第13話
春の乗馬大会から、数日が経った。
あの日の興奮は王都の社交界でも長く話題にされ、「イケメン令嬢が美しき令嬢を救う」という物語は、各家の奥方や令嬢たちの間で今も語り草になっている。
そんなある日の午後。
私は屋敷の応接間で、久しぶりに一息ついていた。朝から兄たちは用事で出かけていて、屋敷の中もどこか静かだ。窓から入る風が心地よく、紅茶の香りが部屋に広がる。
そこへ、執事が控えめに扉をノックした。
「お嬢様、セシリア・ド・ベルナール様がご来訪です」
思わず目を見開いた。
まさかセシリアが、この家に“ひとりで”訪ねてくるとは思ってもみなかった。
「すぐにお通しして。……あ、サロンにお茶の用意も」
「かしこまりました」
セシリアが姿を見せたのは、それからほどなくしてだった。
淡いラベンダー色のドレスに身を包み、いつもより少し控えめな髪飾り。
その手には、丁寧にリボンで結ばれた小さな包みを持っている。
普段よりもどこか緊張した面持ちで、玄関ホールに立っていた。
「いらっしゃい、セシリア」
「ごきげんよう、フィオナ。突然のお邪魔を許していただけるかしら」
「もちろん。……どうぞ、こちらへ」
二人きりで向かう応接間は、やや静かすぎて落ち着かない。
ふたりだけで話すのは、乗馬大会の前後を含めても、ほとんどなかった。
「今日、わざわざ家まで……何かあったの?」
「いえ、その……あの日のお礼がどうしても言いたくて」
セシリアは包みを差し出した。
その中身は、美しい金細工のティースプーンと、香り高い紅茶の葉だった。
「これ、家でよく使っているものなの。貴女に受け取ってほしくて」
「ありがとう。素敵な贈り物ね。大事に使うわ」
ソファに並んで座ると、執事が紅茶とお茶菓子を運んできた。
小さなテーブルに湯気が立ち上り、私たちは静かにカップを手に取る。
普段のセシリアなら、冗談や皮肉のひとつも口にしていたはずだ。
けれど今日は、珍しく落ち着かず、ちらちらと私の顔を窺っている。
「本当に、助けてくれてありがとう」
彼女は、小さな声でそう言った。
「あの時、すごく怖かったの。馬が暴れて、誰も助けに来られなくて……。
でも、貴女が真っ先に駆け寄ってくれた。……あのときは、本当に心強かったわ」
「私も、気がついたら動いてたの。怖い思いをさせてごめんなさい。でも無事で良かった」
「……あんなに近くで助けてもらったの、はじめてだったから」
カップを持つ手がかすかに震えていた。
セシリアはそれを隠すように、視線をテーブルへ落とす。
「小さい頃から何でも一人でできるって言われてきたし、弱みを見せるのがすごく嫌だったのよ。
……でも、あの時は“誰かに頼りたい”って、心の底から思った」
私はそっと彼女の手に触れた。
「それは、誰でも同じよ。私だって、兄たちや友達に助けてもらってばかり。
一人で生きていくなんて、そんなの無理だもの」
「そうなのかしら……」
しばしの沈黙が降りる。
カップの中の紅茶が、少しだけ揺れた。
「……それにしても、貴女のこと“王子様みたい”ってみんな言うけれど」
ふいに、セシリアがぽつりと言った。
私は苦笑する。
「私自身は“女の子”でいたいんだけどね。社交界じゃそうは見られないみたい」
「わかるわ。……でも、あの時の貴女は本当に格好良かった。正直、私までドキドキしたのよ」
セシリアがこんな風に素直に褒めてくれることは、珍しい。
私は思わず「ありがとう」と微笑みかける。
「昔から、貴女のそういう真っ直ぐなところ、ちょっとだけ羨ましかったの」
「私が?」
「ええ。私、貴女にだけは負けたくないって、ずっと思ってた。
だけど……助けてもらってから、少し違う気持ちになったの」
「どんな?」
「……なんだか、うまく言えないわ」
セシリアは曖昧なまま、紅茶にそっと口をつけた。
「もし、フィオナが男だったら――」
その言葉はほとんど息のような小さな声だった。
私は思わずセシリアの顔をじっと見つめる。
「え?」
「……なんでもない。忘れて」
「待って。いま、なんて……?」
セシリアは顔を赤らめ、急いで首を振る。
「本当に、何でもないのよ。ただの冗談よ。……変なこと言ってごめんなさい」
けれど、その目は冗談とは思えないほど真剣だった。
「私が男だったら……どうするの?」
自分でも不思議なほど、素直に聞き返してしまう。
セシリアはしばらく俯き、やがて小さな声で言った。
「――きっと、好きになってた」
その瞬間、胸の奥で何かが弾ける音がした気がした。
私の頬まで、一気に熱が上る。
「ごめんなさい、こんなこと……」
「ううん。驚いたけど、嫌な気持ちはしない。むしろ嬉しい」
「……変ね、私たち。いつもは張り合ってばかりなのに」
「そうだね。でも、私もあのとき、セシリアが無事で本当に安心したんだよ」
ふたりとも、なぜか照れくさくなって、それきり黙り込んだ。
外では春の風が庭の花を揺らしている。
応接間の窓から差し込む光は、やわらかく私たちを包んでいた。
しばらくしてセシリアが席を立つ。
「そろそろ、帰らなきゃ。……本当に、今日はありがとう」
「こちらこそ。素敵な紅茶も。……また、遊びに来てね」
「ええ。きっと」
玄関まで送り、見送ったあと私はふっと息を吐いた。
“もし、私が男だったら――”
セシリアの言葉が、何度も心の中で反芻される。
私は女の子で、セシリアも女の子。
でも、こうして「好きになってた」と言ってもらえたことは、少しだけ誇らしく、そして不思議に胸が温かくなった。
「……私が男だったら、どうだったんだろう?」
そんなことを考えながら、私は窓の外の春空を見上げた。
花の香りと紅茶の甘い余韻が、しばらく消えなかった。




