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皇帝への道 ― ナポレオン・ボナパルト  作者: レモンティー


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第二十七話:撤退戦 冬将軍

撤退は、静かに始まった。

しかし、その静けさは長く続かなかった。

モスクワを離れた翌日、最初の雪が降った。

はじめは小さな白い粒だった。

誰も気に留めなかった。

「まだ九月だ。」

「すぐ止む。」

兵士たちはそう言いながら歩き続けた。

だが、雪は止まなかった。

むしろ、強くなっていく。

風が吹くたびに、白い刃のような粒が顔を叩いた。

そして夜になると、気温は一気に崩れ落ちた。


最初に死んだのは馬だった。

凍った地面に膝を折り、そのまま動かなくなる。

兵士が引いても、もう立たない。

「起きろ……頼む……。」

声は届かない。

翌朝、その馬は氷のように硬くなっていた。

その横を、黙って軍が通り過ぎる。

誰も振り返らない。

振り返れば、前へ進めなくなるからだ。


やがて、人が死に始めた。

夜営の焚き火のそばで、そのまま倒れる兵士。

朝になると、身体は白く凍りついている。

眠るような死ではない。

凍結した死だった。

「歩け……!」

「止まるな!」

将校の声が響く。

しかし隊列は少しずつ間延びしていく。

歩く者と、立ち止まる者。

立ち止まった者は、そのまま列から消えていった。


その頃、ロシア軍は動いていた。

コサック騎兵が森から現れる。

馬上の影が雪原を駆け抜ける。

一瞬。

銃声。

そして消える。

フランス兵が気づいたときには、補給隊がすでに襲われていた。

食糧。

弾薬。

冬服。

それらはすべて焼かれ、あるいは奪われていた。

「守れ!」

「隊列を崩すな!」

だが、見えない敵に対して隊列は意味を持たなかった。


ナポレオンは馬上で前を見ていた。

吹雪の中、彼の顔にも霜がつく。

ベルティエが叫ぶ。

「陛下!進軍路が失われています!」

ナポレオンは答えない。

前進か。

後退か。

そのどちらも、もはや“楽な道”ではなかった。


軍は崩れ始めていた。

砲兵隊は大砲を捨てた。

馬が倒れ、引けなくなったからだ。

砲はその場に放棄され、雪に埋もれていく。

歩兵は荷物を捨てた。

重すぎて歩けないからだ。

装備は次々と雪の上に落ちていく。

それでも足だけは前へ進めと言われる。


ある夜。

焚き火の周り。

ミュラは黙って火を見ていた。

その炎は弱く、風に揺れて今にも消えそうだった。

「これが……戦争か。」

誰にも聞こえない声だった。


翌日。

隊列の前方で騒ぎが起きる。

「道が塞がれている!」

「橋が壊されている!」

コサックの破壊工作だった。

進む道は消え、退く道は追われる。

グランダルメは、雪原の中に閉じ込められていく。


そして、さらに北風が変わった。

それは風ではなかった。

鋼のような冷気だった。

兵士たちは口を開けると、肺の中まで凍るように感じた。

「寒い……」

その言葉は、すぐに誰も言わなくなる。

言葉を発する余力さえ奪われていく。


ナポレオンは初めて立ち止まった。

雪原の中。

白い世界。

かつて六十万を誇った軍は、今や六分の一となり細い列となって続いている。

ナポレオンが育て上げた歴戦の欧州最強と称されたフランス軍は、戦うことなく崩壊しつつあった。

彼は静かに言った。

「これが……ロシアか。」

その声は、風に消えた。


こうして、撤退は“戦い”へと変わった。

敵はロシア軍ではない。

寒さだった。

雪だった。

のどの渇きだった。

飢えだった。

そして時間そのものだった。

そして兵士たちはまだ知らない。

これから始まるのは、敗走ではなく――

生存の限界を問う地獄であることを。

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