第四十九話 一言を聞いたあとの戻り方まで本人に選んでもらおうとしたら、何も決めずに休むことも立派な選択肢でした
翌朝、管理領域へ入ったノルンは、いつものように最初の世界記録へ目を通したあと、机へ置いた手帳を開いた。
昨夜最後に書き足した見出しが、最初に目へ入る。
『一言接続後の戻り方』
ルークからの声を管理側で一度受け取り、音声だけを別経路へ転送する中継方式は、昨日の模擬試験では想定どおり動いた。第一受信点への微弱な位置参照は残ったものの、その先の第二模擬聴取点へ参照が伸びることはなく、情報逆流や音声以外の情報混入も確認されなかった。
途中で転送を遮断することもできた。
ただし、そこで新しく分かったことがある。
接続を切る機能があるだけでは、十分ではない。
ルークにとって、途中で音声を切られること自体が「変」であり、「少し嫌」であり、「少し怖い」ものだった。理由が分からないまま切断された場合、ミレイアが無事なのかどうか分からなければ、待機へ戻ることも難しくなる可能性がある。
一方でミレイアも、一言を聞いたあと自分がどうしたいか、まだ決めていない。
エリスと話したいのか。
一人でいたいのか。
そのまま部屋へ戻りたいのか。
少し時間を置いてから誰かと話したいのか。
声を聞く前に決める必要があるものもあれば、聞いたあとでなければ分からないものもある。
ノルンはその境目を、今日は整理したかった。
「おはようございます、主様」
「おはよう」
管理卓の向こうでは、主様がすでに朝の飲み物を用意していた。昨日までと変わらない穏やかな表情を確認したノルンは、挨拶の直後からじっと相手を見る。
「……何?」
「睡眠時間です」
「やっぱりそこ」
「十四日目でございます」
「まだ数えてる」
「七時間以上が二週間継続する重要な節目ですから」
「じゃあ今日で解放?」
「十五日目が始まります」
「知ってた」
主様が諦めたように笑い、カップを置く。
「七時間三十八分」
「十四日連続です!」
ノルンの表情が明るくなる。
「朝食は?」
「食べた。体調も問題なし」
「素晴らしいです」
「ノルンは?」
「七時間三十一分、朝食済み、体調良好です」
「こっちも二週間くらい安定してきたね」
「自分の健康管理を他人任せにしないことは、観察官としても重要でございますから」
「僕の健康管理は他人任せになってる気がする」
「主様がご自身で管理されれば、私は確認するだけで済みます」
「確認はやめないんだ」
「もちろんです」
主様が笑う。
ノルンも少しだけ笑ってから椅子へ座った。
以前なら、この程度の会話を早く終わらせて仕事へ移りたいと思っていたかもしれない。けれど、今は朝の短いやり取りが自分の状態を切り替える時間になっていることも分かっている。
急ぎたい時ほど、少しだけ止まる。
それは観察対象に対してだけでなく、自分に対しても必要だった。
「主様」
「うん」
「今日はミレイア様へ、一言接続後について一つ確認したいと思います」
「一つ?」
「一つです」
「本当に?」
「疑わないでくださいませ!」
「昨日も一つずつにするって言ってたから」
「守っております!」
ノルンは少し頬を膨らませながら、手帳を開いた。
「ただ、今回は選択肢そのものを決めきれていません」
「何を聞くか?」
「はい。『一言を聞いたあと、どう過ごしたいですか』と聞くのは簡単ですが……」
「選択肢が広すぎる?」
「そうです」
エリスと話す。
一人で休む。
誰かにそばにいてもらう。
散歩をする。
そのまま眠る。
何もしない。
いくらでも候補はある。
本人が自由に決められる方がよいように見えるが、選択肢が無限にあることは、必ずしも本人に優しいとは限らない。
「全部本人に考えてもらうと、また設計まで本人へ渡すことになります」
「じゃあ管理側で標準を作る?」
「はい」
ノルンは、昨日までの実践で何度も使った考え方へ戻った。
安全上必要な基本条件は、管理側で用意する。
本人には、その中で必要な部分だけを選んでもらう。
「一言接続が終わったら、まず通常の接続から完全に切り離します」
「うん」
「その後、エリスさんが短い安全確認だけ行う」
「内容は?」
「体調に異常がないか。今すぐ一人になっても大丈夫か。それだけです」
