第七十三話 会う約束をしただけなのに、持っていく物を考え始めたら仕事より悩んでしまいました
翌朝、ノルンは管理区域へ向かう前に、自室の机の上へ置いたスマートフォンをしばらく見つめていた。
画面は消えている。通知音も鳴っていないし、美咲から新しい連絡が来ているわけでもない。それでも、木曜日の十四時に会うという予定が決まってから、この小さな端末の存在感は以前より大きくなった気がする。
連絡手段として買ったはずなのに、今では「自分にも仕事以外の予定がある」という証拠のように見えていた。
「……持っていく物って、何が必要なんでしょう」
独り言が部屋に落ちた。
財布。
スマートフォン。
連絡が必要になった時のための充電。
それから――。
そこまで考えたところで、ノルンは眉を寄せた。
美咲に会うだけだ。
世界をまたぐ接続試験ではない。
古代制度の調査でもない。
九人の誤転生者の意思確認でもない。
それなのに、何を持っていけばいいのかという程度の問題が妙に難しい。
「……お菓子?」
思いついてから、すぐに別の疑問が浮かんだ。
手土産は必要なのだろうか。
久しぶりに会う相手に、何も持たず行って失礼ではないか。
しかし、あまり大げさな物を渡せば、今度は美咲が気を遣うかもしれない。
そもそも今回は正式な訪問ではない。会う場所も「前に会った辺り」としか決めていない。
「……分からない」
ノルンは小さく息を吐いた。
管理制度に関する判断なら、必要な情報を並べて条件を整理できる。
ところが、「友人に会う時の手土産」という問題には、明確な規則がない。
考えれば考えるほど、判断基準が増える。
相手との距離。
久しぶりの再会。
会う場所。
相手の好み。
持ち帰る負担。
値段。
そして何より、「これを渡したらどう思われるか」。
ノルンは数秒考えたあと、スマートフォンを鞄へしまった。
「……仕事へ行きましょう」
逃げたわけではない。
たぶん。
管理室へ入ると、主様はすでに朝食後の飲み物を片手に、観測面を眺めていた。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
「なんか考え事してる?」
「していません」
「してる顔だよ」
「顔だけで決めないでください」
「じゃあ聞くけど、何考えてた?」
ノルンは一瞬黙った。
主様に聞けば、確実に面白がられる。
しかし、分からないものを分からないまま抱えている必要もない。
昨日まで自分は、他人に対して「必要な時は一段手前の質問をしてもいい」と考えていた。
なら、自分も必要なら聞けばいい。
「……美咲と会う時に、何か持っていくべきか考えていました」
予想通り、主様の口元がすぐに緩んだ。
「そこ?」
「笑わないでください」
「笑ってないよ」
「笑っています」
「ちょっと嬉しいだけ」
「何がですか」
「ノルンが最古層記録とか位置参照とか名称固定化じゃなくて、『友達に会う時のお土産どうしよう』で悩んでるのが」
言われてみれば、たしかにそうだった。
数日前まで、頭の中のかなりの部分を第一接続者の記録や、呼称固定による位置相当反応の問題が占めていた。
今朝の悩みは、それとはまるで違う。
だからといって、主様に面白がられる筋合いはない。
「別に、お土産と決めたわけではありません」
「じゃあ手土産?」
「言い換えただけです」
「何かあげたいの?」
その問いに、ノルンは少し考えた。
礼儀だから。
久しぶりだから。
空手では失礼かもしれないから。
そういう理由を並べようとして、どれもしっくりこない。
「……会えて嬉しい、という気持ちはあります」
「うん」
「だから、何か形にした方がいいのかと」
「美咲は何か欲しいって言った?」
「言っていません」
「じゃあ、何もなくても会えるね」
「それは分かっています」
「なら、あげたければ小さい物にしたら?」
あまりにも単純な答えに、ノルンは眉を寄せた。
「そんな簡単でいいんですか」
「友達に会うんでしょ?」
「はい」
「外交使節じゃないよ」
「分かっています」
「世界間条約も結ばない」
「分かっています」
「神々の代表でもない」
「それも分かっています」
主様は楽しそうだった。
