旅立ちの朝 ―施し―
***
翌朝、アリスに用意された客室の扉が小さくノックされた。
「んー……」
コンコン、コンコン、と規則的なノックの音に、だんだんとアリスの意識は起こされていく。長く大きく背伸びをしてから、寝ぼけ眼をそのままに起き上がり、ややふらつく足でドアのぶに手をかけ内側に引いた。
「おはようございまふ……」
「睡眠不足?」
「あ、ルーカン君……おはよう」
ドアの外にちょこんと立っていたのは、年下の給仕長だった。大丈夫だよ、と微笑んだアリスは、ふと思い出す。
「そうだ、私見たよ、収穫祭の花火。ルーカン君が当日まで用意してたのって、アレだったんでしょ?」
ルーカンは少し目を丸くして小さく頷く。
「とっても綺麗だった。大変だったんじゃない? 花火って、打ち上げ場所決めるのとか結構難しいって聞いたことあるよ」
「角度の測量と規模の想定、職人に依頼」
「そっか、職人さんが協力してくれたんだね。でも、ルーカン君には感謝しなくちゃ。おかげで私、大切なことに気付けたと思う」
怪訝な表情で首を傾げるルーカンに、アリスは「ありがとう」と告げる。(あくまで推測だが)とんでもない、という意思表示でゆっくり首を振ったルーカンは、「今日、出立?」と返した。
「そうなの。でもヴァンさんに『朝ごはんは食べていってください』って言われてて」
「神の加護、願う」
「え?」
「石碑の伝説、多難」
そうなんだ……とアリスは小さく返す。以前チェシャ猫が言っていた通り、「勇者アリス」の伝説について記されている石碑は現在キャメロットの管理下にあるようだ。
「ちなみに石碑って、何枚くらい見つかってるの?」
「4枚」
少なくともこの世界には「勇者アリス」を名乗る者が4回訪れたということになる。4回とも困難を極めた冒険だったのならば、5回目を務める自分にも更なる危険や壁が待っているかも知れない。
「不安?」
「ううん、もう大丈夫。だいぶ覚悟は固まってきたし……さっきルーカン君、祈ってくれたから。ありがとう。私、頑張るね」
「せめて全ての人員が合流するまでは控えめに頑張って欲しいところだけどね」
横槍を入れてきた声に振り向くと、廊下の壁に寄りかかって欠伸をするチェシャ猫の姿。アリスとルーカンのやり取りを耳にして、隣の部屋から出てきたようだ。
「睡眠不足?」
「俺のは割と恒常的なものだから特に問題ないよ、給仕長サマ」
「控えめにってどういう意味よ」
「言葉通りだよ。残る人員はリスティスにいるんだ、そこに着くまでにアリスちゃんが頑張りすぎて、その結果早々に討死でもしてごらんよ。この世界はたちまちモルガンのモノさ。それにまぁ、俺もこれ以上寿命を削られるのは御免こうむりたいからねぇ」
ふぁ、と再び大きな欠伸をしてからチェシャ猫は「じゃあお先に」と食堂へ向かう。嫌味を混ぜないと忠告一つまともにできないのか、と、ムッとしながらその背を見送るアリス。一方ルーカンは不思議そうに「天邪鬼」と呟いた。
***
ハートキングダムを出た日のように、王宮の使用人たちがアリス御一行の出立準備をしてくれた。アリスも改めて女王にもらった肩掛けポシェットの中身を確認する。次なる目的地はキャメロット最北端の街・リスティス。そこに、アーサー王が「アリスに同行させたい」と推す人物がいる。
「アリス殿、準備は」
「完了です! 今行きます!」
部屋の前まで呼びに来たマーチ・ヘアに答え、チェシャ猫の待つ大広間へ。と、そこにアーサー王とガヴェインがやって来る。
「待たせたなアリス、先ほど外に馬を用意した。乗っていけ」
「えっ、そ、そんなお気遣いなく……!」
「遠慮しねぇで乗ってけ。ユフィって結構タフな馬だぜ、聞きわけもいい」
「さすが王サマ、太っ腹だねぇ」
「お心遣い、感謝します」
お気楽に喜ぶチェシャ猫と、一礼するマーチ・ヘアを見て、アリスも「本当にありがとうございます」と頭を下げた。
「それと……アリス、少し上を向け」
「え? あ、はい」
正面に立ったアーサー王の言う通りに、斜め上に視線をセットするアリス。と、不意に彼の両手がアリスの首後ろに回される。
「あっ、あの……!」
「じっとしていろ」
「はい……」
何の前触れもなく唐突に縮まった距離に、緊張どころの話ではなかった。気品ある香りと整った顔に否応なく心拍数が上昇してしまう。
