12.春の小休止
部屋の床に、いつもより沢山の埃が積もっている。
愛が箒で掃くと、舞い上がって愛の鼻先に飛んできて、くしゃみが止まらなくなった。
「何事?」
シンが、ハンモックから半分目を閉じたまま顔を出す。
涙目でくしゃみを繰り返す愛を見て、何か思い出したらしい。
「あ。昨日、妖精よけをこぼしたんだった。悪い悪い」
半分笑いながら、愛に新しい袋を渡す。
受け取った愛の顔が、赤かった。
シンはその顔をしばらく眺めた後、愛の額に手を当てた。
「愛……熱あるだろ」
「ほら、この部屋少し暑いから……」
「今日は休み。野原禁止」
シンは愛をベッドに押し込み、外へ出かけていった。
愛はため息をついた。
最近、水に濡れることが多かったせいかもしれない。
ーー自重しろ
朱に知られたら、小言を言われそうな気がした。
シンが、袋を抱えて帰ってくる。
ベッドの端にドサリと座り、袋からリンゴを取り出す。
皮を剥き始めた。
皮がきれいな円を描いてするすると床に伸びていく。
「はい」
りんごのまるごと乗った皿が勢いよく愛の近くに置かれた。
「……ありがとう」
受け取ったリンゴをかじりながら、愛は床を見た。
りんごの皮が、床をのたくっていた。
シンはベッドに背をもたれて本を開いた。
画集だった。
愛はリンゴを齧りながら、画集の絵を無意識に眺めていた。
「あいつのピアノってスーラみたいでしょ」
唐突に、シンが愛を振り返る。
「スーラ?」
「この絵。緻密で繊細で綺麗なんだ」
シンは画集の1ページを開くと、その状態で棚に飾った。絵がそこにあるように見える。
「点だらけなのにね。離れると綺麗なんだ。あいつの音楽みたいでしょ」
愛はしばらくその絵を眺めた。
「……うん。そうかもしれない」
繊細だけれど揺るぎない。
支えてくれた、芯のある音を思い出していた。
次は何を連弾できるかな。
愛は思いを巡らせた。
※
愛が寝ている間に、シンは出かけた。
野原を通り、木立を抜けて川のほとりへ辿り着く。
石の上に丁寧に畳まれた紙が置いてある。
当たり前のようにそれを手に取って開いた。
朱の字だった。
シンは石にこしかけて手紙を読んだ。
シンの耳に川のせせらぎが聴こえてくる。
風がそよいで、手紙を揺らしていった。
手紙には愛のとんでもない行動のくだりが書かれていた。
その時、あいつはどんな顔をしたんだろう。
一人、微笑んだ。
読み進める内にシンの目が少し険しくなった。
懐から紙と鉛筆を取り出し、サラサラと書く。
手近な石を拾って、手紙にのせた。
立ち上がり、両手を頭の上で思い切り伸ばす。
春らしい優しい青空が見えた。
辺りを見回りながら、野原を歩く。
途中で、立ち止まった。
「新しいの、増やしておくかな……」
シンはシャベルを取り出すと、膝の深さまで穴を掘った。
その上に木の枝と枯れ草で蓋をする。
どこに穴があるのか分からなくなった。
「あっ」
作り終えたシンは思わず声を上げた。
ーーひっつき虫でも入れてやればよかった。普通の落とし穴じゃ飽きてるだろ、あいつ。
少し、後悔した。
✴︎
愛はシンのいない半日ほど眠り続けた。
起きると、服が汗で湿っていた。
熱は下がっていた。
愛は着替えると、ベッドの上で退屈そうに窓の外を眺めていた。
植物を片手に帰って来たシンは愛の期待の眼差しとぶつかった。
あ、これは散歩が必要だな、と思った。
「愛は見かけによらず、動くのが好きだなあ」
病み上がりにも関わらず、色々な店をくるくると見て回っている愛にシンが少し呆れた。
「あまり無理するなよ。ぶり返すぞ」
「シンさんは昼間外に出ないよね。たまには一緒に散歩しようよ」
「俺、夜が活動時間なの。昼は寝る時間だからさ」
「夜は……野原に?」
シンは袋を担ぎ直した。
「そ。あいつと鬼ごっこ」
愛は何か言おうとして、何も言えなかった。
シンはそんな愛を見て、カラリと笑った。
「俺、あいつに足の速さで負けたことないんだ」
しばらく、愛は黙って歩いていたが、ふと、ある露店の前で足を止めた。
その目の前に、編まれた素朴なバッグがあった。
愛は黙って考えていた。
シンは何となく察した。
「このバッグ、貰える?」
植物の根っこの束を取り出して、店の男に渡した。
「これ染料。綺麗な赤に染まるんだ」
「シン、お代はいいのに。でも、せっかくだから貰うよ。どんな色が出るのか楽しみだ。せっかくだ。もう一つ、好きなの持ってきな」
シンが愛を促すと、愛は嬉しそうに刺繍の入ったハンカチを選んだ。
「シンさん、ありがとう」
「楽譜入れるんだろ?」
「よく分かったね」
シンはカラカラと笑った。
「愛は分かりやすいよ。あいつと違って」
家の近くの饅頭売りのおばさんが、今日は肉の入った饅頭を二つ、包んでくれた。
受け取った愛に声をかける。
「あんた、よく野原行ってるだろ?シンは大丈夫だろうけどあんたは気をつけなよ。昼間でもさ」
愛が決まり悪そうにシンを見た。
シンが愛の頭をポンと軽く叩いた。
「野原、好きだもんな」
お礼を言って、その場を去る。
見慣れた道を、シンと歩く。
そこの角を曲がれば家に着く。
愛はハンカチの入ったバッグを見た。
シンの後ろで微笑むと、バッグをしっかり肩に掛け直した。
ふと、愛は脇道を見た。
路地に赤錆色が見えた。
ハッとして見返す。
赤いバラックがあるだけだった。
何となく足を速め、シンの近くに並んで歩く。
近いはずの家までの道が、長く感じられた。




