第四十五話 五分だけ会うためには、五分間ずっと話せる準備より、何も言えなくなった時にも終われる準備の方が大切でした
翌朝、ノルンが管理室へ入った時、主様はいつもの席で一枚の管理板を眺めていた。
朝を模した淡い光が天井から降り、白い床には柔らかな影が落ちている。壁際を流れる世界記録は今日も大きな異常を示しておらず、旧管理領域最古層から新しい複製記録も届いていない。
ここ数日、古代記録がない朝にもすっかり慣れてきた。正確には、気にならなくなったわけではない。第一接続者の記録には、まだ知りたいことがたくさんある。ルークとの過去も、現在の制度へ繋がった経緯も、まだ全てが分かったわけではなかった。
それでも今は、一万八百年前から届く続きを待っている間にも、現在のノルンが進められることがある。それを知っているだけで、何も復元されていない閲覧台を見た時の感覚は、以前とはずいぶん変わっていた。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
「朝食は?」
「食べたよ」
「睡眠時間は?」
そこで主様が、なぜか少しだけ姿勢を正した。
「七時間四十六分」
ノルンの表情が一気に明るくなる。
「素晴らしいです!」
「今日、十日目?」
「はい!」
「何かあるって昨日言ってなかった?」
「何もございません」
「即答」
「ですが」
ノルンは胸の前で両手を合わせ、いつもより少し改まった表情を作った。
「十日連続で七時間以上の睡眠時間を確保されましたので、継続努力を高く評価致します。非常に素晴らしいです。今後もこの調子で、無理のない範囲で継続してくださいませ」
「増量された」
「昨日申し上げましたので」
「ちょっと嬉しい」
「それは何よりです!」
満足そうに頷いてから、ノルンは主様の前に置かれているカップへ視線を向けた。湯気はまだ細く立ち上っている。
「水分も摂取されておりますね」
「そこまで確認する?」
「健康管理です」
「僕、世界管理者なんだけどなあ」
「世界管理者が倒れたら困ります!」
「はい」
最近では主様も、ほとんど抵抗しなくなった。最初の頃ならもう少し言い返していた気がするのだが、今ではノルンが確認することも含めて朝の日課になっている。
「ノルンは?」
「朝食済み、睡眠時間七時間十九分です。途中覚醒なし。体調も問題ございません」
「偉い」
「ありがとうございます!」
「十日目?」
「私は主様と同じ日に記録を始めておりません!」
「そうだった」
「そもそも競争ではございません!」
「まだ何も言ってないよ」
「先回り致しました!」
主様が笑う。その笑いにつられるように朝の空気が少し柔らかくなったところで、ノルンはようやく机へ近づいた。
昨日までなら、古代記録があるかどうかを最初に確認していた自分が、今では健康確認を終えてから仕事へ向かっている。それもまた、小さな変化なのだと思う。
「それで」
ノルンは主様の前に置かれた管理板へ目を向けた。
「そちらは?」
「昨日のミレイアさんとの話を踏まえた、音声限定接続の候補」
その一言で、ノルンの表情が変わった。
「もう?」
「昨夜、最低限だけ整理した」
「主様」
「何?」
「睡眠時間は?」
「七時間四十六分」
「……では、夜更かしはされておりませんね」
「そこから確認するんだ」
「重要です!」
「仕事したのは夕方までだよ」
「でしたら結構です」
「許可された」
ノルンは椅子へ腰を下ろし、昨日ミレイアと直接話した内容を頭の中で改めて整理した。
ミレイアはルークに会いたいと思っている。けれど怖さもあり、姿を見ることにはまだ抵抗がある一方で、声なら聞いてみたいと話していた。初回は五分程度を希望し、他の八人については今は聞きたくない。ルークへ伝えたいこともあるが、その内容をまだ話すつもりはないという。
何より大きかったのは、「途中で終わってよい」と知ったことで、ミレイアが少し安心したことだった。
ルーク側にもすでに、終了希望が出れば理由を聞かず終えること、管理側にも安全停止権があること、五分で全てを伝える必要はないこと、謝罪の言葉を今から完成させなくてもよいことまでは説明している。
だから次は、実際に五分間の音声面会を安全に成立させられるのか、そこを確かめなければならない。
「今日は、音声限定面会が本当に安全に行えるかを確認する段階でしょうか」
「うん」
「五分という時間も?」
「そこも」
「ルークの音声表現も?」
「そこが一番大きいかもしれない」
「一番?」
主様が管理板をノルン側へ向けた。
『外在個体・音声表現試験候補』
ノルンは一度読み、すぐに眉を寄せた。
