6話 平和の犠牲
霧が湖を覆っていた。
それがゆっくりと動くので、フロースには、イベリスが水の上というよりは、雲の上に立っているように思える。
彼女は、彼の立っている所は浅瀬なのかもしれないとも思う。
イベリスは首からかけた何かの先を右手で握り、足元の青いろがかった光を見下ろしているようだった。
それは幻想的な風景で、霧が隠せばそのまま消えてしまい、誰も存在していないのではないかと思わせるほどだった。
イベリスは何かを感じたようで、顔を上げると湖畔の方を振り向き、霧の中にフロースともう一人、誰かが立っているのに気付く。
彼は、フロースを見て驚くのだけれど、その誰かが、キラルなのにも驚いた。
するとキラルは、すっと霧の中に姿を消してしまい、横にいたフロースすらもそれに気付かないほどだった。
イベリスは、キラルがフロースを連れて来たのだと思い、
「こちらへ来てみますか?」と言うと、右手は握ったままで、左手をフロースの方へと差し出す。
フロースは何と答えて良いのか分からず、戸惑う。
「大丈夫です。あなたは歩いて来れます。さあ」
イベリスの手は差し出されたままだった。
フロースが、恐る恐る水面に足を踏み入れると、そこは氷のように硬かった。
そして彼女はイベリスの方へ歩いていき、彼の手を握る。
「ここはどこなのですか?」
「これが、エルナトの伝説です」
さざなみの音が聞こえてくるだけで、それ以外には何も聞こえず、全ては霧の中に閉じ込められてしまったかのようだった。
イベリスは、右手で首から下がったものを握り、左手でフロースの手を握ったまま彼女を見つめ、黙っている。
フロースは、エルナトの伝説とは、この霧に包まれた自分たちのようだと思った。
「ここから見ると、あの岩のテラスは、まるで角のように見えるでしょう。エルナトとは、ここから見えるあの岩のことなのです」
イベリスはそう言いながらフロースの後ろを見上げる、フロースは彼の手を放すとその方を見た。
空気が流れ、白い霧の中に、濃い色をした岩山の先が浮かぶと、すぐに消えていく。
霧の動きが時を刻んでいくようで、辺りはより明るくなり、周り風景もその姿を見え隠れさせる。
「あの岩は、とても大きくて強く、バルナの攻撃にも耐えました。恐らく、この山が崩れない限り、あそこは残るでしょう。それなのに、わたしの一族は残りませんでした」
「バルナはここを攻撃した国の名前ですね」
フロースは、イベリスに誤らねばと思い、
「昨夜は、あなたに失礼な質問をしてしまいました」と言った。
イベリスは、フロースが公文書を読んでおり、夕べもそれについて議論したのだけれど、彼女はどれだけ理解しているのだろうかと思っていた。
彼女は自分に、「エルナトを復興するのか」と聞いた。それなのに、いつのまにかいなくなり、しかも温泉へ入りにいったと言う。
そして、今朝は、このようにキラルにここへ連れて来られている。
彼は、彼女に、何をどの程度話せばよいのだろうかと考えていた。
戦争の主な理由は欲望を満たすことにある。
ラーウス人の先祖は、かなり進んだ文明を持っていた。そして貪欲で、平和より戦い、侵略し征服する関心の強い国民だった。そして彼らは、その生き方が、自国をも滅ぼす危険に気付き、国を捨て、名を捨てて惑星ラーウスへ移り住んだ。ところが、宿敵のバルナはそれを許さず、彼らを追ってきたのだ。
公文書に、「バルナがエルナトに世界の安全を揺るがす兵器がある」と主張したことが記されている。
その兵器は、二百年以上も前の戦争で使われ、バルナの艦隊を滅ぼしたと言うのだけれど、正確な記録は残っていない。
イベリスの父セルーナとシャルム王は、国際法に基づき、外交交渉で戦争を回避しようとする。
帝国は、バルナの主張など信じていなかったのだけれど、豊かなウィリディス王国と、その周辺地域を従属国にすることには興味があった。
バルナはその帝国の欲を利用し、帝国はバルナの主張を信じる振りをして戦争を始めようとしたのだ。
こうして交渉は決裂し、セルーナとシャルム王は、戦争を回避できないと結論した。
彼らは、隠していた要塞のあるエルナトが応戦すれば、帝国の罠に嵌まることも知っていた。
そうすれば、帝国艦隊は、この地域全体を掌握してしまう。
フロースは、「あなたは、何故ここへ戻るのを迷っているのですか」と聞いた。
イベリスは、しばらくの間、フロースを見ながら黙っていた。