ノルンは反論する代わりに、机へ資料を置いた。
「健康報告をお願いします」
「逃げた」
「業務へ移っただけです」
「最近それ便利に使うね」
「主様が余計なことを言うからです」
それでも主様は素直に報告を始めた。
「七時間五十三分。途中覚醒なし。朝食済み。体調問題なし。三十八日連続で七時間以上」
「連続記録そのものを――」
「目標にしない。分かってます」
「なら、今日は私が言う前に言ってください」
「言ったら言ったで怒りそう」
「怒りません」
「じゃあ明日試す」
「毎日の遊びにしないでください」
ノルン自身は七時間四十六分。朝食済み。体調異常なし。
各案件にも夜間の重大異常はない。
ミレイアは前日の夜、母親と一緒に菓子の焼き上がりを待ちながら本を読んでいた。ルークについての自発的な発言はなく、「ごめん」を聞くことについても追加の申告はない。
ルーク側にも名称接続、位置相当感覚、接続衝動はなし。
昨日確認したフローラとアーノルドについても、新しい動きはなかった。
慈善行事の王家側出席者はまだ確定していない。
フローラも参加を決めていない。
つまり、昨日から継続して「まだ決めなくていい」状態だった。
ノルンはそのまま一覧を進め、もう一つの報告で手を止めた。
昨日質問をした人物――九人のうち、ルークとの接触を望んでいないまま、自分達がどこまで見られているかを確認した人物だ。
追加報告には、一行だけ書かれていた。
――本人より、「昨日聞いたことについて、もう質問はない」との申告。
それだけだった。
「終わり?」
主様が横から覗く。
「はい。少なくとも今日は」
「会いたいかは?」
「聞いていません」
「うん」
「本人も言っていません」
「うん」
昨日なら、そこへ何か意味を見つけようとしたかもしれない。
質問をした。
答えを得た。
なら、ルークへの関心が高まったのではないか。
次は会うことを考えるのではないか。
しかし今は、その一段先を勝手に足さなくてもいいと思える。
質問は一つだった。
答えも一つ返った。
そして、今はもう質問がない。
それで十分だ。
「記録して閉じます」
「それだけ?」
「それだけです」
「ノルン、最近『それだけ』が上手になったね」
「褒めているんですか」
「褒めてる」
「……ありがとうございます」
主様が少し意外そうな顔をした。
「素直」
「褒められたなら受け取ります」
「ルークみたいに『もう一個』って言わないの?」
「言いません」
「本当に?」
「主様」
「はい」
朝の確認を終えたあと、ノルンはセレナとの制度整理へ入った。
昨日のフローラとアーノルドの例については、基礎規則へ追加せず、実例資料の候補として保留する。
意図的な偶然を作らないこと。
しかし、相手と遭遇する可能性のある場所をすべて避ける義務に変えないこと。
相手の境界を守ることと、自分の生活を消すことを混同しないこと。
セレナは昨日まとめた資料へいくつか追記していた。
「この部分ですが」
セレナが一枚の紙を差し出す。
そこには、「適切な配慮をした事実を相手へ共有するか」という項目が加えられていた。
「昨日、ノルンさんはフローラさんへ、王太子が行事への参加を避ける方向で調整していることを伝えませんでしたね」
「はい。本人がその情報を求めていなかったので」
「判断として問題ないと思います。ただ、共有しないことを常に正解にすると、逆の問題も出ます」
ノルンは資料へ目を落とす。
「例えば?」
「相手が『本当に距離を置いてくれているのか不安で外出できない』と感じている場合。その時、実際には境界が守られているのに、管理側が情報を持ったまま黙っていたら、本人が必要以上に生活を狭める可能性があります」
「昨日、私もそこは考えました。フローラが不安を示した場合には、共有する意味があると」
「ええ。ですから、これは『共有する/しない』ではなく、『本人の現在の判断や生活に必要か』を見る方がいいと思います」
ノルンは頷いた。
また二択ではない。
情報を渡せばいい。
渡さない方がいい。
そんな単純な規則では、人によって状況が変わった時に使えない。
「ただし、『必要か』を管理側だけで決めるのも危険ですね」
「そうですね」
