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12頁 「筆舌に尽くしがたい体験」

「でも、いきなりで、わたしどうお答えすればいいのか分かりません……」


下を向いて耳を垂れさせるユニに、アルマは優しく笑いかける。さっきの自殺願望に憑かれた男へ向けた営業用の笑顔とまったく同じ顔だった。


「ユニ。黒猫は人々のために働き、自立するのが基本です。当たり前と言い換えてもいいでしょう。ユニやノーラのように何もせず人間に養ってもらうことなど異例であり、黒猫の尊厳を地におとしめる愚行でしょう。どの黒猫もみんな自分の力で生きているのですよ」


知らなかった。自分とノーラは黒猫の中でも他に類を見ないなまけ者だったのだ。ユニはアルマの言葉に胸が締め付けられるような思いがし、大先輩の黒猫と目が合わせられずに空のカップの底を見つめ続ける。


「しかし、ユニには力がある。私が力添えをすれば十分にやっていける。さっきの商談でユニの名前を使わせてもらったのは、ユニの力が有効であることを証明してみせるためですよ。お客さん、ユニのことをとても気に入っていましたよ。私としてもぜひ事務所にユニが欲しい。なにしろユニには可愛らしさも才能もある。私のところでいっしょに働きましょう。黒猫としてちゃんと自立する、またとないチャンスです」


アルマは服のポケットから折りたたんだ紙を取り出し、それをテーブルの上に広げた。細々とした文字がたくさんつづられている。どうも紅茶を淹れに行った時に持ってきていたらしい。紙の上に血のように赤いインクが詰まったペンを添えた。


「さあユニ。悩む必要はありません。この契約書にサインを。そうすればあなたは今日から私の仲間であり、本当の同僚です。あなたの自立と自由はすぐ手の届くところにあるのです」


ユニは契約書を見つめたまま固まっている。そんなユニに、アルマは邪悪な本心を隠したまま陽光のように慈悲深い笑みを注いでいる。

まずは相手の欠点と問題を次々と指摘し、不安をあおる。どうしようとおろおろさせる。それまで安定していた自我を揺さぶるのだ。このおどしの内容は本当でも嘘でもかまわない。相手が不安になればそれでいいのだから。

そしてそれまでの手厳しい態度と口調をころっと変え、優しく接する。こうして相手からの信頼を得るのだ。「こんな良い方法がありますよ」といって解決方法を提示し、どうすればいいのか分からずに不安になっていた相手と契約を取り付ける。

これは悪質な宗教勧誘や顧客収集に用いられる詐欺(さぎ)常套手段(じょうとうしゅだん)だ。いかにも古い手だが、相手の心理を巧みに利用した効果的な方法であるために今日まで根強く残っている。


「アルマ。わたしはハミルトンの家で生まれました。わたしの家はフランシスカの所で、フランシスカがわたしの主人です」


「ふぅん。そうですか」


汗を流しながら何とか喉から本音をしぼり出したユニにも、アルマは不敵な笑みを崩さない。それまで左手に持っていたカップを机の上へ置き、なぜか顔に掛けていた眼鏡を外す。

アルマが裸眼になった。ただそれだけなのに彼女から受ける印象ががらりと変わる。不穏な気配がアルマの全身から発せられていて、ユニの直感が危険だと警報を鳴らしている。

アルマは机に眼鏡を置くと同時、何の前ぶれなくユニの尻尾をつかみあげた。鋭い衝撃の針が脳に突き刺さり、一瞬で視界が白濁する。アルマはユニの尻尾をつかむのみならず力をこめてねじり上げ、ユニを激痛の中へ封じこめる。

呼吸を止めて身体を丸めるユニの腹をアルマが蹴り上げ、ソファーから床へ倒れさせると、尻尾を握りしめたままユニの顔をぐりぐりと踏みつける。


「ア、アルマ……? 何をするんですか……」


「いいからさっさと書類にサインをしろよ。手間取らせるな、メスガキ」


頭の上からとどく淡々とした声にはいっさいの熱がこもっておらず、氷塊からふわふわと落ちてくる冷気のようだった。いったい何が起こっているのか、アルマが何を言っているのか、尻尾から全身へ伝う痛みのせいで頭がまともに働こうとしない。


「前から欲しかったんだよな、小さくて従順な犬がさ。お前、生まれたばかりだろう? まだ余計な色に染まってない。しつけがいがありそうだ」


「い、犬……? わたしは黒猫……猫ですが……」


「頭の出来がなってねえな。犬は奴隷だ。消えて無くなるまで奉仕し、私のために働くのさ」


アルマはユニの顔の前に契約書とペンを落とす。顔を踏みつけていたアルマの足がどけられたので、ユニは契約書を見つめる。頭が割れるように痛むので書類が二重三重にブレて映る。契約内容などまともに読めなかった。