「感想は聞かない?」
「聞きません」
ノルンははっきり答えた。
「『どうでしたか』『何を感じましたか』『もう一度聞きたいですか』は、その場では聞かない方がよいと思います」
「何で?」
「声を聞いた直後に、その感情を整理して言葉にする義務を作りたくないからです」
ミレイアは、まだルークの声を知らない。
聞いた瞬間、何が起きるかも分からない。
泣くかもしれない。
怒るかもしれない。
何も感じないかもしれない。
逆に、一見落ち着いて見えても、あとから感情が動くかもしれない。
その瞬間に「感想」を求めれば、自分の中にまだ形のないものへ答えを付けなければならなくなる。
「安全確認と感情確認は分けます」
「うん」
「まず身体と接続の安全。そのあとは、何も決めなくていい時間を置きます」
「それが標準?」
「はい」
ノルンは少し考えてから付け足した。
「本人が自分から話したいと言った場合だけ、エリスさんが聞く形にします」
「じゃあ今日聞くのは?」
ノルンは手帳へ視線を落とした。
「一言を聞いたあと、短い安全確認が終わったら、エリスさんにそのまま近くにいてもらいたいか。一人になりたいか。そこだけです」
「二択?」
「基本は二択。ただし、『その時決めたい』も許します」
主様が少し笑った。
「三つじゃない?」
「……実質三つです」
「一つの質問に三つの答え」
「それくらいは許してくださいませ」
「うん」
ノルンも少し笑った。
そこでふと、別の可能性に気づく。
「ただし」
「まだある?」
「本人が『何も決めたくない』と思うかもしれません」
「それも『その時決めたい』に入るんじゃない?」
「似ていますが、少し違う気がします」
ノルンは考えながら言葉を探した。
「その時に選ぶのではなく、管理側の標準へ任せたい可能性があります」
「標準は?」
「安全確認後、エリスさんが少し距離を取って同じ場所に残る。本人から呼ばれなければ話しかけない。一定時間後、体調に問題がなければ通常生活へ戻る」
「なるほど」
「つまり、本人が何も選ばなくても一応戻れる形を先に作っておきたいです」
主様が静かに頷いた。
「本人意思尊重って、全部選ばせることじゃないからね」
「はい」
その言葉は、今のノルンには以前より深く理解できた。
選べることは大切だ。
でも、選ばなくても安全でいられることも同じくらい大切だった。
◇◇◇
午前の半ば、ノルンはエリスへ連絡を送った。
すぐ本人へ確認するのではなく、まず今日の状態を確認する。
しばらくして返ってきた記録は短かった。
『本人、睡眠良好。朝の通常生活に乱れなし』
『一言接続について撤回希望なし』
『本人から「日付はまだですよね」と確認あり』
ノルンの指が止まる。
「日付」
「意識してるね」
主様が横から記録を見る。
「はい」
ミレイアの中で、一言接続はもう曖昧な未来ではなくなり始めている。
まだ日付は決まっていない。
けれど、自分から「まだですよね」と確かめた。
その一言だけで、本人の緊張が少し具体的になっていることは分かる。
ただし、それが「早く決めてほしい」という意味なのか、「まだ決まっていないことを確認して安心したい」のかは分からない。
推測はしない。
「エリスさんへ、本人が今日追加確認を受けてもよい状態かだけ聞きます」
「うん」
数分後。
『本人へ確認。追加質問一つであれば可との回答』
ノルンは小さく息を吐いた。
「ではお願いします」
◇◇◇
ミレイアは、昨日と同じ小さな面談室にいた。
窓から入る風は少し弱く、今日は机の上の紙もほとんど動いていない。外では遠くから鳥の鳴き声が聞こえ、室内の静けさを邪魔しない程度に朝の気配を運んでいた。
エリスは正面ではなく、少し斜めの位置へ座っている。
真正面から見つめられ続けるより、その距離の方がミレイアは話しやすかった。
「今日は一つだけ、確認があります」
「はい」
昨日と同じ言葉を聞いて、ミレイアは少しだけ呼吸を整えた。
まだ一言接続の日は決まっていない。
そのことは朝に確認した。
だから、今日いきなり「明日です」と言われるわけではないと思っている。
それでも胸の奥には、わずかな緊張が残っていた。
「一言だけ声を聞いたあとについてです」
