5話 夜の宴
陽が暮れると、エルナトに人々が集まってきた。
スピルが母親のハンナを帝国人たちに紹介する。
彼女は、穏やかで素朴な感じの人だった。
「奥さんと子供たちは?」とアリアが聞くと、スピルは、
「子供たちは、夜が遅くなるので妻と共に家に残しました」と答える。
アリアは、集まった人々の中に若い人々を見かけなかったので、イベリスの両親を知っている人たちだけが来たのだと思っていた。
そして夜の宴が始まる。
ラーウスの食べ物と飲み物は宴を盛り上げ、奏でる楽器や歌、そして笑い声が闇の中に響いていく。
ハンナは、フロースが気に入ったようだった。
彼女は、このエルナトがどんなにすばらしいのか、何度も同じことを繰り返して聞かせる。
フロースは、彼女がここに戻りたがっているのを感じ、それは他の誰もが望んでいるように思えるのだけれど、誰もそのことをイベリスに言おうとしないのに気付く。
それはアリアも同じで、彼らがその話題を避けているのは、帝国人である自分たちがいるからなのではと思っていた。
エルナトには悲しい過去があり、ルスカはその過去に興味を抱いている。随行員たちにはそんな様子はないのだけれど、それは彼らの役目がアリアの身の安全を守ることだからだ。
とにかくアリアは、ラーウスの人たちを気に入っており、ルスカがどう思おうと、彼らの邪魔をするつもりはないので、そのことには触れないようにしていた。
そころが、突然、フロースが、
「イベリス、あなたはここを復興するのですか?」と言った。
皆が一斉にフロースを見る。会話は止まり、音楽も消え、焚き火の燃えるパチパチという音だけが聞こえる。
イベリスも驚いたようにフロースを見た。
フロースは、皆の反応に驚くのだけれど、イベリスを真っ直ぐに見ている。このようにフロースがイベリスを見つめるのは初めてだった。
随行員の一人が、「そうですね、どうなのですか?」と聞いた。
今度は全員の目がイベリスに向かう。
そこでフロースは、自分がイベリスを不都合な立場に置いてしまったのだと気付いた。
彼女は、ハンナの気持ちを考えるあまり、その思いをつい口にしてしまったのだ。
そこで、誰かがエルナトの事件を持ち出したので、それによってラーウスが守られたのだとか、それだけの犠牲を払う必要があったのかなどと、男たちは議論を戦わせる。
さらに、戦争の定義は、国家が軍事力をもって自国の主張を通すことであり、平和の定義は、戦争のない状態のことだという話になると、その平和の定義は消極的なので、もっと積極的に平和を考えてはどうかとの意見も出る。
とにかく、平和は、国家間の軍事力や経済などのバランスが取れなければ続かない。それに、強い軍事力を持っていても、ゲリラ戦になれば有利とは言えなくなるので、問題は複雑化するばかりだ。
フロースとアリアは、しばらくの間、彼らの議論を聞いていたのだけれど、そもそもエルナトの事件について知らないので良く分からない。こうして、その議論のきっかけを作ったフロースは、蚊帳の外に追いやられてしまった。
退屈したアリアが、フロースに、
「ねえ、星も綺麗だし、温泉に入らない?」と誘う。
フロースがアリアに従って立とうとすると、ハンナがフロースの手を握った。ハンナは、もう片方の手で彼女の手を優しくたたくと微笑む。
男たちの議論は、幾世紀にも渡ってしていることで、彼らは、結論を出すより、その議論そのものを楽しんでいる風でもある。
それを知っているハンナは、自分の答えを得られなくても、フロースが、彼女の気持ちをイベリスに言ってくれたのが嬉しかったのだ。
月明かりのない満天の星空の下で、アリアは湯船に飛び込むとフロースを誘い、笑ってみせる。アリアは、落ち込んでいるフロースを励まそうとしていた。
「わたしは駄目ですね」フロースがそう言うと、
「そんなことはないわよ」とアリアが慰める。
「イベリスがご両親や妹さんのことについて何も言わないのは、深く傷ついているからなのに、わたしは、その心に踏み入るようなことをしてしまいました」
「フロース」とアリアは彼女に向かって言った。
「それって、いつも、あなたがわたしに言っていることじゃない?」
フロースはアリアを見ると、ふふっと笑う。
「では、わたしの失敗を見て学んでくださったのですね」
「そんなに簡単に学べれば、誰も苦労はしないわよ」
「あら、姫様も苦労しておられるのですね」
そうして二人は笑い出す。
アリアは、湯船の淵に灯っていた蝋燭の火をふっと息をかけて消した。
すると辺りは真っ暗になり、星空が二人を覆い、それらの星が降ってくるようだった。
その夜、フロースはなかなか寝付けなかった。
アリアと一緒のベッドの中で、彼女を起こさないようにじっとしている。
外は静かで何も聞こえない。
フロースの頭から、このエルナトで死んでいった人々のことが離れないでいる。
そして、やっと眠りについたかと思うと、またすぐに目が覚めてしまった。
フロースは起き上がると、露よけのコートを羽織り、岩のテラスへ行ってみることにした。
夜が終わろうとしているらしく、少しずつ明るさが増していくようで、濃い朝霧が白さを増していく。
まだ誰も起きていないようだった。
その音さえ無くなったような世界で、フロースは、自分一人が残されてしまったような気がした。
自分の知っている世界から遠く離れたこの辺境の地で、これからどこへ行ったらいいのだろうと思う。
そう思ってしまったのは、このエルナトで起こったことの悲しさを感じていたからだった。
ふとフロースは、霧の中に、一人の年取った婦人が立っているのに気が付いた。
彼女は、じっとフロースを見ている。
なぜかフロースは、それに驚かなかった。
あまりにも現実離れした世界にいるような気がしていたからかもしれない。
そして、その婦人が言う。
「わたしはキラル。このエルナトの一族にゆかりのあるものです」
フロースは、それがサライの民宿でイベリスたちが言っていた人の名前だと思い出した。
キラルはフロースに近づき、それから彼女の前を横切りながら言う。
「付いて来なさい。ミラ・ラクスを見せてやるから」
フロースは何のことだろうと思いながら、彼女の後についていく。
キラルは、霧の中を、岩のテラスから下へと降りて行く。
しばらくすると、かすかなさざなみの音が聞こえるようになり、湖の辺りに着いたらしいと思った。
そしてキラルは、水際で止まると、その先の湖の方を指差す。
朝の冷たい空気は湖の水面に触れ、白い煙を上げている。
その煙が、山から降りてきた霧と混ざり合い、あたり一面、真っ白で何も見えない。
時々霧が切れ、青い光がぼんやりと浮かび、その上に誰かが立っているのが見える。
それはイベリスだった。