「ルークの声」
「今まで聞いたことないよね」
「はい」
現在のルークとの会話は、ほとんどが文字と光の揺れによるものだ。昔の記録には誰かの笑い方を真似したらしい記述が残っていたし、現在のルークも時折、文字で『ははは』と不自然な笑いを練習している。
けれど、本当に音声を作れるのか。作れるとして、それはどのような形で管理領域へ届くのか。さらに、特定の相手へ声を向けた時、名称接続や位置参照と似た現象が起きないのか。そのどれも、まだ確認していなかった。
「主様」
「うん」
「もしルークが発する音声そのものに、名称接続と似た参照作用がある場合」
「危ない」
「はい。ですので、ミレイア様へ聞かせる前に、管理領域内で試す必要がございます」
「僕もそう思う」
ノルンはすぐに手帳を開いた。
「ただし、ルークへ勝手に音声試験を行わせることは致しません」
「本人へ説明」
「はい」
「参加するか確認」
「はい」
「今日すぐ?」
ノルンは少し考え、首を横へ振った。
「まず、何を試す必要があるのかを管理側で整理します。そのあと、ルークへ内容を説明します」
「かなり定着したね」
「何がです?」
「先に全部やらない」
「成長です!」
「自分で言う」
「事実ですので!」
◇◇◇
最初に整理したのは、音声面会で何が危険になり得るのかだった。
ノルンは手帳へ、一つずつ確認事項を書き出していく。
『確認一――ルークの音声生成自体が境界接続値へ影響するか』
『確認二――音声を特定個人へ向けた場合、個人位置参照が強まるか』
『確認三――名称呼称を音声で行った場合、文字接続と比較して参照作用が変化するか』
『確認四――音声を一方向送信に限定可能か』
『確認五――音声接続を途中で即時遮断可能か』
『確認六――音声接続終了後の残留反応』
そこまで書き終えると、ノルンは小さく眉を寄せた。
「六つです」
「昨日と同じ」
「これは質問項目ではございません!」
「じゃあ増えてもいい?」
「……必要なら」
「顔が嫌そう」
「安全確認が増えることが嫌なのではございません!」
「じゃあ?」
問われて、ノルンは少し黙った。安全確認が必要なのは分かっているし、それを省略したいわけではない。ルークにもミレイアにも、危険な状態で会わせるつもりはなかった。
「面会が遠くなるのが、少しだけ嫌です」
口にしてから、ノルン自身が少し驚いた。
以前なら、「安全確認が必要です」とだけ答えたかもしれない。必要なことを正しく行い、自分の感情はそのあとに置いておけばよいと考えていただろう。
けれど今は、ミレイアが「五分なら会ってみたい」と思い始めていることを知っている。ルークも短いと不満を言いながら、それでも五分という条件を受け入れようとしている。
だからこそ、必要な安全確認を進めながら、できるだけ早く安全に会える形を作ってあげたいとも思っていた。その二つは、どちらかを選ばなければならないものではないのだろう。
「主様」
「何?」
「急ぎたい気持ちと、急いではいけないと思うことも」
「両方?」
ノルンは少し笑った。
「はい」
「ルークの言葉、便利だね」
「便利だから使っているわけではございません!」
「でも分かりやすい」
「それは認めます」
ノルンは改めて六つの項目を見下ろした。
「五分の面会を実現するために、五分以上の安全確認が必要なのですね」
「たぶん、かなり」
「世の中は難しいです」
「管理領域だけどね」
「そこはどうでもよろしいです!」
◇◇◇
次に二人が確認したのは、面会を終える方法だった。
昨日、ミレイアには「終わりたい」と言えば、それだけで面会を終了できると説明した。ルークにも同じ権利があり、どちらか一方が終了を望んだ時点で接続を切る。さらに、双方が続けたいと思っていても、管理側が危険と判断した場合には停止する。
考え方としては整理できているものの、実際に接続を作るとなれば、『終わりたい』と言葉にできることだけを前提にはできない。
「主様」
「うん」
「もしミレイア様が、怖くなって声を出せなくなった場合」
「終了って言えない」
「はい」
それはルークも同じかもしれない。あれほど会いたいと思っていても、実際にミレイアの声を聞いた瞬間に何も言えなくなる可能性はある。怖さや罪悪感が強くなりすぎて、自分から終了を伝える余裕さえなくなることだって考えられた。
「音声以外の終了信号も必要です」
「ミレイアさん側?」
「はい。担当観察官へ合図する方法も候補ですが、曖昧なものは避けたいです」
「例えば?」
「手元の停止札へ触れる、専用の停止操作を行うなどです」
ただ、それでも手すら動かなくなる可能性はある。