ミレイアの指先が少し動く。
聞く前ではなく。
聞いたあと。
そこまでは、まだ深く考えていなかった。
「接続が終わったら、まず管理側で安全に切断されたことを確認します。そのあと、私が短く体調だけ確認する予定です」
「体調だけ?」
「はい。声を聞いてどう思ったか、何を感じたか、次も聞きたいかといった質問は、その場ではしません」
ミレイアは少し目を見開いた。
「聞かないんですか?」
「はい」
「……どうだったか、とかも?」
「こちらからは聞きません」
少し不思議だった。
普通なら、大きな出来事のあとほど「どうだった」と聞かれる気がする。
自分が誰かの立場でも、たぶん聞きたくなる。
なのにノルン達は、そこを最初から聞かないと決めている。
「私が話したかったら?」
「もちろん聞きます」
「でも、言わなかったら?」
「そのままです」
その答えを聞いた瞬間、ミレイアの肩から少し力が抜けた。
声を聞く。
そのあと、感想を言わなくていい。
泣いた理由を説明しなくていい。
何も感じなかったとしても、それを申し訳なく思わなくていい。
次も聞きたいか決めなくていい。
その日の自分に、まだ言葉がなくてもいい。
「それ、ちょっと安心します」
ミレイアは小さく言った。
エリスは静かに頷くだけだった。
「今日確認したいのは、その安全確認のあとです」
「はい」
「私に近くにいてほしいか。一人になりたいか。その時に決めたいか。今の段階で希望があれば教えてください」
ミレイアは黙った。
思っていたより難しい質問ではない。
けれど、すぐには答えられなかった。
ルークの声を聞いたあと。
自分が泣いていたら、一人になりたいだろうか。
逆に、一人になる方が怖いだろうか。
誰かにそばにいてほしくても、話しかけられるのは嫌かもしれない。
エリスなら、何も聞かずにいてくれるかもしれない。
でも、その時の自分がどう感じるかは分からない。
「……分からないです」
ミレイアは正直に答えた。
「はい」
「聞いてみないと、本当に分からないと思います」
「そうですね」
「今は、一人の方がいい気もするんです。でも、実際に聞いたら……誰かがいた方がいいと思うかもしれない」
言いながら、自分でもそれが自然だと感じる。
まだ起きていない出来事のあとを、今の自分だけで完全に決めることはできない。
「でしたら、その時に決める形でも大丈夫です」
「でも」
ミレイアは少し迷った。
「その時、決められなかったら?」
エリスの表情がほんの少し柔らかくなった。
「その場合の標準も用意されています」
「標準?」
「安全確認のあと、私が少し離れた場所に残ります。こちらからは話しかけません。ミレイアさんが一人になりたいと伝えたら離れますし、話したいと伝えたら聞きます」
「何も言わなかったら?」
「私は近くにいます。でも、何かを決めるようには求めません」
ミレイアはしばらく返事をしなかった。
胸の奥にあった小さな緊張が、ゆっくりほどけていく。
「……それがいいかもしれません」
「標準の形が?」
「はい」
言ってから、ミレイアは少しだけ苦笑した。
「選んでないみたいですけど」
「選ばない形を選ぶこともできます」
エリスの言葉に、ミレイアは思わず顔を上げた。
「それ、ノルンさんが言いそうですね」
「実際、かなり近いことを言っていました」
「やっぱり」
二人の間に小さな笑いが落ちる。
その笑いが収まったあと、ミレイアはもう一度自分の気持ちを確かめた。
声を聞いたあと。
すぐ何かを決めなくていい。
エリスが近くにはいる。
でも話しかけてこない。
一人になりたければ言える。
話したくなれば話せる。
何も言えなければ、そのままでいい。
「じゃあ、それでお願いします」
「分かりました」
「あとから、一人になりたいって言っても?」
「もちろんです」
「逆に、最初は一人になったけど、あとで話したくなったら?」
「その時に呼んでください」
「……はい」
ミレイアはゆっくり頷いた。
その返事をしたあと、エリスは記録板へ短く書き込んだ。
けれど、質問は続かなかった。
ミレイアは少し待ってから、逆に自分から口を開いた。
「日付って、まだ決まってないですよね」
「はい」
「今日の確認が終わったから、すぐ決まるわけでも?」
