(届いた)訴えと(届かぬ)叫び
マーチ・ヘアの軍人としての本能が、いよいよ警告を鳴らし始める。この男の中には、痛みと常識が存在しない。故に恐怖がない。それでも止めなければ。女王の役に立つため、アリスを守るため、そして……
―「君でなくて、良かった……」
誰より優しい友人を、これ以上傷つけないために。
「その剣を……早く捨てろ! ハッター!!」
「理性の緩み、感情の漏洩だよ」
次の瞬間だった。ハッターの剣の使用を今度こそ止めようと、マーチ・ヘアは僅かながら焦りを伴い再度間合いに入る。それを狙ったかのように繰り出されたカウンターが決まり、黒光りの剣が、マーチ・ヘアの左脇腹を貫いた。
「ぐっ……!」
「大変遺憾とでも言うべきか、才ある命がこの世界から失われてしまうのは」
「…………確かに、遺憾なことだ」
刺さった剣を、両手で固定する。もう二度と、動かせないように。ハッターも引き抜こうと力をかけるが、純粋な力比べではマーチ・ヘアに分があった。
「君は、思慮深く、情け深くもあった……そんな君が、非情な思考に、囚われていること……悔やんでも、悔やみきれない」
自分の偽者がキノコの森に現れたあの日、対処をマッド・ハッターに任せていなければ、こんな状況にはならなかった。ハートキングダムの有事の際、城で待機してしまった。
それは軍司マーチ・ヘアにとっての罪。ならば腹に刺さる黒い剣は、この痛みは、与えられて然るべき罰なのだろう。
「僕は、僕への罰として、君の刃を受けよう……だが、どうか、他の者は裏切るな」
「何を……」
「君には、僕の分まで、情ある者でいて欲しいんだ……。だから、この剣は、ここで捨ててくれ」
育ての親を失ってから女王の元で軍人として生きてきたマーチ・ヘアは、己を律し「非情な軍人」を体現することを自らの使命としていた。
たとえるなら、規範に沿って鍛錬という名のレンガを積み重ね、自らの道を正しく整備しつつ歩くような日常だった。その中で時折、レンガ道の横に広がる草原から声がかかる。「紅茶でもどうだね」と。
彼は茶葉の香りを楽しみながら語る。自分の子供を思うあまりに他の子供を殴ってしまった男の話。病気の母に果物を食べさせたくて盗んでしまった少女の話。幼い頃貧しく苦労した故に泥棒が生業となってしまった青年の話……。それらは等しく、マーチ・ヘアの内にある「何か」をくすぐった。
―「君は温かく慈しみ深い。そんな何でもないことを、君は自分で忘れようとしている。……否、規律というモルタルで懸命に塗り固めんとしているのだろうね」
アールグレイの香りの中、彼は穏やかに微笑んだ。
「もう、戦わないでくれ、ハッター……君の手にあるのは剣でなく、ペンでいい。非情なのは、僕だけでいいんだ」
あらゆる感情と表情を制してきたマーチ・ヘア。その一切の枷が、取り払われていた。全ては今、この瞬間のため。敵として立ちはだかる友人に、行き場のない後悔と自責を、伝えるため。
敵を前にして、頬を伝う滴があることに気付く。情けない、そう思った。未だ自分の腹部に刺さる黒光りの剣を、渾身の力で固定しながら。
「…………理解しかねる」
マッド・ハッターの呟きが、耳に入る。やはり、心にかけられた洗脳の靄の奥底には、届かない。これまで感情を殺してきた自分の言葉など、届くはずがないのだ……――。
「君ほどの実力者ならば、私の刃を受けずとも状況を打破する術はいくらでもあった。そうだろう? ……ウサギ君」
久方ぶりに耳にした呼び名は、マーチ・ヘアの握力を弱めた。顔を上げたその先、紺の帽子の下にあるのは、僅かに潤む瞳。
「すまない……本当に、すまなかった……」
そのちぐはぐな表情が、彼の、マッド・ハッターの心の内を全て示しているのだと分かった。しかし、彼に対してどんな言葉をかけるべきか、マーチ・ヘアもまた、頭の中を整理できずにいた。
「謝罪すべきは、僕の方だ」
ゆっくりと剣を抜き、着ていたベストで止血をする。
「遅くなってすまない。肩と足、痛むだろう」
「大したことはないさ、私が君に与えてしまった痛みに比べれば」
「それこそ、大したことじゃない」
手際よく止血をするマーチ・ヘアの表情は、通常仕様の鉄仮面だった。先ほど昂る感情のままに怒鳴ったのが、嘘だったかのように。
