7話 後悔
フロースは、急な石の階段を登っていった。
高台にあるエルナトの霧は、風が吹き始めると塊になって動き出す。
それは雲のようで、イベリスから逃れるように雲の中を通り抜け、自分の世界へ戻ろうとする。
岩のテラスは、すべての物がしっとりと濡れていた。
起きている者がいるらしく、どこかでコトンコトンと音がする。
フロースがテントに戻るとアリアはまだ眠っていて、フロースはその隣に潜り込み、毛布をたぐり寄せて目を瞑る。
そして両腕を交差させ、二の腕を掴んだ。イベリスの感触がまだ残っていて、胸が高鳴り、苦しくなる。
もう眠れそうにもないと思ったのに、外の小さな音が、湿り気のある匂いと共にテントを包むようで、いつのまにか眠ってしまい、次に目が覚めた時は、辺りは眩しいほど明るくなっていた。
フロースがテントの外に出ると、アリアが彼女に気付いて言った。
「フロース! やっと起きたのね。霧が晴れて、とても綺麗よ!」
フロースは、ぎこちなく笑ってみせる。
岩のテラスから見える朝のエルナトの景色は、昨日の午後の景色とはかなり違っていた。
霧が陽の熱で消えると、水分をたっぷり含んだ緑は鮮やかで、空は白みがかった青になる。
そして色は徐々に変化し、昼の褪せた色へと変わっていく。
スピルが朝食の準備をしており、イベリスもそれを手伝っていた。
フロースは、イベリスの胸に、あの首から下げていた緑色の石がないのに気付く。
二人の目が合った。
イベリスは、フロースを見ても何も言わない。
それはフロースを安堵させるのだけれど、寂しくもあり、身勝手だと思いつつ何か言って欲しい気がした。
また自分は、夢でも見たのではないかと思ったりする。
この明るい陽の下にいると、あの霧の中のことは、あまりにも現実からかけ離れている。
そしてイベリスに背を向け、「きっと夢だったのだわ」と口に出して言った。
帰りの車の中、フロースは、座席とシートベルトをしっかりと掴んで目を閉じていた。
アリアは助手席に座り、揺れる車をスリルライドのごとく楽しんでいる。
車が大きく揺れ、フロースは、びくんと体を強張らせた。
フロースを横で見守っているイベリスは、彼女が車から飛び出したいくらいに怖いのだろうと思っていた。
それなのに、決して自分に頼ろうとしない。
これほど近くにいるのに、彼女は遠い所にいるように思えてならない。
フロースは心を閉ざしている。
朝霧の中で開いたかのようだったのに、また閉じてしまった。
イベリスは、自分の胸に手を当て、上着の下にある緑の石に触れた。
首にかけられたその緑の石は、要塞へ入る鍵で三つある。
ライーニ家には、代々鍵が託されている。そして資格のある成人した男子は、鍵を受け取り要塞に入る。
そうして自分が要塞を守る使命を受け入れた事を示すのだけれど、イベリスは、幼いころに父セルーナの鍵を託されて王宮に送られたので、鍵を持っていても要塞に入ったことがなかったのだ。
セルーナも叔父のアルも、鍵を持っているイベリスが、要塞へ入るように強制していない。
ライーニ家は、ラーウス議会の議長役も任されていた。
アルは、兄の代理の議長として、その任を果たしているだけだと言う。
イベリスは、叔父が自分のためにそうしているのだと分かっていた。
ウィリディス王国のアクィラ王も、十人目の王の助言者を決めていない。
イベリスは、それも自分を待っているからだと知っている。
王も、イベリスに考える時間を与えているのだ。
フロースは・・・とイベリスは思った。
婚約者が、彼女をエスペビオスで待っている。
イベリスは、後ろを振り返り、遠のいていくエルナトを見る。
そして、もうここへフロースを連れて来ることはないと思った。こんなに怖がっている彼女が、エルナトへ行きたい願うはずはなく、ましてや帝国の貴族の娘が住めるような所でもない。
彼は、フロースが自分とここに住むことはありえないと思ったのだ。
そして、ふと、キラルのことを思い出した。
なぜキラルはフロースをあそこへ連れて行ったのか。
それは思い当たるふしもある。キラルが望んでいるのは、自分が要塞に入ることだ。あの時、要塞の入り口の上に立っていたのだけれど、入れないでいた。
それが、どのようにフロースと関係するのだろうと思う。
フロースは、エルナトの復興を気にしていた。キラルはフロースを使って、自分を要塞へ入らせようとしたのだろうか、いや、それはありえないと打ち消す。
「キラルはもう自分の村へ戻ったはずだ」とイベリスは思った。
彼女の住むケフェルト村は、エルナトから歩いて半日ほど掛かる。
自分は、アリアとフロースを、ロセウスで待っている帝国専用機に乗せなければならない。
キラルを追いかけて、その理由を聞く時間などない。それに彼女が、簡単に答えてくれるとも思えない。
「考えよう」とイベリスは思った。
「まだ、考える時間はあるのだから」と。
イベリスは、キラルが自分のフロースへの気持ちに気付いていると思っていなかった。
キラルはイベリスに答えるつもりは無かったけれど、彼が自分を追いかけてくるのはかまわなかった。
いや、むしろ、追いかけてくればいいのにと思っていた。
彼女は、二人がラーウスに着いた時から見ていたのだ。
キラルは、フロースが彼の迷いに答えを与えてくれる者だと直感し、宴の夜、彼女がエルナトの復興について聞いた時に確信した。
ところがイベリスは自分の事に精一杯で、フロースが特別の女性であることに気付けなかったのだ。
またフロースも、イベリスを愛していることを認めようとしなかった。
それは、まだ二人が若かったからで、イベリスは、かなり後になって、この時、フロースをラーウスから去らせるべきでなかったと後悔するのだ。