「ありません」
その答えに、ミレイアは小さく息を吐いた。
自分から聞いておきながら、安心した。
「怖いですか?」
エリスは問いかけたあと、少しだけ言葉を補った。
「答えたくなければ、答えなくても構いません」
ミレイアは窓の外を見た。
朝より少し高くなった日差しが、木の葉を明るく照らしている。
「怖いです」
今度は迷わず言えた。
「昨日より?」
「たぶん」
ミレイアは膝の上で両手を重ねた。
「でも、やめたいとは思ってないです」
「はい」
「日付が決まってないって聞くと安心するのに、ずっと決まらないのも嫌な気がするんです」
言葉にしてから、自分でも少しおかしくなって笑う。
「また両方ですね」
「そうですね」
「最近、私までその言い方ばっかりになってきました」
「便利ですから」
「ノルンさんとルークも言ってそう」
ミレイアは知らない。
実際、その二人が頻繁に同じ言葉を使っていることを。
エリスはわざわざ教えず、ただ少しだけ口元を緩めた。
「今日はここまでにします」
「はい」
「次の確認が必要になった場合も、また事前に聞きます」
ミレイアは頷いた。
部屋を出る時、胸の奥の怖さはまだ残っていた。
けれど、その怖さと一緒に、一つだけ新しい安心も持っていた。
声を聞いたあと。
何かを言わなくてもいい。
何かを決めなくてもいい。
それでも、自分のそばには誰かがいてくれる。
その誰かに話すかどうかすら、その時決めればいい。
◇◇◇
昼前にエリスの記録が届くと、ノルンはすぐには開かなかった。
ちょうど通常観察対象の一件で、別世界の小規模な魔力流変動を確認している最中だったからだ。緊急性は低かったものの、途中で意識を切り替えてしまうより、一つ終えてから次へ進んだ方がよい。
確認を終え、記録を閉じてから、ノルンはエリスの報告を開いた。
『本人、一言接続後の標準運用を希望』
『安全確認後、担当観察官エリスは少し離れた位置に残る。本人へ感想・次回意思等は質問しない』
『本人から一人になりたい/話したい等の意思表示があった場合のみ対応を変更』
『本人より「何も言わなかった場合も、近くにいてほしい」との趣旨確認あり』
『一言接続そのものの撤回希望なし』
『本人、「日付が決まっていないと安心するが、ずっと決まらないのも嫌」と発言』
ノルンは最後の一文を読んで、少しだけ目を細めた。
「主様」
「何?」
「ミレイア様も両方になっております」
「感染した?」
「感染ではありません!」
「便利だからね」
「それは認めます」
ノルンは記録をもう一度読む。
日付がまだ決まっていないことに安心する。
でも、ずっと決まらないのは嫌。
会いたい。
でも怖い。
一言だけなら聞きたい。
でも、その一言が現実になるほど怖さが強くなる。
矛盾しているように見える気持ちを、今のミレイアは無理にどちらかへ寄せようとしていない。
ノルンには、それが良い変化に思えた。
「では、ミレイア様側の戻り方は一段整理できました」
「次はルーク?」
「はい」
ノルンは少し表情を引き締めた。
ルーク側にも、終了後の標準運用が必要だった。
昨日の時点で、ルークは「ミレイアが安全なら待つと思う」と話している。
ただし、それはあくまで現時点の予想だ。
本番で声が途中で切れるかもしれない。
一言を最後まで届けられたとしても、ミレイアから返事は返ってこない。
その直後、ルークが「次はいつ」「もう一回」と強く求める可能性もある。
そこで次回日程をその場で決めれば、一言だけの日が実質的に次の面会予約へ変わってしまう。
「ルーク側の標準は」
ノルンは新しい頁へ書き始めた。
「接続終了直後に、管理側から安全終了のみ伝える」
「ミレイアさんの感想は?」
「伝えません」
「次回意思も?」
「本人から共有許可が出ない限り伝えません」
「次いつ会えるか」
「その場では決めません」
「理由は?」
「一言を一言として終えるためです」
主様が頷いた。
ノルンは続ける。
「ルークの怖さを確認します。そのあと、通常の名称接続へ戻す」
「待機状態へ?」
「はい。ただし、次回について尋ねられても、『今日は決めない』と事前に伝えておきます」
「本番後じゃなくて前に?」
「前です」