「必要そうだから勝手に全部知らせる、では元に戻ります」
「本人が何を知りたいか。あるいは、その情報を受け取る話をするか。一段手前の確認が使えます」
「昨日のフローラの場合は、そこまで確認する必要もなかった?」
「私はそう判断しています。本人が慈善行事について『今は決めない』と明確に言っていましたから」
セレナはしばらく考えたあと、静かに頷いた。
「現在の情報なら、その判断でいいと思います」
ノルンは資料へ短く追記した。
――情報は、多いほど本人の自由が増えるとは限らない。
書いてから、少し迷う。
その下へもう一行。
――知らなくていい時にまで判断材料を渡すことは、考える義務を増やす場合がある。
「これ、いいですね」
セレナが言った。
「基本規則には長すぎます」
「理由資料には使えます」
「はい」
ノルンは紙を別の束へ移した。
以前なら、「情報を隠すことは不誠実ではないか」と考えたかもしれない。
しかし今は、共有されていない情報すべてが隠し事になるわけではないと分かる。
本人の感情。
待っているという気持ち。
寂しさ。
安心したこと。
相手が境界を守るために何を我慢したか。
知れば役に立つこともある。
知れば重荷になることもある。
だからこそ、管理側は「伝えられるから伝える」ではなく、「なぜ伝えるのか」を考えなければならない。
午前の整理が一区切りついた頃、主様が向こうの机から声をかけた。
「ノルン」
「何ですか」
「昼休み、買い物行く?」
「買い物?」
「美咲に持っていく物」
ノルンは反射的に眉を寄せた。
「なぜ主様が参加するんですか」
「相談されたから」
「相談した覚えはありません」
「朝、困ってるって言ってた」
「困っているとは言いましたが、一緒に選んでほしいとは言っていません」
「じゃあ一人で選ぶ?」
「……」
すぐには答えられなかった。
一人で選べる。
たぶん。
しかし、何を基準にすればいいのかまだ分からない。
主様がそこを見逃すはずもなかった。
「ほら」
「何ですか」
「今、ちょっと助けてほしい顔した」
「顔で判断しないでください」
「じゃあ口で言って」
ノルンは数秒、黙った。
セレナが資料を整理するふりをしながら、こちらを見ている気配がする。
なぜ仕事上の難題より、この一言の方が言いにくいのだろう。
「……選ぶ時に、少し意見をください」
「もちろん」
「ただし、主様の趣味だけで変な物を勧めないでください」
「信用ないなあ」
「今までの言動を振り返ってください」
「じゃあセレナも来る?」
「なぜ人数を増やすんですか」
セレナは少し考え、それから首を横に振った。
「私は遠慮します」
「正しい判断です」
「でも、後で何を選んだかは少し気になります」
「セレナまで」
結局、昼休みの一部を使い、ノルンは主様と地球側へ移動した。
以前スマートフォンを買った時ほど大きな用事ではない。今回の目的は、ただ小さな手土産を探すことだ。
町には穏やかな午後の光が落ちていた。車の音、人の話し声、店先から漏れる音楽、どこかの飲食店から流れてくる焼いた生地の匂い。管理区域の静けさに慣れていると、地球の街は一度に入ってくる情報が多い。
ノルンは歩きながら、鞄の中のスマートフォンがきちんと入っていることを一度だけ確かめた。
「今の確認は?」
「落としていないかです」
「美咲の通知じゃなく?」
「違います」
「本当?」
「本当です」
主様は笑いながら隣を歩く。
しばらくして、菓子類や小物を扱う店へ入った。
棚には色鮮やかな包装の商品が並び、季節限定と書かれた箱も多い。ノルンは最初の棚の前で立ち止まり、すぐに悩み始めた。
「これくらい?」
手に取ったのは、かなり大きな菓子箱だった。
主様が箱を見る。
「友達にちょっと渡すには大きくない?」
「そうですか」
「お世話になった取引先みたい」
「……戻します」
次に、三個だけ入った小さな焼き菓子の袋を見る。
「これは?」
「逆にちょっと寂しい?」
「難しいですね」
「ノルン、世界管理より苦戦してない?」
「比較しないでください」
ノルンは棚を一つずつ見ていった。
美咲が何を好むのか、細かくは知らない。
だから味の好みが強く分かれるものは避けたい。
持ち帰りやすい物。