「本人が何もできない状態になった場合は、管理側が状態を見て止める必要がございます」
「うん」
「でも、それだけですと、管理側が本人の怖さを勝手に判断する危険もございます」
「そうだね」
泣いているから終える。黙っているから終える。身体が強張って見えるから終える。一見すれば安全側の判断だが、本人は怖くても続きを聞きたいかもしれないし、泣きながらでも今だけはそこにいたいと思う可能性はある。
表情だけで勝手に決めてしまえば、それもまた管理側が本人の選択を奪うことになる。
「では、本人が事前に『こうなったら止めてよい』という条件を決める?」
主様の提案に、ノルンは一度頷きかけた。
例えば、『返事が一定時間できなくなったら』『担当観察官から名前を呼ばれても反応しなければ』『自分から決めた合図を出したら』といった条件なら作れる。
しかし、それらを考えているうちに別の問題へ気づいた。
「……これも、本人へ細かく考えさせすぎる可能性がございます」
「怖くなった時の自分を、事前に全部想像させる?」
「はい。それ自体が負担になるかもしれません」
昨日、セレナから聞いた話も思い出す。考えることは大切でも、考えなくてよい時まで全部考えさせる必要はない。
安全条件は必要だが、だからといって、その条件を一から全部本人へ作らせる必要もない。
「管理側で標準的な停止条件を用意します」
「本人には?」
「変更したいところや、合わないところだけ確認します」
「いいと思う」
主様が管理板へいくつかの候補を表示した。
『本人明示終了』
『事前設定停止操作』
『担当観察官からの安全確認に対し、一定条件下で応答なし』
『境界反応規定値超過』
『音声接続異常』
ノルンは一つずつ確認しながら頷いたが、『応答なし』の項目で手を止めた。
「ここは慎重にしたいです」
「黙って考えてるだけかもしれない?」
「はい」
初回は五分しかない。その五分の中で、ルークが謝罪の言葉を見つけられず黙るかもしれないし、ミレイアが返事をできず、ただ声を聞いているだけの時間が生まれるかもしれない。
けれど、それは異常でも失敗でもない。
「沈黙を異常扱いしすぎない」
「うん」
「安全停止と、沈黙を許すこと。両方必要です」
ノルンは手帳へ書く。
『沈黙は原則として面会継続可能な状態として扱う』
『ただし、事前設定した安全確認条件に該当した場合は確認・停止』
書き終えたあと、ノルンは改めてその二行を眺めた。
「主様」
「何?」
「五分の面会で話さない時間を認めたら、ほとんど黙ったまま終わる可能性もございますね」
「あるね」
「それでも?」
「本人達がそれでいいなら」
ノルンは少し考えたあと、やがて柔らかく笑った。
「はい」
五分という時間を、無理に言葉で埋める必要はない。二人が同じ時間を共有し、そのまま何も言えずに終わったとしても、それだけで失敗にする理由はなかった。
◇◇◇
午前の中頃、ノルンは一度席を立った。
「休憩?」
「いいえ」
「何?」
「水分補給です」
「それ、休憩に近いよ」
「まだ疲れておりません!」
「じゃあ僕も」
「主様も飲んでくださいませ」
「はい」
二人で飲み物を足す。世界記録の淡い光だけが静かに動く管理室で、ノルンは肩を軽く回した。朝からずっと座ったまま考えていたせいか、思っていたより身体へ力が入っていたらしい。
「主様」
「何?」
「音声限定面会というものを、最初はもっと簡単だと思っておりました」
「姿を出さないから?」
「はい」
「実際は?」
「かなり確認が必要です」
「でも姿投影よりは少ないと思うよ」
「そうなのですか?」
「たぶん」
「……」
ノルンが露骨に嫌そうな顔をする。
「先のこと考えた?」
「姿投影へ進んだ場合を」
「考えなくていい時は?」
「考えない!」
「正解」
「ありがとうございます!」
今考える必要があるのは、声だけで安全に接触できる方法だ。その先の姿投影については、本当に必要になった時に改めて考えればよい。
◇◇◇
昼食前には、管理側だけで整理できる範囲がある程度まとまった。次はルーク本人へ説明する段階だと考え、ノルンは一度管理時刻を確認した。
「主様」
「今呼ぶ?」
「その前に、昼食です」
「やっぱり」
「お腹が空いております」
「正しい」
「重要な話を空腹で行うと」
「機嫌悪くなる?」
「主様!」
「違う?」
「……少しは」
「じゃあ食べよう」
「はい!」
以前なら、「これだけ話してから」とルークを呼んだかもしれない。けれど今は、ご飯は食べ、休む時は休む。誰かが待っているからといって、自分の時間まで止める必要はないと少しずつ分かってきていた。
◇◇◇