終わったあとに突然「次は決めません」と言えば、ルークには拒否されたように感じられるかもしれない。
だから最初から、一言の日には次の予定を決めないと説明しておく。
そうすれば、その日の終了条件の一部として受け止めやすくなる。
「これも本人へ確認します」
「標準を説明して、変更したいところがあるか?」
「はい」
ノルンは立ち上がりかけた。
けれど、そこで止まる。
「今すぐ?」
主様に聞かれた。
ノルンは時計代わりの管理光を見る。
昼食の時間が近い。
「……昼食後にします」
「えらい」
「当然です」
「昔なら」
「言わなくて結構です!」
◇◇◇
昼食と短い休息を終えたあと、ノルンはルークへ接続した。
「ルーク」
淡い光が現れる。
『いる』
「今、お話ししてもよろしいですか?」
『いい』
「一言だけ声を届けたあとについて、確認したいことがあります」
『本番?』
「本番の日程ではありません」
光が少し弱くなった。
『まだ』
「はい」
『嫌』
「はい」
『でも聞く』
「ありがとうございます」
ノルンは一呼吸置いてから説明を始めた。
「一言を届けたあと、その日はそこで音声接続を終了します」
『うん』
「ミレイア様から声を返していただく予定も、今のところありません」
『うん』
「終了後、管理側からあなたへ『安全に接続が終了した』ことをお伝えします」
『ミレイア安全?』
「本人側の共有範囲については、まだ最終確認が必要です。ただし、事故なく接続が終了したことは分かる形にしたいと考えております」
ルークの光がゆっくり揺れる。
『分かった』
「そして」
ノルンは少しだけ声を柔らかくした。
「その日は、次にいつ話すかを決めません」
光が止まった。
『決めない』
「はい」
『何で?』
「一言だけの日を、一言だけで終えるためです」
『僕もう一回したい言っても?』
「言うことはできます」
『でも決めない?』
「はい」
沈黙が続く。
ノルンは待つ。
『嫌』
「はい」
『かなり嫌』
「はい」
文字が以前より少し強く光っている。
でも、ノルンは止めない。
嫌だという答えも、説明をやめる理由にはならない。
「変更してほしいですか?」
『分かんない』
「では、今考えてみますか。それとも後日にしますか?」
『今』
「分かりました」
しばらく文字が出ない。
ノルンは椅子へ深く座り直し、何も急かさず待った。
『一言終わる』
「はい」
『次決めない』
「はい」
『ミレイア何思ったか分かんない』
「本人が共有を望まなければ、分からない可能性があります」
『僕待つ』
「はい」
『いつまで?』
その質問に、ノルンはすぐ答えられなかった。
次回確認の日程まで決めない。
けれど、無期限に待つと言われれば、ルークには不安が残る。
「その点は必要ですね」
『何?』
「『次回をその日には決めない』だけでは、いつ次の情報が来るのか分からなすぎます」
『うん』
ノルンは主様を見る。
主様は口を挟まず、ノルンの判断を待っている。
「管理側から、後日改めて状況確認を行うことだけは約束できます」
『いつ?』
「一言接続の翌日以降です。ただし、必ず翌日に次回面会を決めるという意味ではありません」
『翌日ノルン来る?』
「少なくとも、あなたの状態確認は行います」
『それなら』
少し間があり、
『待つ』
と文字が浮かんだ。
「次回が決まらなくても?」
『嫌』
「はい」
『でも翌日来る』
「はい」
『じゃあ待つ』
ノルンは胸の奥で少し息を吐いた。
ルークが必要としていたのは、「次の面会日」ではなく、「完全に放置されない」と分かる境界だったのかもしれない。
ただし、それも推測として記録してはいけない。
本人が言ったのは、翌日にノルンが来るなら待つ、ということだけだ。
「では標準として、一言接続当日は次回予定を決めません。ただし翌日以降、私があなたの状態確認へ来ます」
『うん』
「その時も、ミレイア様が次回についてまだ決めていなければ、そのままお伝えできない場合があります」
『うん』
「待てますか?」
『たぶん』
「たぶん?」
『本番後分かんない』
ノルンは少し目を見開いた。
「そうですね」
『怖いかも』
「はい」
『もっと会いたいかも』
「はい」
『嫌になるかも』
そこでノルンの表情がわずかに変わった。
