2章 黒の男爵 1話 恩人
フロースは目を開けた。
そして自分が、石造りの部屋の中にあるベッドに横たわっているのに気付く。
毛布はなく、体は冷え切っていた。
天上近くの小さな窓から、朝らしい光が落ちてきて壁を照らしている。
朝ということは、一日中寝ていたことになる。
突然、フロースは手を伸ばし、自分の下着に触る。
そして、「大丈夫だ」と思った。
「自分は、犯されていない」
フロースは、起き上がると自分の服と髪を整え、ポケットの中に手を入れてラーウスの紙を握る。
「まだここにある」と思った。
それから、長い時間が経ったのだけれど、誰も来ない。
もう昼過ぎなのではと思う。
ドアには鍵がかかっているし、部屋にはベッドと便器が置かれているだけで、まるで独房のようだ。
いや、まだ独房なら、食べる物ぐらい貰えるはずだ。
それなのに、飲み水さえない。
音も聞こえないし、天井近くに窓はあっても空が見えないので、地下室なのかもしれないと思う。
フロースは、男たちを襲った犬たちのことを思い出した。
あれは恐ろしい光景だったと身震いする。
それから、貧民街にいる病人たちのことを考える。
カミラも、急に自分がいなくなったので、心配しているに違いない。
じっとしていると寒さを感じるので、膝を抱えて体をまるくする。
フロースは、また自分は一人ぼっちになってしまったのだろうかと思った。
突然、石の廊下を歩く足音がしてドアが開いた。
そのドアの開く大きな音に、フロースは驚いて飛び上がり、自分がうとうとしていたらしいと思った。
睡眠薬のようなものを嗅がされ、まだ頭がはっきりしていなかったのだ。
そして、目の前に、あの黒い二匹の犬たちがいるのを見て驚き、凍ったように動かなくなる。
「ラリー、デュー、座れ」と声がした。
フロースは、その声のする方を見る。
すると、そこには、三十歳前後の男が立っていた。
髪は黒く、はっきりとした顔つきで、一度見たら忘れられない様相をしている。
白のシャツに、黒のスーツを着ているので、フロースは、彼がカミラの言った黒の男爵だと思った。
「驚かせてしまったようだな」と彼は、静かに言った。
フロースは黙っている。
彼女は、こんな所に閉じ込められ、犬に脅され、そしてこの男の態度に戸惑っている。
座った犬たちは、何も動かないので横になった。
長い沈黙の末、彼は再び口を開く。
「こんな所に閉じ込めて、すまなかったとは思っている。
わたしも、この騒動を聞いて、急いでエスペビオスへ戻ったばかりでね」
それに対しフロースは、
「黒の男爵のお招きは、こんなに無作法だったのですか?」と皮肉を込めて言った。
彼は口元をゆるめると、フロースの手を取り、その手にキスをして敬意を示すように挨拶をし、
「わたしは、プレオベール男爵フィニアス。無礼は許してもらいたい」と言って彼女を見た。
だがその目は笑っていない。
「どうやら誤解があったようだな」と、背筋を伸ばした彼は、開き直るように言った。
「わたしは、あんたを招いていないし、あんたがここにいるのすら驚いているくらいだ。
大体わたしは、御婦人を、こんな所に招くような無粋なことをしたことがない。
それに、ほら、ご覧の通り、わたしは犬たちの後ろに隠れるような小心者でね。
歯をむき出して噛むかもしれない雌ひょうに慄いているのだよ」
フロースは、それは自分が、お頭の手を噛んだことを言っているのかもしれないと思った。
それにしても彼の態度はどういうことだろうと思う。
彼女は、その礼を尽くしているようで馬鹿にした態度に、どう返事して良いのか分からない。
それで、「騙されませんよ。これは、あなたが仕組んだことなのでしょう?」と答える。
すると、彼は驚いたように言った。
「これは驚いた。わたしは、あなたを助けた、言わば恩人だと思ったんだがね」
フロースは、「恩人」と聞いて、ますます何のことだか分からなくなる。
彼が恩人なのだとしたら、何故自分は、こんな所に閉じ込められているのだろう。
こんな扱いを受けて、助けられたとは思えないし、感謝したいという気持ちになれるはずもない。
彼は、自分に何を望んでいるのだろうと考えても分からない。
「あなたは、この騒動を聞いたばかりだとおっしゃったのではありませんか?
あなたの言っていることの意味が分かりません。
わたしは、あなたに呼ばれたと聞いて出かけ、さらわれたのです」
「そう!」と彼は言って、手をパンッと一つ叩いた。
その大きな音に、フロースはびくっとする。
「わたしの使いだと言ったあの男が、あんたをおびき寄せ、誰かに売り飛ばすつもりだったらしい。
まあ、そんな誘いに、まんまと引っかかったあんたもどうかと思うが、世間知らずなのは仕方がない。
カミラがそのことに気付いて、知らせに来てくれたんだか、あいにく、わたしは所用で出かけていてね。
うちのものが、何とかあんたを助けたんだが、それからどうするのか、わたしの判断を待つことにして、今のこの状況に至っているという訳だ」
それを聞いたフロースは、あんな男に付いて行った自分は、浅はかだったとすでに恥じていたので、
「確かに、それはわたしの落ち度でした」と自分の非を認める。
それを聞いた男爵はフロースを見ながら、しばらくの間、黙っていた。
その沈黙に耐えられなくなったフロースは、「とにかく」と切り出す。
「あなたが助けてくださったのであれば感謝します。
カミラは心配しているでしょうし、わたしを帰してください」と言った。
「どこに帰りたいのかな?」と男爵は聞く。
それは、ディフォーレスト家なのか、それても貧民街なのかと言う意味だ。
フロースは、彼が自分をからかっているような、のらりくらりとした彼の言い方にイライラしながら、
「もちろん、病人たちの所です!」と言った。
「それは無理だね」と男爵は答える。
フロースは、「どういう意味です? あなたはわたしを帰さないつもりですか?」と聞く。
男爵は、首を振りながら、
「あんたのいた、あの貧民街はもう無くなってしまったからだ」と答えた。
フロースは驚く。
「あそこが無くなったってどう言うことです? カミラは? みんなは?」
彼女は、彼が自分をからかっているのだと思った。
あそこには、たくさんの人が住んでいて、かなり広い場所だ。
たった一日で無くなるなんてありえ無い。
男爵は、あざけるような仕方でゆっくりと答える。
「わたしは、あんたの愚かさで、あの場所が無くなったのを怒っているんだ」
驚いたフロースは、男爵を見て、「あなたは何を言っているの!?」と声を上げる。
「あなたは、わたしに嘘をついてるんだわ!」
すると男爵は、怒りを声に滲ませる。
「あんた、自分のしたことが分かってないようだな!」
「わたしは、あそこで病人の世話をしていました!」
それに対し、男爵は笑って答える。
「それで、いい気になっていたんだ。白い天使さんよ」
フロースは、その声の調子に憤慨し、彼をにらんだ。
「では教えてやろう」と彼は言った。
「カミラは、いずれはあんたを逃がすつもりでいた。
まあ、それが出来るかどうかは別として、少なくとも、あんたは大人しくそれに従ってたら良かったんだ。
ところが、あそこから出て、しかも警備カメラに自分の顔をさらすなんてことをした。
オーデン伯爵夫人フロース・ディフォーレスト、あんたの顔をだ」
それを聞いたフロースは、全身が震える気がした。
そう呼ばれたのは数ヶ月ぶりだ。
そして、自分が、その名前に嫌悪感を抱いているのにも気付いたのだった。