昼食と休憩を終えたあと、ノルンは改めて机へ戻り、名称接続を弱く開いた。
「ルーク」
少し間があったあと、文字が浮かぶ。
『ノルン』
「はい」
『今いい』
「また先に」
『聞く?』
「聞きます!」
隣で主様が笑う。
「今、お話ししてもよろしいでしょうか」
『いい』
「ありがとうございます」
ノルンは一度呼吸を整えた。
「昨日、ミレイア様との面会について、声だけでお話しする方法をご希望だとお伝えしましたね」
『うん』
『五分』
「はい」
『短い』
「はい」
『嫌』
「はい」
『でも守る』
ノルンの表情が少し柔らかくなる。
「覚えておられますね」
『褒める?』
「まだです!」
『……』
「落ち込まないでくださいませ!」
淡い光が少し揺れた。
「今日は、声だけで安全にお話しできるか確認するため、ルークにも一つお願いしたいことがございます」
『声』
「はい」
『出す?』
「まず、できるかどうかから確認します」
『できる』
あまりにも早い返事に、ノルンが止まった。
「できるのですか?」
『たぶん』
「たぶん!」
『昔やった』
「笑いですか?」
『ははは』
「今はやらなくて結構です!」
主様が肩を揺らして笑っている。
「ルーク。音声を作ること自体が、管理領域や接続へ影響する可能性がございます」
『うん』
「ですので、いきなりミレイア様へ声を届けることは致しません」
『分かった』
「まず管理側だけで試します」
『ルークが決める?』
「もちろんです」
『何する?』
「最初は、誰の名前も呼びません」
『何言う?』
ノルンは少し考えた。
「『こんにちは』」
『こんにちは』
「まだ声を出さないでくださいませ!」
『文字』
「……そうでした」
『ノルン』
「はい」
『分かんない多い』
「ルークに言われたくありません!」
少し笑いが入ったことで、説明前の緊張が和らいだ。
「最初に、管理領域へ向けて一言だけ音声を作っていただきます。特定の誰かには向けません」
『ノルンじゃない?』
「はい」
『主でも?』
「はい」
『誰にも?』
「管理領域内の受信機構だけです」
『分かった』
「その時に境界反応が増えるか、音声が止まったあとに何か残るかを確認します」
『うん』
「問題がなければ、次の段階を改めて説明します」
『今全部しない?』
「はい」
『何で?』
「今考えなくてよいからです」
少し間が空いたあと、不意に予想外の文字が浮かんだ。
『セレナ?』
「……」
ノルンの目が大きくなる。
「なぜそのお名前をご存じなのですか」
『ノルン言った?』
「言っておりません!」
『主?』
「僕も言ってないよ」
『……分かんない』
「怖いです!」
主様が笑っている。
「もしかして、私が以前何かお話しした際に名前を出しましたか?」
『分かんない』
「今は保留です!」
『便利』
「便利ではございません!」
◇◇◇
笑いが落ち着いたあと、ノルンは改めてルークへ問いかけた。
「ルーク」
『いる』
「最初の音声試験へ参加されますか?」
今度はすぐに返事が出なかった。淡い光が小さく揺れたあと、何かを考えるように静止する。
『やる』
「はい」
『ミレイア会うため』
「はい」
『でも』
そこで一度、文字が途切れた。
『怖い』
ノルンは少し目を見開いた。
「ルークが?」
『うん』
『声』
「声を出すことが?」
『ミレイア聞く』
「今日はミレイア様には届きません」
『でも後』
「はい」
今日の試験で声を出せれば、いずれその声をミレイアへ聞かせる時が来る。それを想像すること自体が、ルークにとっては怖いのだろう。
ノルンは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。もちろん、ルークが怖がっていること自体が嬉しいわけではない。以前なら「やる」とだけ答えていたかもしれないルークが、自分の怖さをきちんとこちらへ伝えられたことが嬉しかった。
「怖いままでも、試験へ参加したいですか?」
『うん』
「分かりました」
『両方』
「はい」
『褒める?』
「かなり褒めます」
『もっと』
「試験が終わってからです!」
『待つ』
「はい」
◇◇◇
最初の音声生成試験は、本人確認からさらに一刻ほどあとに行うことになった。すぐに始めなかったのは、ルークが「怖い」と言ったからだった。
本人に少しだけ準備する時間を取ってもらい、その間に管理側も受信機構をもう一度確認する。それだけのことではあったが、以前のノルンなら「本人がやると言ったのだから」と、そのまま進めていたかもしれない。
「主様」
「うん」
「ルークが『怖い』と仰ったこと、少し嬉しかったです」
「怖がってるのが?」
「違います!」