抱擁にも似たその体勢から元の距離感に戻った時、アリスはふと首にかかる重みがほんの少しだけ増しているのに気付いた。見れば、胸元に輝く「マレフィセントの涙」の少し上、鎖骨の少し下辺りに揺れるアクセサリー。
「これって……?」
「我がペンドラゴン王家に代々伝わる魔法具で、『クラウ・ソラス』という。石碑の勇者が現れた暁には、渡そうと決めていた」
「何で、そんな大切な物……私、魔法も何も使えないですし……」
「石碑に描かれた勇者像には、剣を握る姿もある。無論、お前がかつての勇者たちと同様剣を握ることが決まっているというのではない。むしろ、お前には必要ないのかも知れないが」
目を細めるアーサー王。アリスは付けられた魔法具の形状を指で触れて確認する。確かに、剣を思わせる十字型だ。
「俺の自己満足だ、持って行け。それに、魔法具というのは魔力保持者が使用するものではない。以前、マーリンがそう言っていた」
「マーリンさんが……。分かりました。お借りします、アーサー王様」
剣型のペンダントをキュッと握り、アリスは答えた。
「ところで、ヴァンとルゥはまだか」
「はいはいお待たせしました」
「遅れてしまったな、申し訳ない」
アーサー王が振り向いた途端に開く広間の扉。何やら物騒なもの――ボウガンのような武器――を持った白衣のヴァンと、反対に黒いマントに包んだ身一つの伯爵が入って来た。
「こちらは色々面倒な準備がありまして。ウサギさん、コレを預けます」
持っていた(物騒な)物を差し出すヴァンに、マーチ・ヘアは「これは何か」と視線で尋ねる。ヴァンもその疑問を察したようで、いつもの柔和な笑みで続けた。
「麻酔銃を改造した物でして。用途はたった一つ、先の戦いで見たかと思うのですが、ルゥが理性を失った時にバーンと一発当てて欲しいんです。装填できるのはこの注射器のような弾だけ。中には『ヴァンパイアの力』を抑制する薬が入ってます」
「なるほど。承知した」
「危ないと思ったら遠慮なく撃っちゃっていいですよ。このお人好し伯爵は、頑張ろうと思うとすぐヴァンパイアの力を最大限に発揮してしまうんで」
「セーブはするさ」
「どうだかね」
伯爵に対して(口角は上げたままだったが)眉を下げて返したヴァンは、思い出したようにアリスの方を向く。
「そうだ、アリスさん、一生懸命なのは貴女の長所ですが、くれぐれも無理はなさらないように。私はここで失礼します、ランスロットを診てなくては……」
ダンッ
「安静! 遵守!」
「放しやがれガキ、俺自身が治ったと思ってんだから大丈夫なんだよ」
突如響いた大きな音。全員が振り向いた先、大広間の入り口近くの壁に寄りかかって立つランスロットの姿と、必死にその左腕を掴んで引っ張るルーカンの姿があった。どうやら昨日マーチ・ヘアやチェシャ猫と斬り合いをした際に多少彼も傷を負ったようで、ところどころに(包帯など)手当の形跡が見られる。反射的に肩を震わせるアリスの前で、ヴァンが「やれやれ……」と呆れ微笑した。
「ランス、感覚鈍い!」
「うるせぇ堅物」
「医務室戻る! 命令!」
「治ったっつってんだろ、引っ張んじゃねぇ」
「騒がしいぞお前達、何しに来た。勇者の出立に水を差すな」
「その勇者に会いに来たんだよ」
アーサー王に対するランスロットの返答に、警戒心を強めたマーチ・ヘアがアリスの前にサッと立つ。一方でチェシャ猫が「モルガンの魔力は消えてるっぽいけどねぇ」と訝しげに一言。場が途端にピリピリとした緊張感に包まれ、アリスは自分を落ち着かせようと手を組む。
「心配ない、アリス嬢。マーチ・ヘア君、警戒の必要もないさ」
ヴァンと同じく柔和な雰囲気で、伯爵が言う。
「洗脳から完全に解放された今、彼は平常時のように動けまい。皮肉なものだが」
「そうですね。精神を侵されている間、飲まず食わずだったようですし。人間の基本的欲求をも凌駕する形で操られていたのでしょう」
「違ぇよ、アヴァロンの城を出てからだ」
伯爵とヴァンの話、そしてランスロットの返答を聞き、ようやくアリスは理解した。「放せ」と言いながらランスロットがルーカンを振り払わない理由、ルーカンが絶対安静を叫んで主張する理由、彼が未だ壁に寄りかかるように立っている理由を。