「ルークが?」
『うん』
「一言を届けたあと、もう会いたくなくなる可能性もあると思いますか?」
『分かんない』
長い時間が過ぎた。
『今は会いたい』
「はい」
『でも後は知らない』
ノルンはその言葉を、とても大切に感じた。
これまでは、ミレイア側だけでなく、ルーク側も「会いたい」という気持ちを維持する前提で準備していた部分がある。
けれど、本当はルークの気持ちも変わってよい。
声を届けたあと。
怖さが強くなって、もう無理だと思うかもしれない。
謝りたかった気持ちがあっても、実際に一歩進んだことで別の感情が出てくる可能性もある。
「ルーク」
『いる』
「それも大丈夫です」
『何?』
「一言を届けたあと、あなたが『もう会いたくない』『分からない』と思っても大丈夫です」
光が止まった。
『僕も?』
「もちろんです」
『ミレイアだけじゃない?』
「はい。初回接続後に次を決めないのは、ミレイア様のためだけではありません」
ノルンは自分で言いながら、その意味を確かめていた。
「あなたも、その一言を届けたあとにどう感じるかは、今の時点では分かりません」
『うん』
「でしたら、その日のあなたへ次の約束をさせる必要はありません」
少しして、文字が浮かぶ。
『それいい』
「先ほどより?」
『嫌少し減った』
「そうですか」
『でも次決めない嫌』
「残っているのですね」
『うん』
「両方ですね」
光が大きく揺れた。
『両方』
ノルンも少し笑った。
「では、その形で準備を続けます」
『褒める?』
「今日は何を褒めてほしいのです?」
『後分かんない言った』
ノルンは一瞬黙ったあと、やわらかく微笑んだ。
「はい。それはとても大切なことでした」
『もっと』
「今会いたい気持ちがあるからといって、未来の自分まで同じだと決めなかったことも良いです」
『もっと』
「欲張りです!」
『でも褒めた』
「はい!」
◇◇◇
接続を終えたあと、ノルンは記録へ新しい一文を加えた。
『初回後の再接触意思は、双方とも未確定でよい』
書いてから、しばらくその文字を見つめる。
今までも、初回面会を第二回への入口にしない方針はあった。
けれど今日、ルーク自身が「後は知らない」と言ったことで、その意味がさらに明確になった。
ミレイアだけに拒否や保留の権利があるわけではない。
ルークにもある。
謝りたい側だから。
待っていた側だから。
会いたいと言い続けてきた側だから。
だから最後まで会いたいままでいなければならない、ということではない。
「主様」
「うん」
「私、少しルークを固定していたかもしれません」
「何に?」
「会いたい側にです」
主様はすぐ否定しなかった。
「ずっと会いたいって言ってたからね」
「はい。でも、一言を届けたあとも同じとは限りません」
「うん」
「面会する方と、謝る方。そういう役割で見てしまうと、本人の気持ちが変わる余地を見落とします」
ノルンは手帳へ視線を戻した。
「ミレイア様が会わないと決めてもいい。ルークも、もう会わないと決めてもいい」
「その方が、本当に初回で終われる」
「はい」
初回を成功させる。
次回へ繋げる。
関係を改善する。
そうした目標を管理側が持った瞬間、本人の気持ちはその目標へ合わせられ始める。
だから安全条件だけを持つ。
始められること。
止められること。
戻れること。
その先は本人達が決める。
「制度見直しの核心になりそう」
主様が言う。
ノルンは少し迷ったあと、今日だけは手帳の余白へ短く残した。
『役割で未来の意思を固定しない』
「書いた」
「今は忘れたくないので」
「うん」
◇◇◇
夕方。
ミレイアは自室へ戻る前、いつもの廊下の窓辺で少しだけ足を止めた。
今日決めたのは、声を聞いたあとのことだった。
正確には、ほとんど何も決めなかった。
エリスが近くにいる。
こちらから話したくなるまで話しかけない。
一人になりたければ言う。
話したければ言う。
何も決められなければ、そのままでもいい。
それだけ。
けれど、ミレイアにはその「それだけ」がありがたかった。
最近、自分の中に一つ変化がある。
以前は、会うなら会う。
断るなら断る。
怖いならやめる。
進むなら覚悟を決める。
