優しさの理由 ―生かされた吸血鬼―
ドキドキしながらも視線を逸らせないままのアリスに対して、伯爵は愛おしそうな表情に影を落としていく。やがてそれが哀しみの色に染まり、彼はついにアリスの頬から左の掌を下ろした。
「カーミラの系譜にあるヴァンパイアの力を最も引き出すことができるのは……若い女性の血なんだよ。だから私が本能的に『力の解放』を望んだ時、真っ先にこの牙が向けられるのは、君になる」
バルコニーの柵に寄りかかり、遠くを見つめる伯爵。アリスは俯きながら、情報を整理した。ヴァンパイアが好む血は基本的に「強い者の血」。しかしカーミラの系譜である伯爵が一番好むのは……
「陛下のご命令とは言え、ヴァンは私を起こす前に渋っただろう? 勇者という女性の命に関わるからだ。事実私は、今この瞬間も、君の香りの中に美味しそうな極上の血の香りを感じるよ」
少しは怖くなったかな、と眉を下げる伯爵に、アリスは数秒沈黙した。
「……私が怖がれば、満足ですか」
次の瞬間、アリスが伯爵に向けた視線は、とても強いもので。
「私が仲間として信じることは、伯爵にとって不都合ですか?」
「…………参ったな」
溜息と苦笑を零した伯爵は、突然アリスを抱きしめ、その肩に頭を寄せた。一方のアリスはというと、再びやってきた「少女漫画的体勢」にいよいよパニックに陥る。
男性として意識してしまうのと同時に、たった今聞かされたように血を吸われてしまうのかと、僅かな恐怖も過った。
「は、伯爵っ!? わ、私やっぱり気に障ることを……!」
「ああ、参った。君には恐れ入ったよ、アリス嬢」
「へっ?」
「あまり、強く気高く振る舞わないでくれ……。今の君は、美味しそうでたまならい……」
首には彼の髪が触れ、耳には吐息まで聞こえる。伯爵にとって「美味しそう」なのは間違いなくアリスの血なのだろうが、そうと分かっていても、高鳴る鼓動は収まらない。
「もっと、触れたくなってしまう」
「やっ……」
「また少し温度が上がった……いい香りだ」
脳内だけで理性が抵抗する。
そんな風に言わないで欲しい。(本当は察知して欲しくもないけど一万歩ぐらい譲って)感じ取ってもいいから、口には出さないで欲しい。言葉を聞いているだけで、恥ずかしくて心臓が破裂してしまう。
このままでは冗談抜きで、血を吸われてしまうんじゃないか。逃げようにも、背が高く手足の長い彼の抱擁から逃げる隙間なんて見つからない。
伯爵の歯が牙のように伸びて自分の首筋に立てられる……その痛みを想像して、アリスはドキドキしながらも体を震わせた。
「すまない、やはり怖いだろう……私も、怖いのさ」
満足感に溢れていた伯爵の声色が暗くなり、アリスもパニック状態から徐々に落ち着いてきた。依然抱きしめられてはいたものの、それが縋るような抱擁に感じられたのだ。
「伯爵……?」
「ヒトの血など吸いたくないんだ……まして、愛らしい女性に噛みつきなどすれば、場合によっては一生残る恐怖を与えてしまう……私は、化け物だからね」
落ち着き始めた頭で、アリスは考える。自らを「化け物だ」と断言する人の気持ち。吸いたくないのに欲してしまうジレンマ。
伯爵は、生まれた時からヴァンパイアだったのだろうか。もし、何かのキッカケでヴァンパイアに「なって」しまったのだとしたら……
「伯爵は、紳士です。初めて会った時から」
今だってそうだ。彼は血を求める本能を抑え込むように、ただ、アリスを抱きしめている。血を吸われる恐怖から、守ろうとしてくれている。
「私、信じます。それが伯爵の望みじゃなくても」
「アリス嬢……君は、」
「だから、力を貸してください。お願いします」
腕を解いた伯爵を前に、アリスは頭を下げる。その言葉は、伯爵の「忘れがたい記憶」にリンクした。
***
8年前。湖が夕焼けを反射する、美しい森の中。
「何故だ!!」
声を荒げるルゥ・ドラキュラに少しも動じず、藍色の髪の少年――当時まだ15歳のヴァン・ヘルシング――は、微笑んで返した。
「そんなに怒らなくても……大丈夫、両親は説得済みだ」
「そういうことを言っているんじゃない! 私が聞いているのは……」
「どうして騎士にならなかったか、ってことかい? まぁ元々剣も弓も槍もさほど得意じゃなかったしね。いいじゃないか、君もならないんだろう?」
「私は……もう、なれるわけがないだろう……いや、私のことは関係ない! ヴァン、お前には才がある! 国王陛下もご存知のはずだ。どんな理由があれ、名門ヘルシング家の長男が騎士にならないなど……とにかく、考え直せ」
「名門ドラキュラ家を背負ってる君がよく言うよ」