空気は冷たく、二人の息も白いのだけれど、フロースは寒さを感じず、自分がどこにいるのかさえ忘れてしまったようだった。
「エルナトを復興すれば、ここは再び戦火に見舞われるかもしれません」とイベリスが言った。
「もう、バルナという国は存在しないのにですか?」
「バルナが国として存在し無くなったのは、エルナトが攻撃された後、シャルム王がバルナの愚行を国際裁判に訴え、帝国にバルナを押さえさせたからです。そうして彼らは自国を失いました。
帝国としても、バルナの国土を得られたので、都合が良かったのです」
「それでは」とフロースが言いかけると、イベリスはそれを遮る。
「無くなったのは彼らの国家で、民族は残り、憎しみも残りました。
少数ですが、ラーウスにも、バルナへの恨みを持っている者もいます。
そして、バルナ人と同じように、死ぬことを恐れない好戦的な先祖の血が流れています。わたしの父も死ぬことを恐れていませんでした。
ですから、エルナトは、戦いの象徴になるのです」
「復興しても、戦争をしなければ良いではありませんか。戦わなければ、死ぬことはありません」
「わたしの一族は、戦わなかったのに死んだのですよ」
とイベリスが言うと、フロースは「あっ」っと思った。
「戦わないということは、無事であるということにはならないのです」
「そんな・・・そんなことがあってはなりません。平和を願う人々が、何故、犠牲にならなければならないのですか?」
「では、何の犠牲も払わずに、平和でいられる方法があるのでしょうか。あなたは、平和のために、自分と自分の家族を犠牲にできるのですか?」
フロースは、それに答えることが出来ない。
「それに応戦したとしても、自分たちのために相手を犠牲にするだけです。
父は、戦えば、殺戮が繰り返されるだけなのを理解していました」
「では、あなたのお父様は、戦いを止めようとして犠牲になられたのではありませんか。
エルナトの復興は、平和の象徴にはなりませんか?」
「いいえ」とイベリスは言う。
「ここで生きるということは、自分の一族と子孫に及ぶかもしれない危険を受け入れることです。
ラーウスには軍隊がありませんが、そんなことで、相手の攻撃を止めさせることはできません。
バルナは、二百年も経って戻ってきました。それはバルナだけではなく、他にも、何百年、何千年も憎しみあっている民族がいます。
平和のために自分の土地を捨てるのか、それとも留まるのか、わたしはその決定をしなければなりません。
今は、わたしが、ここを受け継ぐものだからです」
「ですが、あなたに属する者たちは、復興を望んでいます。
あの人たちも自分の家族を失ったのに、ここに住みたいと願っています」
「帝国人のあなたには、ラーウス人のことは分からない。そして、その宿命もです」
フロースは、何を言ってもイベリスは自分を締め出すだけで、壁を作っていると思った。
そして、エルナトに戻りたいハンナは、ただ単にここを恋しがっているだけなのに、それを上手く伝えられないでいる。
霧はまるでベールを剥ぐかのように消えていくようだった。
すると、みずみずしい景色がまるで生き物のように二人に迫ってくる。
フロースは、イベリスの両親のことを思った。
彼らは、この美しいエルナトをどう思っていたのだろう。きっと愛していたに違いない。
そして、敵を滅ぼすことが出来たのに、その兵器を使わず、はむかうこともしなかった人たち。例え、それが自分たちの死を意味してもだ。その人たちは、今もここに眠っている。
そう思いながら、その人たちの思いが、自分に何かを伝えようとしている様な気がしてならない。
そして、この美しいエルナトを見ていると、なぜか自分もこんな所で一生を終え、ここに横たわりたいと思ってしまったのだ。
フロースの目から涙がこぼれ落ちる。
イベリスは、それを見るとフロースを抱き寄せた。
フロースはその胸で泣き始め、イベリスの心臓の音を聞く。彼の匂いがして、あのスパイスの香りも漂っている。そして、「イベリスの匂い・・・」と思った。
彼女の目の前に、イベリスが首から下げていた緑色の石がある。
次の瞬間、フロースは、婚約者のオーデン伯爵のことを思い出した。
それはまるで雷にでも打たれたようで、彼女はイベリスの腕からするりと抜けると、そこから走り去る。
フロースは、別世界から現実へと戻っていったのだ。