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かなりや  作者: やうた まゆ 
Ⅰ.春の午後の日差し
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1.夜明け


無謀だった。


少女の愛は、流木にしがみつきながら、川をくだっていた。

こっそり街を抜ける手段が、他に思い浮かばなかったのだ。


流れはゆるやかだったが、容赦なく体温は奪われていった。

だが、手を離せばそのまま沈むだろう。

進むしかなかった。


空は白みはじめていた。

明け方の空気は、まだ少し冷たい。


ふと、岸辺に明かりが見えた気がした。

川下の街が近いのかもしれない。


太陽が顔を出して、霞のような雲と空が朱色に染まった。

川面は木々と空を鏡のように映し出した。


愛の足先が、川底の砂にふれた。


——もう、大丈夫かな。


流木から手を離し、立とうとする。


瞬間、足元の砂が崩れて愛の体は深みへ沈んだ。


息ができない。

もがくほどに、足元は崩れていく。

だめかもしれない——


その時、水面を割るようにロープが投げ込まれた。

反射的に目の前のそれを掴む。


次の瞬間、強い力で引き上げられた。


愛の足が、岸辺の砂を踏んだ。




愛は岸辺の草の上に座り込んで、しばらく咳き込んだ。

全身から滴り落ちる水が、草の色を変えていった。


ようやく息が整ってくると、顔に張り付いた髪をかき分けた。


視界の向こうに、ロープを手にした人が立っていた。


背格好から男だろう。

フードを深くかぶっていて、顔は見えない。

隙間から覗く白い髪が、朝の光を受けて雪のように光っていた。


「あの……助けてくれて、ありがとうございます」


愛はかすれた声を絞り出した。


男は身じろぎもしない。


「……いや」


とだけ答えた。


穏やかなバリトンの声だった。

思っていたより若い。


男は背を向けて言う。


「よければ、焚き火にあたるといい」


視線を上げると、その先に火が見えた。


愛は立ち上がろうとしたが足に力が入らず、草の上に崩れ落ちてしまった。


すると、男が気づいて戻ってきた。


「掴まれ」


ぶっきらぼうに手を差し出す。


愛は小さく「すみません」と言いながら、骨ばったその手を取った。

男は片手で軽々と愛を引き上げ、焚き火の側まで手を貸してくれた。


焚き火の前に座ると、炎のぬくもりにほっとする。


それでも、濡れた服は冷たく、体はすぐに温まらない。


男は無言でそっと荷物を探った。

鍋を取り出して水を注ぎ、火にかけた。


そのまま立ち上がると、木立の向こうへ消えていった。


不思議な人だな。

愛はぽつりとそう思った。


歯を鳴らしながら、火を見つめる。


しばらくして、男が戻ってきた。


ズボンとシャツ、それに毛布が、愛の隣に置かれる。


「着替えるといい」


それだけ言い残して、再び姿を消す。


ぶっきらぼうな言葉とともに、きちんと置かれた服と毛布。

愛は思わず微笑んだ。


着替えを終えて毛布にくるまると、ようやく震えが収まった。


どこかで鳥が鳴いた。

羽音。空を切って、遠くへ消えていった。

風がゆるやかに吹き始めた。


やがて、男が音もなく現れた。


手に植物の束があった。

水で洗い、葉をちぎり、鍋へ落とす。

湯が透き通った緑色に変わった。

それを、カップにそっと注ぐ。


「どうぞ」


愛は、差し出されたカップを受け取った。

柑橘のような香りが鼻を抜けていった。

ハーブティーだ。


カップをそっと傾ける。

ひとすじのあたたかい道が、気持ちをほどいていった。


「……おいしい」


男は黙って焚き火に木をくべている。

炎がぱちりと小さく爆ぜた。 

穏やかにやさしく揺れている。


朝の光が、静かに二人の横顔を照らす。

遠くで小鳥がさえずり、朝靄の向こうに、木々がかすんで見えた。


愛はカップを両手で包みながら、ぼんやりと景色に見入った。


さっきまでの寒さも怖さも、どこかへ遠ざかっている。

何も話さなくてもよかった。

ただ、ここにいるだけでいいような気がした。


「落ち着いたか」


静かで穏やかな声だった。


「はい」


「街に住む友人がもうすぐここへ来る。一緒に行くといい」


そう言って、男は紙に何かを書き、愛に差し出した。


「友人はシンという。これを渡せ」


立ち上がり、そのまま去ろうとした。


「あの……!」


愛も慌てて立ち上がり、背中に声をかけた。


「ありがとうございました。あの、お名前を……教えてもらえませんか」


少しの沈黙がながれた。


「……(あけ)と呼ばれている」


そして、少しだけ振り返った。


「夜はこの辺りに近づくな」


「どうしてですか?」


「……レッドキャップが住んでいる」


それだけ言うと、男は姿を消した。

焚き火の音だけが、静かに残った。



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