そうやって、何か一つの綺麗な答えにしなければならないと思っていた。
今は、少し違う。
会いたいけれど怖い。
日付が決まっていないと安心するのに、ずっと決まらないのは嫌。
一人になりたいかもしれないし、誰かにいてほしいかもしれない。
今は分からない。
そのままでも話が進められる。
「……変なの」
小さく笑う。
答えが増えたというより、答えなくてもいい場所が増えた。
それだけなのに、以前より息がしやすい。
窓の外では、夕方の空がゆっくり暗くなり始めていた。
ミレイアはガラスへ映る自分の顔を見る。
怖そうには見えない。
でも、胸の奥には確かに緊張がある。
外から見える表情と、内側の感情が同じとは限らない。
ノルン達は、それを勝手に決めない。
自分が笑っていても、怖いと言えば怖いものとして扱ってくれる。
逆に泣いたとしても、それだけで「やめたい」と決めつけない。
それが今は、ありがたかった。
「一言……」
また小さく呟く。
まだ日付は決まっていない。
声も知らない。
それでも、一言のあとに帰る場所まで少し見えてきた。
そのことが、昨日よりわずかに安心を増やしていた。
◇◇◇
管理領域では、ノルンが一日の記録をまとめていた。
ミレイア側。
一言接続終了後、まず安全確認。
感想・次回意思・ルークへの返答を管理側からは求めない。
エリスが少し離れた位置に残る。
本人が一人を望めば離れる。
話したい場合のみ聞く。
本人が何も選ばなくても、そのまま安全に休める。
ルーク側。
一言終了後、安全終了を管理側から通知。
当日は次回日程を決めない。
翌日以降、ノルンが状態確認へ来る。
ミレイアの感情や次回意思は、本人が共有を望まない限り伝えない。
ルーク自身も初回後、「また会いたい」「分からない」「もう会いたくない」のどれを選んでもよい。
そこまで書いてから、ノルンは筆を置いた。
「主様」
「何?」
「戻り方、だいぶできました」
「うん」
「次はいよいよ日付?」
口にしてから、自分で少し驚く。
昨日までは、まだ遠いと思っていた。
でも安全中継方式は模擬試験を通った。
ミレイア側の終了後運用も整理した。
ルーク側の終了後運用も見えた。
もちろん、まだ確認すべきことはある。
ルーク側の停止方法。
ミレイア側の非言語停止方法。
本番用中継の最終試験。
接続当日に体調が変化した場合の中止条件。
そして、一言の内容。
「まだ日付の前に少しありますね」
「自分で気づいた」
「分かっております!」
ノルンは少し頬を膨らませ、それから手帳へ残っている項目を見た。
「でも」
「うん」
「以前より、日付が見えるところまでは来ました」
「そうだね」
ノルンはそのことを急いで喜びすぎないよう、ゆっくり受け取った。
一言を聞く。
そのために、声を安全に届ける道を作った。
途中で止められる道も作った。
聞いたあと、話した側と聞いた側が戻れる場所も作り始めた。
そして今日、さらに一つ分かった。
戻るというのは、元の気持ちへ戻ることではない。
声を聞く前と同じ自分になることでもない。
一言を届けたあと、気持ちが変わってもいい。
もっと会いたくなってもいい。
分からなくなってもいい。
もう会いたくないと思ってもいい。
そのどれでも、次をその場で決めなくてよい場所へ戻れる。
ノルンは手帳を閉じた。
「今日は帰ります」
「うん」
「主様」
「何?」
「十五日目も七時間以上をお願いします」
「結局そこに戻る」
「戻れる場所は大切ですので」
「今の話と一緒にする?」
「少しだけ上手いと思いませんでした?」
「自分で言うんだ」
主様が笑う。
ノルンも少しだけ照れたように笑いながら、管理室の照明を落とした。
一言接続の日は、まだ決まっていない。
けれど、決めるために必要なものは少しずつ揃ってきた。
今日増えたのは、選択肢ではない。
選ばなくてもよい場所だった。
何も言わなくてもいい。
何も決めなくてもいい。
聞いたあとに気持ちが変わってもいい。
それでも安全に戻れる。
そんな場所があるからこそ、ミレイアもルークも、一言へ近づくことができるのかもしれない。
ノルン達が守るべきなのは、答えそのものではない。
答えが出ない時間も、答えが変わる未来も、そのまま置いておける余白だった。