高価すぎない物。
その場で受け取っても負担にならない物。
考えているうちに、主様が隣の棚から小さな箱を持ってきた。
「これくらいじゃない?」
中には個包装の焼き菓子がいくつか入っている。
包装も派手すぎない。
値段も、受け取る側が恐縮するほどではない。
「……無難ですね」
「悪い意味?」
「いい意味です」
「ならいいじゃん」
ノルンは箱を手にしたまま、もう一度棚を見る。
もっといい物があるかもしれない。
もう少し美咲に合う物があるかもしれない。
そう考え始めた瞬間、自分で気づいた。
「……また最適解を探していますね、私」
「うん」
「即答しないでください」
「だって自分で言ったし」
ノルンは箱へ視線を戻した。
美咲が絶対に一番喜ぶ物を選ぶ必要はない。
今回の目的は、完璧な贈り物を用意することではない。
久しぶりに会えることが嬉しくて、少し渡したいと思った。
それだけだ。
「これにします」
「決まった?」
「はい」
「理由は?」
「大げさではなく、持ち帰りやすいからです。それと……」
ノルンは少しだけ迷った。
「私が、これなら渡しやすいと思ったので」
主様は一瞬黙り、それから笑った。
「それでいいと思う」
買い物を終え、管理区域へ戻る途中、ノルンは紙袋を持った手を何度か見た。
中身はただの焼き菓子だ。
世界の命運に関わる物ではない。
安全試験もいらない。
接続安定率を測る必要もない。
本人意思確認書も必要ない。
それなのに、不思議な満足感があった。
「嬉しそうだね」
「そんなに顔に出ていますか」
「ちょっと」
「……そうですか」
今日は否定しなかった。
午後の業務へ戻ると、ルークの定時確認が入っていた。
昨日、別の一人から「九人が今、それぞれ自分の生活をしていることを知っているのか」と聞かれた後だが、追加質問は届いていない。
ノルンはいつも通り必要な状態確認を行った。
「身体的不調は?」
「ないよ」
「名称に関する違和感は?」
「ない」
「位置の感覚、誰かが近いと感じることは?」
「ないよ」
「勝手につながりそうな感覚は?」
「ない」
ルークは落ち着いて答える。
確認を終えようとしたところで、ルークが少しだけ迷うように視線を動かした。
「昨日の人、返事聞いた?」
「はい」
「……何て言ったかは、教えてもらえない?」
「共有許可がありません」
「そっか」
ルークはそれ以上聞かなかった。
以前なら、ノルンも「残念ですか」「不安ですか」と続けていたかもしれない。
しかし今日は、ルークが何も追加しないなら、こちらから感情を掘り起こす必要はない。
数秒の沈黙のあと、ルークの方から口を開いた。
「じゃあ、いいや」
「はい」
「でも、質問してくれたのは嬉しかった」
そこでルーク自身が少し考えた。
「これも、その人には言わない方がいい?」
「共有を希望しますか」
「……しない」
「理由は?」
「昨日と同じ。僕が嬉しいって知ったら、また質問した方がいいのかなって思わせるかもしれないから」
「分かりました。共有しません」
「うん」
ルークは少し笑った。
「でも、ノルンには言っていいんだよね」
「はい。ここで感情を整理することはできます」
「便利だね、管理」
「便利という言い方には少し抵抗があります」
「じゃあ……助かる?」
「それなら、まだ」
「細かいなあ」
ルークが笑い、ノルンも少しだけ口元を緩めた。
感情を持ってはいけないわけではない。
誰かに会いたいと思ってもいい。
質問されて嬉しいと思ってもいい。
寂しいと思ってもいい。
ただ、それを相手へ渡すかどうかは別に選べる。
ルークは、その分け方を少しずつ自分のものにし始めている。
「そういえば」
ルークが不意に言った。
「ノルン、今日ちょっと機嫌いい?」
「そう見えますか」
「うん。いつもより」
ノルンは答えるか迷った。
美咲と会うための手土産を買った。
それをルークへ話す必要はない。
しかし、隠す必要もない。
「近いうちに、以前から知っている人と会う予定があります」
「友達?」
「……そう呼んでも、いいと思います」
「いいじゃん」
ルークは素直に笑った。
「楽しみ?」
「はい」
答えてから、ノルン自身が少し驚いた。
