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かなりや  作者: やうた まゆ 
Ⅰ.春の午後の日差し
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3.ピアノ


――よければ、焚き火にあたるといい。


その声は、とても静かで穏やかだった。


借りた服、返しに行きたいな。

愛は、綺麗に畳んだ服をしばらく見つめていた。


シンに相談してみた。


「朱のところ?うーん、そうだね……」


シンはハンモックの上で少しの間考えていたが、やがて、ハンモックから顔を出して愛を見た。


「その服、あいつのだろ?分かった、明日一緒に行こう」


二人は、昼頃に家を出た。


街を出て野原を歩いてゆくと、やがて霧がおりて、道の先を覆い隠した。


シンは霧の中を迷わず歩いてゆく。


愛ははぐれまいと、その背中に遅れないようついていった。


いつの間にか周囲には木立が並んでいた。

その木立を抜けた先に、日に焼けた丸太小屋がたたずんでいた。


シンは立ち止まった。


「俺はここで待ってるよ」


愛は困惑した。


「朱さんに会わないの?」


「会えないんだ。さ、行っといで」


シンに背中を押されるようにして、愛は丸太小屋へと歩いていった。


服の入った袋を胸に、愛は丸太小屋の階段を上る。

玄関の前で少しだけためらったあと、呼び鈴を鳴らした。


しばらくして、扉がゆっくり開いた。


真っ白い髪に、深い憂いをたたえた端正な顔。

茶色の瞳が、静かに愛を見つめた。


「……こんにちは。あの……愛と言います。先日はありがとうございました」


愛は緊張気味に挨拶し、頭を下げた。


朱は少し沈黙した後、口を開いた。


「大したことはしていない。気にしなくていい」


確かに、この前フードを被っていた男と同じバリトンの声だった。


「服も……」


愛がきれいにたたんだ服を渡すと、「ああ」と言って受け取ってくれた。


そのやりとりの最中、愛は朱の背後に見えているものに気を取られていた。


「……朱さん、ピアノ弾くの?」


思わず、聞いてしまった。


朱は、わずかに間を置いた。


「……昔は」


「楽譜、見てもいい?」


「ああ」


短い返事だった。


愛は中へ入り、楽譜の並ぶ棚へ近づいた。


「……ドリー組曲だ」


愛は、棚から古びた楽譜を一冊取り出して開いた。


指でそっと譜面をなぞる。

紙は、少し湿気を吸って波打っていた。


「先生とよく連弾してたの」


朱はその横顔を少し離れた場所から見ていた。


「朱さん、子守唄の下のパート、弾ける?」


「……子守唄なら、多分」


「じゃあ、一緒に弾こうよ」


愛は振り返って言った。


朱は少しだけ考え、やがて静かにうなずいた。


ピアノの前に並んで座る。


朱が低音を置き、愛が旋律を重ねた。


長い間、調律されていないピアノだった。


最初は互いに少しぎこちない音だったが、やがて自然に重なっていく。


呼吸が合っていく。

力が、自然に抜けていく。

音が、やわらかくなる。


朱はふと目を細めた。


——昔も、こんな風に誰かと弾いていた。


曲が終わったあと、しばらく誰も何も言わなかった。


先に口を開いたのは、愛だった。


「……この曲、やっぱり好き。久しぶりに弾けて嬉しかった。ありがとう」


朱は答えなかった。

ただ、愛を見ていた。


あまり長く見られて、愛はなんだか気まずくなった。


「朱さん?」


「……家族と弾いていたような気がした」


ぽつりと言った。


「呼吸が似ていた」


愛は少し驚いた顔をした。


朱はそれ以上何も言わず、立ち上がった。


「……お茶を淹れよう」


それだけ言って、奥へ行った。


少しして、朱がポットと三つのカップを運んできた。

愛の目の前で、それぞれのカップに紅茶を注いだ。


二つのカップをテーブルに置き、残った一つを盆に載せて愛に渡した。


「これは、シンに持っていってくれ」


愛はびっくりして、朱を見つめた。


「知っていたの?」


朱は答えなかった。


愛が外のシンに盆を渡すと、シンは手を上げて受け取った。


戻った愛は、朱と向かい合って座った。


「いただきます」


それから、二人はしばらく何も話さなかった。


窓から柔らかな光が差し込んでいた。

紅茶の琥珀色が、午後の日差しに透けていた。

丸太と紅茶の香り。


愛はカップを両手で包んだ。

あたたかくて、不思議と安心した。


「……ここ、好きかも」


思わずこぼれた言葉だった。

朱はわずかに目を伏せた。


「……そうか」


短い返事。

けれど、それは拒絶ではなかった。


しばらくして、愛は立ち上がった。


「また来てもいい?」


朱はすぐには答えなかった。

ほんのわずかな沈黙。


「……昼なら」


それだけ言った。

愛は、少し嬉しそうに笑った。


外へ出る。


振り返ると、朱はもう中に入っていた。

扉は閉じられている。


——そのとき。


風が、少しだけ冷たくなった気がした。


どこかで、草を踏む音が聞こえた……そんな気がした。


愛は空を見上げた。

まだ明るい。


切り株に腰掛けたシンが、心配そうに愛を待っていた。


「遅いよ」


愛は少し笑って、シンの方へ歩いていった。




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