ノルンはすぐに否定した。
「怖いと、こちらへ言えたことです。以前なら、『やる』とだけ仰ったかもしれません」
「そうだね」
「今は、やりたい。でも怖い」
「両方言えた」
「はい」
ミレイアが怖いと言ったからこそ、音声限定、五分、途中終了という形を考えられた。ならば、ルークが怖いと言えたことも、ルーク側の準備へ使える情報になる。
「主様」
「何?」
「ルーク側にも、面会中の支えが必要かもしれません」
「ノルンがいるじゃない」
「はい」
「僕も」
「はい」
「でも?」
「ルーク自身が、私達に何をしてほしいかも確認した方がよいと思います」
「今聞く?」
「いいえ、次です」
「今じゃない?」
ノルンは少し笑った。
「今考えなくてよいです」
「完璧」
「ありがとうございます!」
◇◇◇
管理時刻第四刻、音声生成試験が始まった。
受信対象は、外在個体専用の無指向音声受信機構。特定個人への位置参照を避けるため、名称、対象位置、個人識別情報との接続は全て遮断している。
管理室の空気が少しだけ張り詰めた。壁際を流れる世界記録そのものに変化はないのに、ノルンにはいつもの管理室が少し違って見える。
今日初めて、ルークの声がここへ届くかもしれない。その事実を意識しただけで、先ほどまで何度も確認していた受信機構の表示まで、妙に鮮明に見えた。
「ルーク」
『いる』
「準備はよろしいですか」
少し間が空いた。
『うん』
「怖さは?」
『三』
ノルンの目が少し大きくなる。
「数字で?」
『ノルンよく使う』
「……そうですね」
自分がルークへ影響を与えたのか、それともルークが勝手に学んだのか。どちらなのかは分からなかったが、今はそれを確かめる必要もない。
「三なら続けたいですか?」
『うん』
「六になったら?」
『言う』
「八?」
『止める』
「分かりました」
ルーク自身が自分の状態と停止条件を言葉にできたことに少し安心しながら、ノルンは主様を見る。主様が無言で頷き、それを合図に受信機構が起動した。
境界値は基準範囲を保ち、名称接続にも変化はない。現時点では異常を示すものは何一つなかった。
「では、『こんにちは』と一言だけお願いします」
『うん』
返事の文字が消えたあと、一瞬、何も起きなかった。
管理室には世界記録が流れる微かな音だけが残り、ノルンは無意識に呼吸を浅くする。どれほど待ったのか分からなくなるほど意識を集中させた、その時だった。
「……こんにちは」
静かな声が、管理領域へ届いた。
男性とも女性とも簡単には言い切れない。若く聞こえるのに、人間の声と完全には同じではなかった。遠い場所で聞いた誰かの声を一つずつ組み合わせながら再現したような、僅かな不自然さが残っている。
それでも、それは間違いなく声だった。
これまでノルンが何度も見てきた文字でも、感情を示すように揺れていた光でもない。初めて現在の管理領域へ届いた、ルーク自身の声だった。
ノルンは一瞬、何も言えなかった。主様も黙ったまま、声が消えたあとの受信機構を見つめている。
管理室には再び静けさが戻ったが、先ほどまでと同じ静けさには感じられなかった。その中で、試験結果を示す表示が順番に更新されていく。
『境界反応――変化なし』
『名称参照――なし』
『位置固定――なし』
『音声残留――なし』
『管理領域負荷――基準範囲』
全てを確認してから、主様が静かに息を吐いた。
「第一段階は問題なし」
ノルンも表示を一つずつ確認したが、問題がないからといってすぐに次の試験へ進むことはしなかった。今確認したいのは数値だけではなく、実際に声を出したルーク自身の状態でもある。
「ルーク」
『いる』
「今、どうですか」
少し間があった。
『変』
「声が?」
『自分』
「……」
『聞こえた』
自分が発した声を、自分でも聞いた。もしかすると現在のルークにとって、それ自体が初めてに近い経験だったのかもしれない。
「嫌でしたか?」
『分かんない』
「では、今日はここで終えても構いません」
『でも』
そこで文字が一度止まったあと、新しい言葉が浮かぶ。
『もう一回』
「なぜでしょう」
『確かめたい』
ノルンは少し考えた。
もう一度やらせてあげたい気持ちはある。本人が確かめたいと言っており、安全数値にも異常は出ていない。
けれど、今日の試験目的は一度だけ音声を生成し、その影響を確認することだった。予定外の二度目を今行う必要はなく、確かめたいというルークの希望は次回の試験へ持ち越せばよい。
「ルーク」
『いる』
「もう一回試したいお気持ちは分かりました」
『うん』
「ですが、今日は一回までの予定です」
『嫌』
「はい」
『でも?』
「今日は終わります」