以前なら、「楽しみではありますが、予定通り会えるかはまだ」「何か異常が起きれば業務を優先する必要が」など、条件を足していたかもしれない。
今日はただ、楽しみだと言えた。
「何するの?」
「まだ特に決めていません」
「それでも楽しみなんだ」
「はい」
「そっか」
ルークは少しだけ考えるような顔をした。
「会うって、会ってから何するか決めてもいいんだね」
ノルンはすぐに答えず、その言葉を受け止めた。
ルークにとって「会う」は、これまでずっと大きすぎる意味を持っていた。
九人への謝罪。
自分の後悔。
許されるかどうか。
返事をもらえるかどうか。
ミレイアとの初回接続でさえ、一言を選ぶために何度も考えた。
だから、「会ってから何をするか決める」という発想そのものが、彼には少し新しいのかもしれない。
「相手との関係や状況によりますが、そういう会い方もあります」
「何か言わなきゃいけないとか、決めなくても?」
「はい」
「……いいな」
ルークの声は小さかった。
そこでノルンは先回りしなかった。
「ミレイアともいつかそうできます」とも言わない。
「次は気楽に会えばいい」とも言わない。
今のルークとミレイアには、まだそこまでの状態はない。
ただ、ルークがそういう会い方の存在を知った。
それでいい。
「僕、会うって決めたら、何を言うか全部決めないと駄目だと思ってた」
「初回接続では、内容をかなり限定する必要がありましたからね」
「うん。でも、普通の人はそうじゃないんだ」
「必ずしも」
「ノルンも、美咲って人と会ったら何言うか決めてない?」
「決めていません」
「不安じゃない?」
ノルンは少し考えた。
不安がないわけではない。
久しぶりに会って、会話が途切れたらどうしよう。
以前と同じように話せるだろうか。
スマートフォンの使い方について教えると言ってくれたが、どの程度聞けばいいのか。
そして、自分が仕事ばかりしていた間に、美咲の生活はどれだけ変わったのか。
「少しは不安です」
「でも会う?」
「会いたいので」
ルークはその言葉を聞くと、しばらく黙った。
「……そっか」
何かを自分へ重ねた可能性はある。
しかし、ノルンは確認しなかった。
今日それを掘り下げる必要はない。
ルークもその後、ミレイアの名前を出さなかった。
定時確認が終わる頃には、いつもの軽い調子へ戻っていた。
「今日、褒める?」
「何をですか」
「昨日の人のこと聞いたけど、しつこく聞かなかった」
「自分から要求するんですね」
「でもできたよ?」
「はい。それはできています」
「一個?」
「一個です」
「もう一個は?」
「結局要求しているじゃないですか」
ルークが笑う。
ノルンもため息をつきながら、二つ目を考えた。
「感情を共有しない理由を、自分で判断できたことも良かったと思います」
「二個!」
「満足しましたか」
「うん」
「では本日はここまでです」
「ノルンも美咲と会うの楽しんできてね」
予想していなかった言葉に、ノルンは少し目を瞬いた。
「……ありがとうございます」
「あと、何か持ってくの?」
なぜそこまで聞くのかと思いながらも、ノルンは答えた。
「小さな焼き菓子を買いました」
「選ぶの大変だった?」
「……なぜ分かるんですか」
「ノルンだから」
「どういう意味ですか」
ルークは答えず笑っていた。
接続確認を閉じたあと、ノルンはしばらく席に残った。
会うことは、必ずしも何かを解決することではない。
会って謝る。
会って許してもらう。
会って関係を決める。
そういう目的のある接触もある。
一方で、何を話すか全部決めず、ただ顔を見て、そこから会話を始める時間もある。
美咲との予定を考えていたことで、ノルン自身がそんな当たり前のことを改めて思い出していた。
しかし、それをすぐルークとミレイアへ当てはめるつもりはない。
彼らには彼らの距離がある。
初回接続ですら、あれだけ慎重に積み重ねてきた。
「普通の友人ならこうだから」という理由で、同じ形を要求する方が不自然だ。
夕方、ミレイア側からも定時報告が届いた。
今日は母親と庭師が秋の植え替えについて話しているところへ顔を出し、しばらく花の配置を一緒に考えていたらしい。
ルークに関する発言なし。
