえこれはしょせんは幻。アンの悲惨な身の上も、病に冒された身体も、何も解決していない。だったら優しい夢の中で綺麗に終わらせてあげるのが黒猫であるユニの愛というものだ。

ひざまずき天に召される時を待っているアンにユニも誠意で応えることにする。今まで隠していた黒猫のスプーンを具現化し、その柄を両手で構え持つ。

街に降り立ちアンが倒れていた場所を見つめる。もうアンはいない。マッチの燃えかすとバスケットが落ちているだけで、アン自身の痕跡はこの世のどこにも影も形もないのだ。役目を終えた黒猫のスプーンを消し、ユニは灰色の天を(あお)ぐ。

ユニの胸に満ちるものは初仕事の達成感と喪失感。それらが等しく混ざり合っている。表情は消え去り、ただ無言で空を見続ける。

道のかたすみにたたずむユニをたくさんの人が囲み、遠巻きに見つめていた。彼らのざわめきもささやき声も今のユニには遠い出来事だ。

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