淡い光がしばらく止まったが、ノルンは急かさず待った。やがて、少しだけ不満が滲んでいるようにも見える文字が浮かぶ。
『……分かった』
「ありがとうございます」
『怖さ』
「はい」
『二』
ノルンの表情が少し柔らかくなる。
「減りましたね」
『うん』
『声あった』
「はい」
『ミレイア聞く?』
「安全確認が進めば」
『うん』
「ただし、今日の声をそのまま使うかどうかも、まだ決めません」
『何で?』
「ルーク自身が聞いて、『変』と仰いましたので」
『……』
「少し練習したいですか?」
『うん』
「それも今後の確認項目に致します」
『笑い?』
「笑いの練習ではございません!」
『ははは』
「文字です!」
主様がとうとう声を上げて笑った。張り詰めていた管理室の空気も、その笑い声と一緒にようやく少し解けていった。
◇◇◇
試験終了後、ノルンはすぐに記録へ向かわなかった。一度ルークとの接続を閉じ、主様と休憩を取ることにした。
温かな飲み物を手にしたものの、ノルンの意識にはまだ先ほどの一言が残っている。文字で何度も会話してきた相手なのに、声が一つ加わっただけで印象がずいぶん変わっていた。
「どうだった?」
「声ですか?」
「うん」
ノルンは少し考えた。
「思っていたより、静かでした」
「僕も」
「もっと『ノルン!』と大きな声で来るかと思っておりました」
「普段の文字の印象?」
「はい」
「本人が聞いたら怒るよ」
「怒るでしょうか」
「『嫌』って言う」
「それはありそうです」
二人で少し笑ったものの、ノルンの胸にはまだ、先ほどまでとは違う感覚が残っていた。
これまでルークは、ノルンにとって文字と光で意思を伝えてくる存在だった。そこにいると分かっていても、世界の外にいる存在として、どこか遠く感じる部分があった。
「主様」
「何?」
「音声って、思っていたより近いです」
「うん」
「文字より、相手が本当にそこにいる感じが強いです」
「僕もそう感じた」
ならば、ミレイアはどう感じるだろう。
本人は声を聞きたいと自分から言った。けれど実際に聞いた瞬間、今日のノルンと同じように、ルークという存在が急に近くなったように感じるかもしれない。
それを嬉しいと感じるのか、怖いと感じるのか、あるいはその両方なのか。今の管理側には分からないし、分かったつもりになるべきでもなかった。
「主様」
「うん」
「音声面会を始める前に、試し聞きを用意した方がよいでしょうか」
「ルークの声を?」
「はい。一言だけ」
「それは面会にならない?」
ノルンはそこで止まった。
「……確かに」
管理側が『これは試聴です』と分類したところで、ミレイアにとって初めてルークの声を聞いた瞬間が、実質的な最初の接触になることは変わらない。
「では、ミレイア様へ選んでいただきます」
「何を?」
「初回五分の最初に、初めてルークの声を聞くか」
「うん」
「それとも、面会前に一言だけ聞き、その日はそこで終えてもよい形にするか」
「段階を分ける?」
「はい」
昨日、大切な出来事ほど小さく始めてもよいのだと考えた。五分の面会が大きすぎるのなら、最初は一言だけでもいい。それを五分へ進める前段階として扱うのか、それとも最初の接触そのものとして扱うのかも、管理側が勝手に決める必要はなかった。
「でも」
主様が続ける。
「それ、次回ミレイアさんに聞く?」
「はい」
「今日じゃなく」
「もちろんです」
「もう昨日話したから?」
「はい」
ノルンは少し胸を張った。
「考えさせすぎません」
「いいね」
◇◇◇
夕方、ノルンは今日分かったことを整理した。
『ルーク音声生成試験・第一段階』
『本人説明・参加意思確認済み』
『試験前怖さ自己申告――三』
『無指向音声受信機構へ一言のみ送信』
『発話――「こんにちは」』
『境界反応変化なし』
『名称参照なし』
『位置固定なし』
『音声残留なし』
『試験後本人反応――「自分の声が変」』
『再試験希望あり。ただし本日は一回予定のため終了』
『試験後怖さ――二』
続いて、今後の検討事項も書き出す。
『音声表現安定化の必要性』
『音声を特定個人へ向けた場合の安全試験』
『音声内で個人名称を使用する場合の参照影響』
『面会開始前の音声試聴を本人選択肢とするか』
『沈黙時の安全停止条件』
『音声以外の終了操作』
書き終えたノルンは、項目の数を見て少しだけ眉を下げた。
「主様」
「何?」
「増えました」
「うん」
「でも?」
最近の主様は、ノルンが次に何を言うのか先に分かるようになってきたらしい。そのことがおかしくて、ノルンは少し笑った。
「一つずつです」
「うん」
そのあと、ノルンは手帳の別頁を開いた。