ヴァンの切り返しにルゥが言葉を詰まらせると、辺りには鳥のさえずりのみが響く。
この時すでに、ルゥの身体は「ヴァンパイアの力」に侵食されていた。生き物の血を定期的に摂取しなければならず、それを絶とうものなら本能により「若い女性の血」を求めてしまう体質となっていた。勿論、自ら望んでこうなったのではない。が、自ら進んだ結果としてこうなったことは確かだった。
人を襲ってしまうことを恐れ、人に恐れられることを恐れた彼は、唯一無二の旧友であるヴァンに頼んだ。騎士となって化け物を殺し、棺桶ごと地中に埋めてくれ、と。しかし、その最後の望みは瞬く間に跳ね除けられたのだ。
「知ってるかい? ルゥ・ドラキュラって言ったら、今やワラキアでは英雄扱い。『伯爵』って呼ばれてるんだってさ。その君を討伐とか埋葬とかしてごらんよ、あの地方全域が発狂しながら私に剣を向ける」
「騎士になれば、そんな反感は抑えられるだろう……頼むから、辞退などするな……私の分まで、ヴァン、お前には……」
「生憎、そういう青臭いのは性に合わないんで。見てよ、騎士になる代わりにコレ、陛下から賜ったんだ」
柔和な雰囲気は一切崩さず、ヴァンは内ポケットから懐中時計を取り出した。金でできたその背面には、十字を象った紋章。
「明日から私は、王宮専属医です!」
「なっ……医者!? お前、一体いつそんな勉強……」
「はは、いいでしょう? 町医者と違って割と暇らしいんでね。だから……自分のやりたい研究に、好きなだけ没頭できる」
懐中時計を握るヴァンの表情の変化を、ルゥは見逃さなかった。覚悟を湛えた瞳を前にして、ようやく行き着く。ドラキュラ家と同じく騎士の名門・ヘルシング家に生まれたヴァンが、自ら「円卓の騎士」となる道を辞退した理由に。
「一連の騒ぎの末端に、ヘルシング家の落ち度もあった。それは事実だ」
「誰も、そうは思っていない」
拳を固く握りながら返すルゥに、「君はどこまでも人格者だね」とヴァンは背伸びをした。
「まぁ医学を極めたらさ、色んな生物のことが分かるだろ? 君の悩みも解決できるかもしれない。君が納得しなくても私はそう信じる。……ってことで早速、実験と研究したいから力を貸して下さい。あ、何か不都合あります?」
***
「私にできることがあれば、何でも言ってくれていい」
伯爵がそう言うと、アリスはバッと顔を上げた。期待に満ち溢れるその瞳を前に、伯爵は穏やかに微笑み手を伸ばす。
「君は、私が思っていたよりもずっと素晴らしい勇者なのだな」
「そ、そう、なんでしょうか……わ、分かりませんが……」
頭を撫でられて照れるアリス。伯爵が逐一触れるのは、自分の血が美味しそうだからなのだろうか……と、強制的に理由づけをする。
「何でも協力する代わりに、私から一つ、頼んでもいいだろうか」
「え? えっと、私にできることなら……」
戸惑うアリスの頭を撫でるのをやめ、伯爵はスッと片膝をついた。そっとアリスの右手を取り、まるで外国人のプロポーズのように見上げる。
「君の役目が全て終わった後でいい。アリス嬢、君の血を……少し飲ませてはくれないだろうか」
「へっ?」
「少しだけ……舐めるだけでも構わない。それほど君が……欲しくなった」
アリスにもやっと分かってきた。ドラキュラ伯爵は、天然タラシなのだと。それでも、把握できていても……心臓がきちんと冷静でいられるかどうかは別の話だ。
今の(冒険ファンタジーでは決して使われるべきでない)台詞は、「君が」ではなく「君の血が」という意味のはずだ。そうだ、違いない。むしろ自分が聞き漏らしたに決まってる。じゃなきゃ公開プロポーズ同然だ。
ただのそよ風がこんなに涼しく感じられるのは、そのくらい自分の表面温度が上がっているから。視線を逸らして、深呼吸とは言い難い吸って吐いてを1回ずつ。
「ひ、貧血に、ならない程度、でしたら……」
そっと窺った伯爵の表情は、まさに恍惚という熟語そのものだった。
「ありがとう、アリス嬢。さて、私は君に、何をすればいいだろうか」
立ち上がった伯爵の問いかけで、アリスはハッと本題を思い出す。
「送信役のコウモリを1匹、ジョンさんの所に配置しておくことってできますか? 今後、彼が何か教えてくれるようになったら、私だけじゃなくて皆で共有しておくべきだと思って」
そもそもリトル・ジョンがシャーウッドの盗賊仲間について情報を口にするかどうか、という段階だが、もし話してくれるようになった時、アリスはその全てを記憶できるか不安だった。
「なるほど、容易いことだ。向かわせておこう」
「ありがとうございます!」