「早くサインしろ。名前を書け。そうすりゃすぐに放してやる」


嘘。サインをしたところでこの尻尾の痛みからは解放されてもさらに重い(かせ)を背負うことになるだけ。

顔を近づけて凝視すれば、明らかに普通の紙ではない。妖気とでも呼ぶべき異様な力がにじみ出している。おそらくはサインした者の心を呪術的な力で縛る仕掛けが施されている。サインしたら最後、本当にアルマの犬であり奴隷にされてしまう。


「どうしてこんなひどいことをするんです! わたしも、アルマも、同じ黒猫でしょ!?」


「同じ? 笑わせんな。私はお前みたいなただの黒猫とは違うんだ。前世の記憶を三代も引き継いでる。普通の黒猫の三倍以上は長生きしてるんだよ」


アルマはいら立ちまぎれにユニの背中を踏みつける。みしみしときしむ背骨にユニは目を白黒させた。

たしかにアルマは普通の黒猫とは一線を画している。ユニやノーラとはまるで別物の凶暴性と残忍性。力もユニとは段違いで、背中の重量感は巨大な岩のようだ。アルマに踏まれたまま身動きがとれない。


「黒猫が記憶を引き継ぐ方法。その条件を、お前知ってるか?」


額に脂汗を浮かべながら首を横に振るユニに、アルマは歪んだ冷たい笑みを浮かべる。


「黒猫が前世の記憶を維持するにはな、人間を殺しまくることだ。たくさん死なせれば私達黒猫は長生きできる。生まれ変わっても前世の記憶と経験と人格を持ち越せる。私が思うに、たくさん人間を殺した黒猫はそれだけ優秀ってことだ。だから記憶の引き継ぎが許される。次の代でも貴重な経験を生かし、もっと多くの人間を殺すためにな」


「記憶を継ぐために人間を殺す……? そんな自分勝手な理由で大勢の人間を殺すなんて!」


「人間なんて黒猫への供物(くもつ)にすぎない。人間の命が黒猫の(かて)になるのさ。お前もそう思うだろ? んん?」


強制的に同意を求め、暗い目で顔をのぞきこむアルマにユニは押し黙る。黒猫にとっての人間。その意味をユニはまだ真剣に考えたことがなかった。

黒猫は人間にどう接すればいいのだろう。アルマの言うように人間の命を食らって記憶の寿命を延ばせばいいのか。それとも何か別の道が……? 深く考えようとしても尻尾を握られているせいで思考が乱れて白熱し、ある程度以上の考えがまとまらない。


「お前と二人で店をやれば確実に客が増える。二人でやってる黒猫事務所なんて他に無いからな。宣伝効果抜群だ。どんどん殺せるぞ。儲かるし、来世にも確実に記憶を持っていける。お前にもちゃんと殺す分を分けてやる。だから早く署名しろ」


「どうして、なんでそんなに長生きしたいの……? フランシスカみたいに、もう生きたくない人間だっているのに」


「あのイカれた女といっしょにするな。私は死ぬのが恐い。恐いんだ」


急にアルマの声色が変わった。空いている左腕を自身の胸に回し、極寒の吹雪の中で身震いするようにかき抱く。かすかに指先が震えている。


「死ねば何もかも終わりだ。お前もたくさん人間を死なせれば分かる。死にたくなったら終わりだ。もうその人間は救えない。死ぬことでしか救われない。私は嫌だ。消えたくない。もっともっと美味いものを食べたいし、知らない本も読みたいし、綺麗なものを見たいんだ。消えたくない。死にたくない」


恐ろしい何かに追い立てられているかのようにアルマは顔を強ばらせ、尻尾を握る手と背中を踏みつける足にいっそう力をこめる。ユニはか細い悲鳴で苦痛を訴えるが、妄執(もうしゅう)にとらわれたアルマにはとどかない。


「下らない理想はさっさと捨てろ。私もずっと昔は死ぬべきでない人を助けようと努力もした。でもフランシスカはダメだ。もうあいつは死ぬしかない。あいつは死に取り憑かれているからな。フランシスカは救えない。お前が考えているほどこの世は甘くないってことだ」


アルマだって最初からこんなに酷い黒猫ではなかっただろう。だが彼女は黒猫として転生をくり返し変わってしまった。人間を殺し続けるうちに魂は歪み、初めの理想は腐敗し、生に執着するただの外道に成り果ててしまったのだ。

ユニは首をひねり、アルマを見上げる。どこか悲しい顔をしているようにユニには映った。いっさいの熱と情愛を失った死人の顔のよう。ユニをいたぶり、奴隷として屈服させることへの暗い喜びしか顔に浮かんでいない。彼女は自分だけの異質な世界に閉じこもる、孤独な女王だ。

他人とつながりを求める心の正体。それをユニはすでに知っていた。アルマがここまでユニにこだわるのは、きっと――。


「アルマ。わたし、ついに見破(みやぶ)りました。アルマはわたしに恋をしていますね……?」


「あ?」


「人間は一人になりたくないから恋をするのです。寂しいから、恋をして誰かとつながりを持とうとします。アルマがわたしを手に入れようとするのはわたしに恋い焦がれているからですよ! そんなに寂しいなら恋人になってあげますから、もう放して下さい!」

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