13頁 「やはり野におけ蓮華草」
アルマはぽかんとした顔でユニを見下ろし、しばらくして何かが壊れたようにゲラゲラと笑い出した。
「最初から笑わせてくれるじゃないか。いいぞユニ、その調子だ。もっと私を笑わせろ。もっと愉しませろ。お前は犬だけじゃなく、道化としての素質もある。将来有望だな」
ひとしきり笑った後、アルマはユニのほおを入念に踏みにじる。あまりの痛みにユニは涙をにじませた。
「どうしてこの私がお前のようなチビガキに恋しなければならない? うぬぼれるなよ、世間知らずの馬鹿猫が。ああ、たしかにお前の身体に興味がある。ユニを欲しいと思ってる」
ユニの心臓がはね上がり、瞬時に顔が赤く染まる。このままアルマに自由を奪われ、いいようにもてあそばれてしまうのか。まだ子どもの自分が、同性の黒猫に。あらぬ妄想がユニの脳裏をかけめぐり、尻尾をつかまれる痛みと踏まれる苦しみが別の危険な感覚へと変わっていくようだ。
「欲しいのは私のために働くその身体と、黒猫の能力だけだ。お前の頭の中はまったくもってどうでもいい。お前からどれだけしぼり取れるか。私の興味はただそれだけだ。よーく覚えておけ」
どうやらまたしてもユニの考えはまとはずれだったようだ。いくらか心を尽くしてもらえる慰み者どころか、アルマにとってはユニなど近いうちに食卓に並べられる家畜か、油をしぼれるだけしぼって捨てられる菜種くらいの価値しかないらしい。
「そろそろサインをしろ。暇じゃないんだ。これからお前を使うための準備が山ほどあるんだからな。……ん?」
アルマの猫耳がぴくんと動き、玄関の方へすばやく顔を向ける。ユニもアルマに数瞬遅れて屋外の足音を聴き取った。
「おーい、アルマ。ユニが来てない? 帰りが遅いから様子を見に来たんだけどさ」
鍵がかかったドアを何度もノックし、ドアの向こうから大声を出すノーラ。思わぬ救世主の登場にユニは顔を上げて「助けて!」と叫ぼうとする。
だが声を出す寸前でアルマがユニの頭を思いきり踏みつけ、顔面を床へ押しつける。後頭部に巨漢が立っているような重量感。ユニは口をまったく動かせない。
アルマはまずユニの口を左手でおおい、顔がつぶれるかと思うほどの力をこめて声を封じる。これは無言の脅迫だ。もしも声を出せば殺すというアルマの意思表示。
次にアルマは右腕一本でユニの胸を抱きかかえ、小さな手荷物でも運ぶように軽々とドアの前まで連れていく。
「お待たせしました。すみません。風邪のせいで身体が重くて。うつるといけないので、このままでお話させてください」
ユニの口を封じたまま、アルマは穏やかな声でドアの向こうのノーラへ声をかける。風邪というのも、捕まえているユニの姿を見せないため嘘だ。
「風邪? だいじょうぶ? 具合が悪いの?」
「ええ、少し。せっかく来てもらったユニには悪いのですが、早めに帰ってもらいました」
帰ったなんて大嘘。わたしはここでアルマの奴隷にされそうになっている。ユニは懸命にもがくが、力の差がありすぎる。万力にでもはさまれたようにびくともしない。
ノーラの少しの沈黙が永遠のように長く感じられる。動くな、邪魔をするなとアルマに至近距離でにらまれ、ユニは強い恐怖心に縛られて何もできなくなる。闇夜のように真っ黒なアルマの瞳。黒猫の目がこれほど恐いとはユニは今まで知らなかった。
「…………じゃあもうユニは出て行ったんだ。出かける前に教会へ礼拝に行きたいとか何とか言ってたけど、ユニはそんなこと言ってなかった?」
「ああ、言っていましたよ。ユニは教会へ向かいました。ユニに教会への道順を聞かれたのでちゃんと教えましたよ」
「分かった。教会の方へ行ってみる。風邪、早く治しなよ」
「ありがとうございます。それではまた」
ノーラの足音が遠ざかる。アルマにだまされ、ユニの最後の希望が行ってしまう。ユニは身体から力が抜けて抵抗する気力さえ失ってしまう。
ユニは応接室まで引きずられ、乱暴に床に投げ出された。ユニの顔のすぐ前にはまがまがしい力を放つ契約書と赤いインクのペンが置かれたままだ。
「ぐずぐずしてられねぇな。また邪魔が入りかねない。おい、さっさとペンを持て」
ユニが無言で首を横に振ると、アルマはユニの背中に馬乗りになった。そしてペンを拾い、ユニの右手を力づくでこじ開けてペンを持たせた。ペンを持ったユニの右手をつかんで握りしめ、強制的にペンをにぎらせる。
そのままペンの先を契約書の署名欄へと近づけていく。ユニの意思に関係なくユニの手で名前をつづらせるつもりだ。
ユニにはもうどうすることもできない。背中のアルマをはねのけるほどの力はないし、右手は彼女の剛力で完全に操られてしまっている。
「驚いた。お前の正体がそんなにヤバかったとはね」
「っ!?」