洗脳されていたマッド・ハッターの行為が、それだけ彼の「鋼の理性」と、それを貫かんとする誇り高き姿勢をいたぶってしまったのだろう。しかしハッターは、不謹慎と知りつつ嬉しく思った。「非情」と言われる堅物軍司が、その評価から最もかけ離れた状態になってまで、自分を救ってくれたことが。
「……よもや君に諭される日が来るとは。実に貴重な体験だった」
「ふざけている暇はないが」
「大真面目だよ、ありがとう。……やはり、あの日攫われたのが君でなくて良かった。私の力では、君を取り戻せなんだ」
穏やかに微笑むマッド・ハッターに対し、「君はより早く解決しそうだ」と溜息まじりに返すマーチ・ヘア。一時的な止血処置は終わったらしく、ピンと耳を立てて集音している。
「勇者の元へ?」
「当然だ」
「相変わらず頑丈で結構。私も同行しよう。その身体で無理をされたら、いよいよ女王様に合わせる顔がなくなってしまう」
「それは僕の台詞だ」
もう無理はするな、と言わんばかりに向けられた視線に、「了解しているとも」とハッターは目を細めた。
***
「あ……アーサー王様!?」
腰を抜かしたままのアリスは、目の前に彼がいることが信じられなかった。しかし同時に、胸の中には大きな安心感が湧き起こる。
比べてモルガンの表情に驚きの類は見えなかった。代わりに表れるのは、義理の弟への疑念。
「アーサー……お前、代々伝わるペンドラゴン王家の至宝を、よくも易々と」
「魔法具は魔力保持者が持つべきではない。この聖剣も然りだ」
「黙れ!」
モルガンの怒号に連動するかのように、複数の枝が伸びて「木の槍」としてアーサー王へ迫る。加勢するべきかも、その方法もわからず息を呑むことしかできないアリスの前で、アーサー王は剣を振るった。生きた触手のように動く枝が、次々とその先端を斬られていく。すると、斬られたそれらは魔力を失ったように動きを止め、伸びなくなった。
さながら、剣が木々にかけられた魔力を無効化し、「浄化」しているかのような光景。自らの不利を悟ったのか、モルガンはひとまず剣のリーチに入らないよう距離を取る。
「エクスカリバー……忌々しい剣め」
「聞いてくれ。俺は戦いに来たのではない。和議を申し出に来た」
「和議? ふ、ふふふっ……あははははは!」
アーサー王の言葉に目を丸くした後、彼女は笑った。それはもう、表現し尽せる限りの嘲りをその声色に込めて。
「よもやそのような戯言を聞く日が来るとはな……随分と笑わせてくれる。14年前、私を追放したのは他でもない、お前だったのを忘れたか!」
「違うのモルガン、それはっ……!」
「下がっていろアリス!」
アーサー王が斬った以外の枝がしなる鞭のように伸び、矢継ぎ早に襲いかかる。前のめりになったアリスを一声で抑え、再び聖剣で応戦するアーサー王。
怒りを顕わにするモルガンに対し、アリスは何とかして伝えたいと思った。ヴァンから聞いた「昔話」――先代キャメロット国王が「魔女狩り」の計画を立てていたこと、幼かったアーサーがそれを防ごうとしたこと。
だが今、こんな状況で語りかけて、果たして伝わるのだろうか。「作り話だ」と一蹴されてしまえば、それまでのような気もする。
枝を斬り裁いていきながら、アーサーは答えた。
「忘れるものか。あの頃の俺は臆病で、間違っていた……」
「分かっているならそこを退け。魔法石を我が手に収め、アヴァロンを最良の国家として知らしめよう」
「悪いが聞けない」
命令口調で放たれるモルガンの一言一言は重く、膨れ上がった憎悪をぶつけられる感覚になる。それはアリスだけでなく、アーサー王もまた。逆らう返答はしていたが、否定はしない。アヴァロンの刃はモルガンの怒りと痛み。そしてそれを受け止めるのは、幼い頃、彼女を守れなかった罪に対する罰だとでも言うように。
そんな彼の思いは汲み取れたが、それでもアリスには、このまま庇われているだけでいられなかった。モルガンの操る枝が、いよいよ全方位からアーサー王を襲撃しようとするのが見える。さすがの彼でも、背後からの枝まで同時に対処するのは物理的に不可能だ……次の瞬間、アリスは立ち上がっていた。
「あっ、アーサー様っ!」
役に立ちたい、助けたい……そんな気持ちが働く。けれどそんな「プラスの感情」だけでは、マレフィセントの涙は反応してくれないだろう。絶望的だと思ったアリスの予想に反し、胸元から眩い光が発せられた。