『初回面会の成功条件』
そこまで書いたところで筆が止まる。
「主様」
「何?」
「成功条件という言葉」
「嫌?」
「少し」
面会の成功とは何だろう。五分間最後まで話せることなのか、ルークが謝れることなのか、ミレイアが返事をすることなのか、それとも二人とも怖くならないことなのか。
考えてみても、どれも違う気がした。
ノルンは見出しを書き直す。
『初回面会における安全上の達成条件』
その下へ、必要だと思うものを並べていく。
『双方が終了可能な状態を保持』
『管理側停止可能』
『重大な境界異常なし』
『終了後、それぞれ元の生活・待機状態へ安全に戻れる』
「会話内容は?」
主様が聞く。
「条件に致しません」
「謝罪は?」
「致しません」
「五分話す?」
「致しません」
「次回希望?」
「もちろん致しません」
ノルンは少し考えたあと、最後にもう一行付け加えた。
『何も言えないまま終了しても、安全に戻れたなら失敗とは扱わない』
主様がその一文をしばらく見つめる。
「いいと思う」
「はい」
書き終えたあと、ノルンは少し笑った。
「五分だけ会うために」
「うん」
「五分間ずっと話せる準備をするのではなく」
「うん」
「五分の途中で、何も言えなくなっても大丈夫な準備をしている気が致します」
「そうだね」
ノルンは昨日のミレイアの表情を思い出した。怖いけれど会いたいという二つの気持ちを同時に抱えたまま、それでも少しずつ準備へ進もうとしている。
ならば管理側が作るべきなのは、勇気を出さなければ成立しない場所ではない。勇気が途中でなくなっても、怖さが勝ってしまっても、それでも安全に終われる場所なのだろう。
「それなら」
ノルンは一度ゆっくり息を吐いた。
「少し、会える気がしてきました」
◇◇◇
その日の業務を終えようとした頃、ノルンは一度、机の端へ視線を向けた。
ルークは今日はもう十分に頑張った。試験へ参加し、初めて声を出し、自分が怖いこともきちんと伝えられた。そのうえ、もう一度やりたいという希望があっても、今日一回までという条件を受け入れている。
ならば、もうこちらから呼ぶ必要はない。今日はこのまま休んでもらえばよい。
「主様」
「帰る?」
「はい」
「今日も色々考えたね」
「はい」
「夕食」
「食べます」
「お風呂」
「入ります」
「睡眠」
「七時間以上を目標に致します」
「スマートフォン」
「……」
ノルンの動きが止まった。
「主様」
「何?」
「なぜ、この流れで毎回スマートフォンを差し込むのですか」
「忘れそうだから」
「忘れておりません!」
「何日くらい経った?」
「……」
「ノルン?」
「数えておりません!」
「僕の睡眠は数えてるのに」
「それとこれは別です!」
「美咲さん待ってるかも」
「……」
そこを言われると少し弱かった。
「近いうちに」
「いつ?」
「主様」
「うん」
「期限を渡さないでくださいませ!」
「自分の買い物だよ」
「……」
正論だった。
「では、ミレイア様の面会安全準備が、もう少し落ち着いたら」
「それだとまた延びそう」
「主様!」
「スマホ買うだけなら、地球へ行くついでにできるでしょ」
「ついで……」
ノルンは少し黙った。
美咲ともまた話したいし、洗濯場にも行きたい。フローラにも、マーサにも、リナにも、ミアにも会いたいと思っている。
けれど今は、ルークのこと、九人のこと、制度のこと、古代記録のことと、大きな問題がいくつも続いている。それらを優先するうちに、自分が好きだった日常をずっと後回しにしていた。
もちろん、今すぐ全部をやる必要はない。けれど、大切な仕事があることと、自分の時間をいつまでも後回しにすることは同じではないのかもしれなかった。
「主様」
「何?」
「来週」
「お」
「……」
言った直後、ノルンは自分で期限を作ってしまったことに気づいて止まった。
「来週までに?」
「いいえ!」
すぐに訂正する。
「来週のどこかで、地球へ行く時間を一度作りたいです」
「予定として?」
「はい」
「変更あり?」
「もちろんです」
「スマホ?」
「購入候補です!」
「まだ候補」
「慎重なのです!」
主様が笑い、ノルンもつられて笑った。
今すぐ全部やらなくてもいい。しかし、大切なことだからといって、ずっと後回しにする必要もない。そんな当たり前のことも、ノルンは少しずつ分かるようになってきた。
◇◇◇
その夜、ミレイアの暮らす世界では、担当観察官エリスが通常の短い経過確認を行っていた。
昨日、面会準備についてかなり具体的な話をしたばかりだ。だから今日は、特別に面会のことを掘り下げるつもりはない。
「今日はどうですか」
