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充芭の姿が完全に消えたのを見届けて、雄斗は次の準備に移る。
「……しばらくぶりだから、忘れてると思ったんだけどなぁ」
雄斗は印を結びながら、驚きを隠せない。
何年もの間、魔祓師から遠ざかっても、一度身につけた術は身体の奥に刻まれ、二度と忘れることはないのだと思い知らされる。
幼き頃、師匠である荘一郎は術の全てを、雄斗に徹底的に伝授した。
それは基礎の護身用のものから、禁忌と言われるものまで。結局のところ、覚えた術はほとんど使わなかったが。
それでも、いつか師匠と同じ蝶を創り出すことを目標にしてたあの頃、術を覚えるのが楽しかった。それなのに、ただ一度感じた恐怖が縛りとなり、できてたことができなくなるなん我ながら情けない。
心に負った傷は、目に見えない。傷が完全に癒えたかどうかもわからない。そんな状態で、再び術を使えるのか不安だったが、今自分は当たり前のように結界を貼り、魔物を封じる陣を描いている。
あの魔物はそうとう強敵だ。全身から濃い魔霧を吐き出しながらも、未だに意思を持ち続けていた。
魔霧に冒されないためには、強靭な精神が必要だ。けれど一旦、魔霧に冒されれば、それは返って仇となる。
強い意志があるゆえに、魔霧を取り込む数が増えてしまい、より凶暴な魔物を生み出してしまうのだ。
魔霧に冒された妖の瞳を思い出し、雄斗は胸が苦しくなる。紅く染まった瞳は、まるで狂いたくないと訴えているようだった。
「助かるかどうかは、それこそ運次第だけど……な」
出来上がった陣を見渡し、雄斗は難しい顔をする。
意気込んで結界を張り、陣を描いたけれど、雄斗は魔物を祓うのではなく、魔霧だけを祓おうとしていた。しかしこの術は、魔霧に侵された妖に相当な苦痛を与えることになる。
しかも難易度が高く、経験を積んだ魔祓師ですら、この術を成功させるのは、かなり低い確率だ。
「ま、なんとかするしかないな」
できないと嘆くような猶予は、もう残されていない。やるしかないのだ。
身体にまとわりつく不安を振り落とそうと、雄斗が武者震いをしたその時、充芭が再び姿を現した。あの、魔物を引き連れて。
「よっし、来やがったな」
雄斗は太刀を抜いて、魔物を誘うために陣の中央に躍り出た。魔物は予想通り、牙をむき襲い掛かる。
魔物の牙が身体に突き刺さる直前で、雄斗はざっと横に飛ぶ。
そして体制を立て直さないまま、片膝を付いた状態で片手で印を結び詠唱する。
「飛翔!」
刹那、陣は紅色に輝き、魔物は苦しそうに雄叫びを上げた。
「頼む……耐えてくれよ」
額の汗を拭いながら、雄斗は祈るような思いで魔物を見つめる。
ここが正念場だ。この術に耐えることができれば、魔物は元の妖に戻ることができるはず。
「なるほど、考えたな。坊や」
充芭は雄斗の策が読めたのか、顎に指を当てながら感心した表情を浮かべる。
「まだ、どうなるかわからない。あと、坊や言うな」
抜かりなく訂正を入れる雄斗だが、その視線は魔物から離れない。
完璧に陣を描いたはずなのに、もうぴしぴしと亀裂が入り始めている。魔物が苦しさに耐え切れず、暴れ出すのは想定していたが、これは予想以上だ。
しかし既に術が発動している今、途中で止めることなどできない。後は時間との戦いだ。
「あと少しなんだ……頼む……!」
雄斗が悲痛な声を上げた瞬間、最悪の結果となってしまった。
ぅがあぁぁぁぁと、断末魔のような魔物の雄たけびと共に、陣は硝子が割れるような甲高い音を立てて砕け散った。
「ちっ、失敗かっ」
思わず舌打ちをしながら、雄斗は呻く。これで、最善の策は流れてしまった。残る策は一つだけ。あの魔物自体を祓うこと。
(……俺が……できるのか?)
惑いが胸に浮き上がるが、もう迷っている暇はない。
「充芭、もう一つ頼まれてくれ」
是という返事はないが、充芭は片眉を持ち上げ、雄斗に続きを促す。要するに、内容によるということだろう。
「俺にもしものことがあったら、この空間を閉じてくれ。お前ならできるだろ?」
低級妖なら、この結界の中では苦痛を感じるはずなのに、充芭はそんな素振りをしないし、好き勝手に動いている。
魔祓師の力を凌駕するほど、妖力が強いかどうかはわからないが、死ぬ気でやればできないことはないはずだ。
そして、結界空間を強制的に閉じてさえくれれば、雄斗諸共魔物は消滅する。
「獣と心中なんて、まっぴらごめんだけどな」
嘘偽りない本音を吐いた雄斗は、両手に太刀を構えると、襲い来る魔物に向かって切っ先を向けた。




