(諦めた)指示と(消せない)信念
―「君の忠誠は些か危険だ」
悪意に満ちたサーヴの笑みを前に、マーチ・ヘアの脳裏にある日の会話が蘇る。
アヴァロンが建国されて間もない頃、まだ明確な戦争の兆しなどなかった昼下がり。ハートキングダムにて、財務官であるマッド・ハッターとチェスに興じていた。普段は紅茶の銘柄やそれに合う焼き菓子について語る彼が、珍しく突拍子もない話を振ってきたのだ。
―「唐突過ぎる。意味が分からないが」
―「これは失敬、ふと思い至ったものでね。例えば私はこの国の帳簿をつけているわけだが、仮に不正を働いていたら君はどうするかね?」
―「答えるまでもない」
―「うむ。それではもし……あり得ない想定ではあるのだが、不正な帳簿を付けさせられていたとしたら?」
―「ハッター、お前は女王様を……」
―「ウサギ君、私の注釈は聞こえなかったのかね。勿論、我らが女王様に限ってそのような指示は断じてなされない。仮にそのような事態が起きた時、君は間違いなく私を罰するだろうと思ったのだが、どうだろう」
―「……万に一つもあり得ないが、そのような悪事を働くよう命令された時点で、主の間違いを正そうとせず安直に従った君の罪は大きい」
ルークでチェックをかけながら、マーチ・ヘアは答える。マッド・ハッターはその回答を予測していたのか、「結構」と満足げに頷き、ビショップでルークを取った。
―「さて問題はその先だ。私が悪事を働かされた場合に君は私を罰する。ではもし君が、悪事を働くよう命令されてしまったら?」
挑戦的なマッド・ハッターの瞳を一瞥し、マーチ・ヘアは溜息を一つ。彼のナイトがマッド・ハッターのビショップを取る。
―「それこそ、答えるまでもないだろう。僕は可能な限り、指示された段階でお考えを正そうと努める。が、叶わないならば罰せられるほかない」
―「やはり危うい。我々は国家の両翼を担ってはいるが、国家は『個人』ではない。両翼は必ずしも相反するものではないのだよ」
―「君のその価値観は、感情が伴う業務を担っている影響だ。だがどのような理由であれ、僕が間違いを犯した時は、真っ先に僕を罰するべきだ。ハッター、君は僕に対しては、非情でいてくれていい」
軍司になるよりもっと前、軍人として戦って生きることを決めたその日から、マーチ・ヘアの行動理念は規律に基づいていた。
一方マッド・ハッターは司法のトップとして国民の感情に触れることも多く、しばし感情的判断を求められる場面もあった。それが裁判官としての彼の役割と知りながら、マーチ・ヘアは「非情でいてくれていい」と告げておいたのだ。
「ハッターはてめぇとの約束を捨ててたぜ。『無理だ』っつってなぁ! どんな約束かは知らねぇが、破られちまったワケだ! んで、今も同じだろ? 傍を離れるなっつーお前の指示を、依頼を、勇者のガキは守らなかった! ざまぁねぇ!」
「……無理だ、と、言ったのか」
「あー?」
「まったく……ハッターらしい」
意図していなかったマーチ・ヘアの強い視線が癇に障ったようで、サーヴはやや眉間に皺を寄せる。首と肩をゴキッと鳴らし、体勢を低くした。
「ムカつくなぁ……そーゆー一発逆転狙ってる顔」
「そんなものは狙わない。お前の相手はあくまで、伯爵に務めてもらうつもりだ」
「ドラキュラ? ハッ、残念ながら今のヤツは雑兵にも及ばねぇポンコツだ。さっき一目見て分かったぜ。アイツ最近、一番必要なもん食ってねぇだろ」
***
ランスロットやマーチ・ヘアほどではないが、アリスはブナ林の中、ユフィをうまく操れていた。再びマーチ・ヘアの元に戻れるように、ほぼ一直線に駆けていく。と、アリスの前に2匹のコウモリが現れる。それらを追って林の奥へ進んだアリスは、伯爵とリトル・ジョンとの合流を果たした。