尋ねたのはそれだけだった。
ミレイアは少し考えてから答えた。
「昨日より、普通です」
「普通?」
「はい」
エリスは、その「普通」が何を意味するのかを勝手に決めなかった。
「体調は?」
「大丈夫です」
「睡眠は?」
「眠れました」
「では、今日は面会の話はしません」
ミレイアが少し驚いたように顔を上げた。
「しないんですか?」
「何か話したいことがあるなら聞きます。でも、こちらから確認する必要は今ありませんので」
ミレイアはしばらく黙った。窓の外では夕暮れ前の風が木々の葉を揺らし、その音だけが二人の間へ静かに流れている。
「じゃあ、一つだけ」
「はい」
「声」
「はい」
「どんな声なんでしょうね」
エリスが少し笑う。
「気になりますか」
「……はい」
ミレイアは一度小さく息を吐いた。
「怖いですけど」
「はい」
「聞いてみたいです」
それだけだった。
怖いけれど、聞いてみたい。昨日より、その二つを一緒に持つことが少し楽になっているのかもしれない。
けれど、エリスはそう解釈した内容を記録へ断定的には残さなかった。
『本人より、ルークの声に関する関心を自発的に表明』
『「怖いが聞いてみたい」と発言』
残すのは、本人が実際に言ったことだけでいい。それで十分だった。
◇◇◇
同じ頃、世界の外ではルークが自分の声を思い出していた。
『こんにちは』
自分で聞いた時には変だと思った。これまで現在の自分が声を出すことなどほとんどなく、聞き慣れていないというだけなのか、それとも本当に人間の声とは違っているのか、ルーク自身にもまだ分からない。
ただ、ノルンは笑わなかった。主も声そのものを笑わなかった。あとで二人が笑うことはあったけれど、それはルークの声が変だったからではない。そのことには、少し安心していた。
不意に、ミレイアの名前が意識へ浮かぶ。
けれど呼ばない。探さない。ただ、自分が知っている名前としてそこに置いておく。
五分だけ、声だけで話す。
その五分で何を言えばいいのかは、まだ分からない。謝りたいことはあるのに、どの言葉から始めればいいのかも決まっていなかった。
それでも今日、一つだけ分かったことがある。
自分は声を出せる。
試験を始める前の怖さは三で、終わったあとは二になった。ならば、実際にミレイアと会う時にはもっと怖くなるかもしれない。六になるかもしれないし、八になって、本当に止めたくなるかもしれない。
けれど、その時は怖いと言っていい。止めたいと思ったなら、それも伝えていい。
会いたいと思うことと、怖いと思うことは、どちらか一つだけにしなくてもいい。そのことをルークは今日、ほんの少しだけ覚えた。
◇◇◇
そして自室へ戻ったノルンも、寝台へ入る前、今日聞いた声を一度だけ思い出していた。
『こんにちは』
たった一言だった。
それだけなのに、これまで文字と光でしか話していなかったルークが、急に少し近くなったように感じた。
ならば、ミレイアが初めてその声を聞く時にも、きっと五分という数字だけでは測れない何かが起こる。怖くなるかもしれないし、何も言えなくなるかもしれない。泣くことも、怒ることもあるだろうし、もしかしたら笑う可能性だってなくはない。
けれど、その全部を管理側が事前に決める必要はない。
「……何も言えなくても、戻れればよいのです」
小さく呟いた言葉が、静かな部屋へ溶けていく。
初回面会で大切なのは、何かを必ず成功させることではない。安全に始められて、安全に終われることだ。その間に一言でも相手へ届くのなら、それはルークとミレイアの二人が作るものであって、管理側が言葉まで用意する必要はない。
ノルン達が作るべきなのは、二人が会うための場所と、終わりたい時に終われる方法、そして終わったあとにそれぞれの時間へ戻るための道なのだろう。
沈黙してもいい。怖くなってもいい。途中でやめてもいい。
それでも、そこから安全に戻れる形がある。
今の二人に必要なのは、五分間ずっと話し続けられる準備よりも、何も言えなくなった時に、それでも大丈夫だと思える準備なのだ。
ノルンは灯りを消し、寝台へ身体を沈めた。
初回面会までには、まだ確認しなければならないことが残っている。音声を特定の相手へ向けた場合の影響も、名称を声に出した時の変化も、途中で安全に接続を切る方法も確かめなければならない。
それでも今日は、確かに一つ進んだ。
ルークの声が初めて現在の管理領域へ届き、ノルンと主様はその声を聞いた。たった一言の「こんにちは」は、まだミレイアには届いていない。
けれど、その小さな声は、いつかミレイアへ届く最初の五分までの距離を、ほんの少しだけ縮めていた。