階段から届く声にアルマが反射的に顔を上げる。ユニもつられて声の方を見れば、そこには手すりに寄りかかるノーラが立っていた。
あっけにとられるアルマを見てノーラはにやりと笑い、階段からひらりと一階へ舞い降りる。
「……なぜだ? どうしてまだユニがいると分かった?」
「ひっかけだよ。ユニは教会へ行くなんて言っていない。なのにお前はあたしの話に乗って嘘をついた。明らかに怪しい。前からお前はどこかおかしいと感じていたんだ。立ち去ったふりをして、こっそり屋根を伝って二階の窓からお邪魔したのさ」
人間離れした黒猫の身体能力なら民家の屋根へ登り二階の窓からアルマの事務所へ侵入することも朝飯前だ。慎重に気配を殺して動けば黒猫の優れた感覚器官をだますこともできる。
「ノーラさんっ! 助けて下さい! わたし、わたしっ、アルマの奴隷にされそうなんですよ!」
「はいはい。さあ、アルマ。うちのユニを返してもらおうか」
「……条件がある。今日ここで見たことをすべて忘れること。誰にも何も話さないこと。この条件が守れれば、こいつは無傷で返してやる」
「わかったわかった。黒猫は生まれた街を離れられない。お前の本性をバラしたら街の誰からも信用されなくなって商売がパーだもんな。こっちもヤバい事にわざわざ首を突っこもうなんて思ってないよ」
いつでも絞め殺せるように人質のユニの首に手を添えたままのアルマとノーラの無言のにらみ合いが続く。ノーラが条件を守る保証はない。だがアルマは秘密をしゃべらないという約束を信用するしかない弱い立場だった。アルマは最後にいまいましげに舌打ちし、ユニの背中からどいた。
「ノーラさぁんっ!」
ようやく解放されたユニが泣きじゃくりながらノーラの胸に飛びこむ。そんなユニを抱きとめたノーラは妹分の頭を軽くぽんぽんと叩き、安堵のため息をつく。
「さっさと帰れ。仕事の邪魔だ」
ノーラはテーブルに置いたままになっていた眼鏡をつかみ、玄関のドアの鍵を外す。
がくがくとひざを笑わせているユニの手を引き、ノーラが部屋を横切って玄関をくぐろうとする。
「ユニ」
眼鏡をかけたアルマに声を掛けられてユニがびくんと震える。恐る恐る顔を向けると、彼女はにこにこと穏やかに笑っていた。
「今日は残念な結果となりましたが、気が向いたらいつでも働きに来て下さいね。もちろん遊びに来てくれるだけでも嬉しいです。歓迎しますよ」
邪気をうかがわせないほがらかなアルマの笑み。そんな彼女にユニは開いた口がふさがらない。
眼鏡をかけるか外すかで人格が豹変する。おそらくそれがアルマの特徴。今のアルマは知的で大人しい黒猫のお嬢さんに化けている。もしくはそういう風に自分を強制的に変えている。眼鏡が化けるきっかけなのだ。アルマの凶悪な本性は世間で受け入れられる類のものではない。だから常識の基準に合わせて人格を大人しいものへ切り替えているらしい。
優しい笑顔で手を振るアルマに見送られ、ユニとノーラは恐怖の黒猫事務所をあとにした。
「ま、これで勉強になっただろ。他人をほいほい信じちゃだめだってことだ」
「…………」
まだ恐怖と苦痛が身体の中から抜けない。勝手に涙がにじみ出してしまう。ユニはノーラと手を繋ぎながらとぼとぼとハミルトン家を目指して歩いてた。
ベスも言っていた。人には必ず裏表がある。無垢な信頼は愚かしいと。ベスはアルマの裏の顔をちゃんと見抜いていたわけだ。まさかあれほどの危険人物とは思っていないだろうが……。
「ノーラさん。人を信じることは馬鹿らしいことですか? 人を信じちゃいけませんか?」
「……どうだろ。よく分からん。世間には人をだまして食ってやろうって奴が大勢いる。そういう奴らの餌食にならないように信じることと信じないことを使い分けるのが大切……だと思う。
何もかも全部信じること。あらゆるものをいっさい信じないこと。そのどちらかを選ぶと間違いなく不幸になる。完全主義はとんでもなく大変だからな」
「ノーラさん。わたし、黒猫が恐くなりました。アルマって、どうしてあんな性格なんですか?」
「黒猫の間じゃアルマが前世の記憶持ちってのは有名な話だけど、正直あたしもびっくりしたよ。欲にかられると黒猫もああなっちまうのかねぇ」
「ま、ユニが無事で良かったよ」と笑って頭をなでるノーラに、ユニは再び泣きついてしまう。二人組の黒猫。手を繋いで歩き、しかもその片方は新生の黒猫。ユニとノーラはすれちがう人達の視線をいっせいに集めていたが、そんなことは二人ともおかまいなしだ。
黒猫アルマ。人の命を吸い続け三代にわたり記憶を積み重ねる存在。彼女は人の命を安らかに葬る黒猫というよりも、まるで悪魔か死神のよう。アルマは黒猫の暗部の象徴としてユニの胸に深く、強烈に刻みこまれたのである。