「伯爵! ジョンさん!」
リトル・ジョンの方は左肩に怪我をしており、聞けば、白い霧の中でロビン・フッドの影を追ったところ、ボウガンの罠が張られている箇所に誘導されたとのこと。しかもそこから、肝心のロビン・フッドは気配ごと消えてしまったという。
「アリス嬢、無事で何より……おや、マーチ・ヘア君は?」
「それが……」
人狼サーヴの変身能力のことを話す。伯爵は彼の力について知っていたようで、リトル・ジョンの傷の手当てをしながら言った。
「サーヴ・グレンドンとは腐れ縁でね……。条件はいくつかあるが、基本的に対象の毛髪が手に入ればその人物の姿に変身できる。マレフィセントの系統に属する魔力保持者なのさ」
「えっ、『涙』と同じ系統……?」
「じゃあ最初から、ロビンはココにいなかったってワケ?」
「恐らくそうだ。元々この辺りにはロビン・フッドが仕掛けた数々の罠があった。それらを使いながら我々を攪乱し、分断するのが目的だったのだろう」
伯爵を昔から知っているというサーヴは、ヴァンパイアの特性――即ち反響音の解析が障害物の多い場所で機能しづらいこと――を熟知していたようだ。
「今、マーチさんが1人で戦ってるんです。私は判別できなくて……だから、早く行って、本物のマーチさんに加勢しないと……!」
「確かに、暴れ狼の相手は勤勉なウサギ君の手に余ってしまうね」
手当てを終えた伯爵は、バサッと黒い翼を広げる。僅かだが数箇所に亀裂があり、彼も何らかの罠でダメージを受けたのだと想像できる。
「ジョンさん、一緒にユフィに乗って」
「は? こんぐらい何とも」
「本当にロビン・フッドが現れた時のために、ちょっとでも体力温存しておかなくちゃ」
体の大きなリトル・ジョンが乗っても、ユフィは動じずこれまで通り進み始める。感心したアリスはそっと首筋あたりを撫でてあげた。
***
開きかけた傷口を気にしつつ、マーチ・ヘアはサーヴの攻撃を防ぎ続けていた。尋常ではない脚力によって予測不能な動きをするサーヴに対し、霧で視界が利きづらい分だけ聴覚への意識を高め、その爪と牙を防ぐのが精一杯。背中の痛みもあって反撃する余裕が正直なかったのである。
「そんな守備、じき崩れるぜ? 勇者に見捨てられた時点で、てめぇは終いだったんだよ」
「……勘違いも甚だしいな」
勝機があると疑わないマーチ・ヘアの姿勢に、サーヴは不快感を顕わにする。
「一つ訂正してやる。僕の言葉は届かなかったんじゃない。受け入れられなかっただけだ」
「くっははは! なおさらひでぇ! 負け惜しみにもなってねぇぞ!」
「なぜなら……ハッターもアリス殿も、僕の意思を汲んだ上で、僕が諦めるべきとしたことを諦めまいとしたからだ」
「んだそりゃ? ワケわかんねぇんだよ堅物ウサギ!!」
叫びながら振り下ろされたサーヴの右爪は、短剣を吹っ飛ばす。間髪入れずにマーチ・ヘアを切り裂こうとしたサーヴの左爪は、「別の人物」を切り裂いた。
「どうやら……間に合ったみたいだね」
「てめぇ……!」
咄嗟に2ステップ下がったサーヴの視界には、白い霧の中でも目立つ、黒いマントがなびいていた。そして、たった今彼の爪がつけた傷は、じわじわと緩やかに消えていく。
「手間をかけた、すまない伯爵、礼を言う」
「大したことはない。私もそろそろヴァンパイアとして暴れたいと思っていたところさ」
穏やかな笑みこそ見せていたものの、その姿は変化し始めていた。ブルーグレーの瞳は黒く染まり始め、牙も鋭く伸びていく。対するサーヴは極上の獲物を見つけたかのように、舌なめずりを一つして、口角をあげた。
「会えて嬉しいぜ、ドラキュラ……。カーミラの分まで、いたぶってやるよ」