次回接続についての申告なし。
「ごめん」という言葉についても新しい変化はない。
ノルンはそれを読んで、記録へ「変化なし」とだけ書きそうになった。
少し考え、表現を変える。
――本日、ルーク関連の追加申告なし。日常生活継続。
変化がない。
それだけでも間違いではない。
ただ、日常生活が継続しているという事実も同じくらい大切だ。
花の植え替えについて考えた。
母親と話した。
庭師の説明を聞いた。
そこにルークが出てこなかった。
それは空白ではなく、ミレイア自身の一日だった。
退室前、ノルンは制度見直し用の個人メモへ今日の内容を書き留めた。
『情報を持つことは、常に相手へ渡す義務を意味しない。本人が今その情報を必要としているか、受け取ること自体が新しい判断義務にならないかを確認する。』
その下へ、今日ルークと話した内容も別枠で残す。
『接触には、目的を事前にすべて決める必要がある場合と、会ってから関係の中で決められる場合がある。安全上の制限が必要な接触と、通常の人間関係の接触を同じ型へ押し込めない。』
ここでペンを止めた。
これはまだ制度へ入れるような規則ではない。
むしろ、自分への注意書きに近い。
ミレイアとルークの接触を慎重に扱ってきたからこそ、「接触とは準備して内容を決め、許可を取り、安全条件を整えた上で実施するもの」という感覚が管理側にも強くなっている。
今はそれが必要だ。
だが、いつか二人がもっと自由に話せる状態になった時まで、同じ形式へ縛り続けていいとは限らない。
その未来が来るかどうかさえ、まだ誰にも分からない。
「ノルン」
主様の声に振り返る。
「帰らないの?」
「今終わったところです」
「手土産、忘れないようにね」
「木曜日です。今日持って帰ります」
「途中で食べない?」
「食べません」
「一個くらい」
「美咲に渡す物です」
「じゃあ自分用も買えばよかったのに」
ノルンは少し考えた。
店には同じ焼き菓子の小袋もあった。
たしかに、自分用を買ってはいけない理由はない。
「……次に買います」
「おお」
「何ですか」
「前なら『必要ありません』って言いそうだった」
「私だってお菓子くらい食べます」
「知ってる」
「では、なぜ驚くんですか」
「自分用に買うって言ったから」
ノルンは返事をしなかった。
言われてみれば、少し違うのかもしれない。
誰かに渡すため。
仕事上必要だから。
健康維持のため。
そういう理由ではなく、自分が食べたいから買う。
そんな小さな選択を、以前の自分は後回しにすることが多かった。
鞄へスマートフォンを入れ、焼き菓子の紙袋を丁寧に持つ。
管理室を出る前に、ノルンは一度だけ振り返った。
今日も大きな謎は解けていない。
第一接続者とルークの関係も分からない。
ルークの昔の名前も分からない。
ミレイアは次の接続を決めていない。
フローラも慈善行事へ行くか決めていない。
昨日質問した人物も、ルークへ会うつもりはないままだ。
それでも、それぞれの生活は続いている。
そして自分にも、木曜日に会いたい人がいる。
ノルンは管理区域の照明を一つ落としながら、ふと笑った。
「……会ってから、考えてもいいんですね」
誰に聞かせるでもなく口にした言葉だった。
主様は少し離れた場所でそれを聞いていたらしい。
「うん。美咲とのことはね」
わざわざ付け足された言葉に、ノルンは振り返る。
「分かっています。ルーク達にそのまま当てはめたりしません」
「ならよし」
「主様は私を何だと思っているんですか」
「ちょっと油断すると、新しく知ったことを制度化したくなる観察官」
「……否定しづらい言い方をしないでください」
主様の笑い声が、閉じかけた管理室へ響いた。
ノルンは少しむっとしながらも、紙袋を持ち直して外へ出た。
今日買った小さな焼き菓子には、特別な意味を持たせる必要はない。
これを渡したから美咲との関係が何か変わるわけでもない。
久しぶりに会えることが嬉しくて、少し渡したいと思った。
その程度でいい。
誰かに会うことも。
何かを渡すことも。
言葉を交わすことも。
全部が人生を左右する決断である必要はない。
ノルンはまだ、その当たり前を覚え直している途中だった。




